第三話 月の魔女③
シディアスと出会って一年が過ぎた頃。陽霊の国は、天が喪に服すように雨が降り続いていた。国王と王妃が、ほぼ同時期に崩御したのだ。
「やまないなあ」
ソフィアは窓枠に肘をつきながら、分厚い雲を見上げる。こうも雨ばかりだと、気分も滅入ってくる。シディアスの、太陽のような笑顔が早く見たい。早く会いたい。しかし雨が上がっても、彼が森に姿を現すことはなかった。
「ソフィア、ソフィアはどこだ⁉」
普段通り、花嫁修業という名の雑事をこなしていたソフィアを、集落の長が怒号交じりに呼んだ。何かしてしまったのだろうか、と恐る恐る家から出ようとすれば、彼女がドアノブに触れるより先に、鍵穴に閃光が迸る。弾けるように開かれた扉の向こう側には、血相を変えた長。そして背後には、この集落出身の宮廷魔法使いが二人、さらに、見慣れないフードローブに身を包んだ集団が列を成していた。そのうちの一人が、無遠慮に家の中に押し入り、少女の遥か頭上より見下ろした。
「──チッ、こんな小汚い人間の小娘に……」
小さな声だったが、その悪態は確かに、ソフィアの耳に届いていた。
「お前がソフィアだな? 共に城へ来てもらおうか」
「……どちらさまですか?」
ソフィアは自分を見下ろす大男を睨みあげる。値踏みするような不躾な視線を向けられたうえ、ずっとシディアスに会えていない今の彼女は不機嫌そのものだ。そんな少女の態度に、宮廷魔法使いの一人が慌ててソフィアの元へ駆け寄り、ほぼ暴力と言っていいほどに強く、無理やりに頭を下げさせた。
「もっ、申し訳ありません! この娘は魔力感知に乏しく……!」
「なっ、なにするの、痛い!」
「お前は黙ってろ!」
長の息子であり、集落のなかでも天才と名高い彼は普段、ソフィアにも優しく接してくれる数少ない人間だった。そんな彼に声を荒げられて、少女は黙るほかなかった。床に額が擦りつけられる痛みに呻きながら横目で彼を見遣ると、ソフィアに頭を下げさせている男自身も、額を床に擦りつけていた。
「……よい。陛下に、丁重にお連れしろと言われている」
ローブ男が満足したような笑みを浮かべると、ソフィアの後頭部から手が離される。
一体なにが起きているのか、わけもわからぬまま、ソフィアはローブ姿の列に組み込まれることとなった。
城へ向かう道中、シディアスと遊んだ森を通る。この森は、いわば人と魔人とを隔てる壁である。森の奥は魔人たちでにぎわう大きな街があるが、そこへ人間が踏み入るのは許されていない。宮廷魔法使い以外でこの森を抜ける人間は、ソフィアが初めてだった。
屈強な番人が目を光らせている大きな門をくぐると、そこは少女が想像していたよりはるかに巨大な、美しい街が広がっていた。賑やかで、いい匂いがして、色が多くて。そして目に入るすべての人々には角が生えていた。魔人の国なのだから当たり前だ。ソフィアは歩みを止めないままきょろきょろ視線を周囲にやった。どこかに見慣れた角の男の子がいやしないかと。
そこでソフィアが気づいたことがひとつ。どの魔人も、シディアスより一回りも角が小さい。これなら、どこかですれ違ったとき見つけることは容易いだろう。けれど城につくまで、彼の角を見つけることは叶わなかった。
城のなかは街の喧騒を一切受け付けない、静かな場所だった。ときおりメイドを叱る鋭い声が響く以外は、あまり気配を感じられない。
きっと、自分が魔力を感知できないからだ。ソフィアはそう思った。こうして大勢に囲まれているのに、ひとたび視線をローブから外せば、なにもかもが曖昧になる。
(シディアスはそんなこと、なかったのにな)
森のなか、太陽のように存在感を放つ綺麗な男の子。どこにいても視線が彼を追いかけてしまう、不思議な男の子。
ああ、早く会いたい。いまどこで何をしてるんだろう。魔人の城に行ったをこと伝えたら、柘榴みたいな赤い瞳をまん丸に開いて驚くに違いない。
いつも、驚かされるのはソフィアの方だった。
彼の使う魔法は、集落の人間が狩りに使ったり日常生活を便利にする実践的なものに比べて、おとぎ話みたいな魔法ばかりだった。動物とおしゃべりしたり、植物の見ている夢を覗いてみたり、ただキラキラした粉を降らせたり。ソフィアがすごいすごいとはしゃぐたびに、シディアスは嬉しそうにいろいろな魔法を披露してくれた。
彼のそばはいつも賑やかだった。陽だまりみたいな彼のそばが心地よいのは、なにもソフィアだけではない。いろいろな生き物が彼に構ってもらいたがっていた。
豊富な魔力に愛され、自然に愛され、生き物に愛される。それなのに友達がいないなんて、信じられなかったけれど。自分だけが彼の友達でいられるという優越感は、ソフィアのつまらない人生に、一筋の光をもたらしてくれた。
だから少女は彼から与えられる新鮮な驚きと心地よさに気を取られて、なぜシディアスに友人がいないのか、聞くことさえしなかった。
城のなかでもいっとう大きく、荘厳な扉の向こう側。玉座に腰かける少年を見たとき、ソフィアは自分の浅慮を呪った。
まだ森の中に泥濘を残しているあの雨は彼の涙だったのだと、どうして気づいてあげられなかったのだろう、と。