第十二話 黒の獣④
魔獣に近づくにつれ空は暗くなり、ついに雨が降り始めた。
他の魔法使いたちはそれぞれブーツを履いていたが、シディアスは裸足である。濡れた地面はぬかるんでいて、指の間を泥が通り過ぎていくのは決して心地いいとは言えない。だがシディアスはその感触に、満足そうに目を細めた。
彼がこうして城外の大地を踏みしめるのは久しぶりだ。そもそも、王に即位してからはまともに歩けもしなかったのだ。
シディアスは恍惚と悪天を見上げる。立ち止まって口を開ければ、細かい雨粒がそのまま口内を伝い喉を潤した。
「事前にも説明した通り、我々は手を出すなと仰せつかっている」
シディアスの妙な動きには言及せず、鎧にくぐもった声で騎士は言った。
「配置につけ。大きくてもやることは同じだ」
その言葉で、遠征部隊は散開した。
騎士十五名、魔法使い三十名、最後にシディアスで構成されたこの部隊において、攻撃を許されているのはシディアスのみである。
騎士は魔法使いを守り、魔法使いはシディアスの治療に専念する。魔獣を殺すまで、帰還は許されない。
女王にその旨を指示されたとき、隊長を務める騎士の内心は怒りで埋め尽くされていた。
魔獣討伐は唯一、角で区別される階級制度から抜け出す方法である。角の大きさに関わらず、魔獣を討伐した魔人には金の国章が与えられ、それを有する者には貴族階級の待遇が約束される。さらに討伐数を増やせばそのぶん箔がつき、それなりの地位に就くことも可能だ。
男は、角の大きさに胡坐をかいて研鑽を怠る魔人共に辟易としていた。だからこそ、魔獣討伐という死と隣り合わせの、誰もやりたがらないような仕事に長年勤め、有望だが燻っている魔人たちに可能性を与えてきたのだ。
今回は大物ともあって、多くの魔人たちが浮足立っていた。手柄を上げて未来を切り拓こうという若者が多くいたのだ。
けれど、彼らを連れていくことはかなわなかった。女王が同行を許可したのは彼女直属の近衛兵と、治癒専門の魔法使いのみ。そのうえ攻撃を許されたのは、彼女が執心していると噂のシディアスのみときた。
『手柄は全てシディアスのものに』
と、男には聞こえてならなかったのだ。だから腹が立っていた。──この異様なまでに巨大な魔獣を目の当たりにするまでは。
いまはただただ、シディアスが憐れでならなかった。同時に、あの怪物と相対せずにいられることに、安堵した。
シディアスの腰から伸びる鎖は、遠征のために長いものが用意された。軽量だが頑丈で、彼の動きの邪魔にはならないが逃げることは許さない。少年の動きに注視する鎖持ちを、魔獣から目を離さず騎士たちが守護する。さらに物陰に身を隠した治癒専門の魔法使いたちが、蜘蛛の糸のようにシディアスにむかって魔力を伸ばし、治癒に備える。
魔獣は街の中心部から動かず、無数に生える細い触手を鞭のように、あるいは蛇のようにうねらせて周囲の様子を探っていた。一本いっぽんが意思を持つかのように、動きに規則性がない。触手の先には魔人の血肉を咀嚼する口と、切れ込みのような鼻孔が見られる。
ゆらゆら動いていたそれらは、シディアスがある一定の場所に踏み込んだことにより一斉に首をこちらへ向けた。肉を裂いた傷口のようにも見える赤い口が大きく開き、彼に向って威嚇した。
(ああ、やっぱり。縫合薔薇を生けた花瓶みたいだ)
魔人からすれば不快感を掻き立てるだけの醜悪な姿に、シディアスは眼差しを柔らかくする。
もう、遥か昔のことのように思える森で過ごした日々。それこそソフィアと出会うより前から、この世界のあらゆるものはシディアスと共にあった。虫も、花も、動物も。彼らはシディアスを愛し、またシディアスも彼らを愛していた。
なかでもいっとうシディアスが可愛がっていたのが、生き物に寄生するナートと呼ばれる魔法植物だ。
寄生と聞くと物騒だが、彼らは宿主に痛みを与えない。栄養を分けてもらう代わりに傷の治癒を早めるなど、共生関係を築いていた。あらゆる動物の体内に潜り込み、彼らは世界各地に分布している。
シディアスはそんなナートの見る夢を覗くのが好きだった。記憶、といった方が正しいかもしれない。彼らは植物でありながら海を泳ぎ空を飛ぶ。宿主に乗って世界を冒険する、その記憶を鑑賞するのが、彼の楽しみだった。
シディアスが過ごしていた玉座の間には、寿命を目前にし寄生能力を失ったナートが花瓶に生けてあった。彼よりうんと年上のそれは様々な冒険を懐かしむように夢で振り返りながらゆらゆら揺れる。
シディアスの目には、その姿と目の前の怪物が重なって見えた。
──だから。
「何があったの?」
対話などという、誰も予想だにしない行動に出たのだった。
もちろん魔獣が対話に応じるわけもなく。
シディアスに向けて、一斉に触手が襲い掛かった。
魔法使いたちに緊張が走る。
少年は無抵抗のまま、魔獣の触手に呑まれていった。
魔法使いたちはシディアスの姿が見えなくなり、慌てて治癒魔法のため魔力を込めた。同じ詠唱が各所で一気に唱えられ、張り巡らされた魔力の糸を伝って強い光がシディアスの元まで駆け抜ける。
けれど、そのまま治癒の手応えなく、触手の蠢く場所から勢いよく血飛沫が噴き上がった。
鮮血が、雨水より強く地面を叩く。その光景に、誰もが彼の死を悟った。
シディアスの死は、この部隊全員の死も同義だった。この巨獣を運良く屠れたとしても、王都に戻れば女王の制裁が待ち受けている。
騎士の一人が、その恐怖に奇声を発した。単騎では敵わないというのに、剣を抜き振りかぶりながら魔獣へと突っ込んでいく。
半狂乱になった彼を止めねばと、隊長は慌てて後を追いかけた。が、彼は数歩歩いただけですぐに立ち止まった。
目の前で、魔獣が破裂したのだ。肉片が勢いよく飛び散り、幾つかが騎士に直撃した。幸い、肉片は細切れになっていたために大事には至らなかったが。
「一体何が……」
降り注ぐ肉塊から身を守りつつ、彼らは一か所を注視する。血の雹がやむと、肉塊の中にある影を見つけて息をのんだ。
雨が血を洗い流す。返り血に染まっていた髪が、黒々とした色を取り戻していく。
頃合いを見計らったかのように、雨雲が晴れた。
一筋の光を肉塊の中で浴びる様はまるで、黒い獣が、肉の殻を破って生まれたかの
ような光景であった。
◇
「──以上が、遠征での成果となります。魔獣の亡骸は現在、研究所に送り詳しい調査をしておりますが……白銀色の魔角の破片が発見されました。十中八九、月の魔女の仕業で間違いないとのこと」
「そう」
ルナは玉座にゆったりと腰かけ、報告に耳を傾けながら手元の資料に目を通していた。
「あなたから見て、シディアスはどうだった?」
紙を捲る音と同時に視線が寄越され、男は言葉を詰まらせる。先日の光景を脳裏に浮かべるものの、いまだに何が起きたのか、理解しきれていなかったからだ。
「……正直に申しますと、私にはなにもわかりませんでした。彼が魔獣に食い殺されたのかと思った直後、魔獣の方がバラバラになったのです。一瞬の出来事でした」
その答えに、女王は頷いてから立ち上がった。滑るように窓際まで歩いていくと、辛うじて見える古びた塔に視線を送る。
「シディアスの使う魔法は、私たちとは種類が違うの。まず彼には詠唱が必要ない。魔法を放つ方向、質量、範囲。魔力を魔法に変換する式を口にすることは基礎であり、それが出来なければ不発に終わるうえ著しく魔力を消耗することになるわ。ただ、修練を積むことによって詠唱の省略くらいは出来る。何度も同じ魔法を繰り返し、反射的に放てるよう体に刻みつけてね。けれど、シディアスの場合は頭で『こうしたい』と思い浮かべるだけでいいの。魔力が勝手に、意思を持っているかのように彼の意図を汲んで形を変えるのよ」
「せ、僭越ながら女王陛下。魔力とはエネルギーであります。そのようなこと、にわかには信じがたく……」
男は、ルナに揶揄われているのだと思った。だって、魔力がまるで生き物のように言うものだから。冷や汗をかきながら意見する男に、ルナはやわらかく微笑んだ。
「そうね。その考え方で概ね正しいわ。けれどもう一歩深く学習してみると、魔力がいかに神聖で神秘的なものなのか、理解できるはずよ。魔力学は奥が深い研究分野なの。──そうそう、魔法学院都市ガルテンから、一人優秀な先生をお招きしているのよ。あなたも一度、お話を伺うといいわ。魔獣討伐で叩き上げてきた魔人たちにも、学習の機会を与えなければと思っていたところなのよ」
それは言外に、お前たちには学がないと言っているようなものだった。魔人で専門的な知識を学習できる機会は貴族階級以上とされている。そんな理不尽な階級制度から抜け出したくて命をかけて魔獣討伐に赴いている戦士を束ねる男にとって、彼女の言葉は侮辱にも等しかった。
(俺たちだって、好きでこんな仕事を引き受けているわけじゃない──!)
貴族へのひがみ。栄光ある魔獣討伐が、いつしか好待遇を受けるためだけの庶民の仕事となってしまっていることは、なんとなく気がついていた。口先では褒めそやす貴族たちも、本心では自分たちのことを都合のいい捨て駒くらいにしか思っていないことに。
けれど、それらを認めてしまえば、彼をここまで導いてきた矜持が崩れてしまう。自分を信じてついてきてくれた若者たちにも、示しがつかない。
「……仰せのままに」
男は様々な思いを飲み込んで、彼女より小ぶりな角を持つ頭を深々と下げた。
騎士が下がるのと同時に、宝飾品が揺れる角帽と派手な刺繍の施された学士服を纏う優男が玉座の間に通される。青い髪と金の瞳が印象的な青年には、あまり似つかわしくない太く逞しい巻き角が耳の上から生えていた。
「ごきげんよう、女王陛下。お招きいただき光栄です」
青年は帽子を脱ぎ、恭しく頭を垂れる。
「ロアネス様。こちらこそ、ご足労いただきありがとうございました。本来であれば正門までお迎えに上がらなければならないのに……。お疲れでしょう、どうぞお掛けになって」
「ではお言葉に甘えて」
ロアネス・グレゴリー。彼は若くして次期学院長候補と名高い実力者である。これまで彼によって開発された魔法はそのすべてが殺傷能力に長けたものであり、人好きのする笑みを浮かべている裏の顔は野心と支配欲で構成された、人情というものがまるでない恐ろしい魔人だ。
そんな恐ろしさを欠片も感じさせない笑顔で彼が椅子に腰を下ろすと、ルナは玉座に座らず、ロアネスの隣に腰掛けた。
「学院長はお元気かしら。以前不躾な真似をしてしまったから、今回の御招待にもいい顔をなさらなかったでしょう?」
ルナは円卓の間での出来事を思い返す。あの行動は、決して褒められたものではなかった。ガルテンの最高権力者である学院長も、悪態をついて出ていったのを覚えている。
「はは、元気ですよ。陛下の弱みの一つでも握ってこいと言うくらいには」
「まあ!」
ルナはわざとらしく目を丸くして驚いてみせる。
「ですが、魔力硬化症が進行しつつありまして。肌の魔宝石を削って治療に励んでおりますが、体内は手の施しようが」
「そう……まだお若いのに」
ルナは悲しそうに睫毛を伏せた。
魔力硬化症は、魔人がやがて辿り着く不治の病──あるいは寿命である。寿命が近づくと肉体の一部が魔宝石に変質し、やがてすべてが魔宝石となるのだ。その後太陽の獣の亡骸と同じように地に埋められ、魔力を供給する❝魔鉱脈❞の一部となり、大地の礎となる。
本来、魔力硬化症は二百歳を超えたあたりから緩やかに進行する。けれど、学院長の齢はまだ、七十を過ぎたばかりだった。
魔人はかつて、それはそれは長命な生き物であった。ゆうに三百年は生きていたという文献も残されている。けれど、最近は百年も生きれば大往生というほどに、彼らの寿命は短くなりつつあった。
「人間のせいで大地から魔力が干からび、それを補うように、世界は魔力をもたらす魔宝石として魔人たちの命を吸い上げようとしている……私にはそう思えてなりませんわ。このままいけば、百年もしないうちに私たち魔人族は滅びることになる。だからこそ、人間を排除しなければなりませんの。そのためには、魔人ひとりひとりの基礎能力を上げる必要があります。ロアネス様をお呼びしたのも、豊富な知識をどうかご教示いただきたいと思ってのことですわ」
「ええ、喜んでお引き受けします。書簡を受け取ったその日から、そのつもりで様々な準備もしてまいりましたから。ただ……一つだけ、条件があるのです」
ロアネスはそのあとしばし考え込むようにして口を閉じた。それが駆け引きのための演技なのか、はたまた本当に言い出しにくいものなのか、悟らせないような表情で。
焦らすように黙っていた彼がようやく口を開く。囁くような声音で告げられたそれに、ルナは目を瞠った。
「私の技術をすべて捧げる代わりに、魔獣討伐の任に私も同行させてほしいのです。──その果てにある、魔女討伐にもね」
ルナはどんな高価な要求も受け入れるつもりだった。しかし、ロアネスの提案は想定の範疇を軽く飛び越え、滅多に歪みを見せない白銀の柳眉が顰められる。
「私の目的はただひとつにございます、陛下」
ロアネスは女王の手に自身の手を重ねる。氷のように冷たいその肌が、彼の熱に侵されていく。
「月の魔女レヴィアの知識が詰まった生ける魔導書、不死の魔獣の身柄。それが条件です」




