第十話 黒の獣②
獰猛な魔法生物を手懐けるとき。それはしばしば、虐待とも呼べる行き過ぎた躾けを要することもある。したがって、使い魔にするときは必ず身の丈に合った魔法生物にしなければならない。格を見誤れば、いつか報復を受けることになるだろう。
多くの凶悪な魔法生物を手懐けてきた魔法使いは、シディアスを前にして震え上がった。これを飼おうなどという、女王ルナの胆力に。
「根気がいりますぞ」
「わかっているわ。どうすればシディアスを従順にできるかしら」
「よろしいのですかな? 一歩間違えれば廃人になりかねない手法でございます」
ルナが構わないと頷くと、老爺は顔を険しくしながらその手法を説く。
「まずは音と光が一切届かない場所をご用意ください」
「次に頑丈な鎖と枷を。周りを緩衝材で覆ったものが望ましい」
「水と食事は限りなく飢えさせてから。従順になるまで、あなた様がお与えください」
幸い、それらはすべて簡単に用意できた。
城の敷地内にある古い塔。かつて拷問場として造られたそこは窓がないため光は届かない。さらに、シディアスが怒りに任せて無闇に魔法を放つことを考慮し、幾重にも魔法障壁を展開した。塔の周りには数人の魔法使いを常駐させ、内部の障壁の補強に務めさせる。
頑丈な鎖と枷には、擦れたときに音がならないよう特別な加工を施した。念のため黒い布で目元を覆えば、光も音もない世界の完成である。
最愛の少女を喪った悲しみから逃れたいがために錯乱状態にあったシディアスは、徹底的に管理された無の世界により、別の狂気に陥ることになった。
自分の輪郭が曖昧になり、地面に膝をついているのにも関わらず上下がわからなくなる。虚空に放り込まれたかのような恐怖に、彼は絶叫しながら魔法を繰り返し放った。喉が擦り切れるまで叫んでも、どれだけ魔法を放とうとも何の反応もない。異様な孤独は精神を著しく摩耗させた。そのうえ、とうに死を受け入れていたはずのシディアスだが、極度の飢餓状態はむしろ生きることを望んでいるように苦痛を訴えた。
孤独と飢餓から逃れる術は眠ることだけだった。けれど一度眠って起きたとしても、闇が覆い尽くす世界では自分が覚醒状態にあるか知る術はない。
さらに彼を追い詰めたのは夢にまで見るソフィアの最期だった。異形の姿となった少女が、同郷の魔法使いによって肉塊に変えられる。仕方のないことだった。人間から魔獣に堕ちた者は、魔人の角でしか満たされない空腹を抱える。知性はないが、魔人と同等の力を持つため決して侮れない脅威であった。
しかしその脅威を初めて生み出したのは、ほかでもない魔人たちであった。魔力を貪る人間でも、魔人のように魔力を生み出す生き物にできないか。その試みの賜物が、魔力も魔人も貪る凶悪な怪物の誕生である。
魔獣を駆除するのは、脅威を取り除くためだけではない。かつては魔人と同じように思考し、生活を営む生き物への、せめてもの情けだ。
ソフィアは優しい女の子だった。優しくて、平凡な女の子だった。シディアスと出会わなければ、いま頃はつまらなくとも、愛されずとも人として生き、数十年後人として死ぬことが出来たのだろう。
十四歳の人間の女の子はシディアスと出会ったせいで、苦しんだ末に怪物として葬られてしまった。
錯乱状態にあったのは、その罪悪感に耐えられなかったから。彼女のいない世界に生きる意味を見出せなかったから。
いっそ殺してくれとさえ思うのに、飢えと渇きは生にしがみつく。
三日で、彼は衰弱し意識を失った。短いように思えるが、時の流れのわからない世界では、苦痛の終わりが見えない。先が見えない恐怖もまた、彼を蝕んでいた。
目覚めたとき。そこはやわらかなベッドの上。久しぶりに明かりのある場所で目が眩んだが、慣れてくると、見覚えのない豪奢な天蓋がぼんやりと輪郭をもってくる。
意識が完全に覚醒する前に、シディアスの唇に何かが触れた。
生ぬるい液体。ひび割れた大地に染み込むように、乾燥しきったシディアスの唇が潤っていく。
水だ。
そう頭が理解した途端、彼は口を開けた。唇に柔らかいものが押し当てられ、その割れ目から水が流れ込んできている。
シディアスはそれがなんなのかわからないまま、もっともっとと水を出すやわらかいものに吸い付く。しばらくすると水は出なくなり、シディアスが渇きに呻くと、どこか馬鹿にするような笑い声が降ってくる。
「ふふ。もっと欲しい?」
その声に、シディアスは目を見開いた。朧げだった視界が一気にその形を浮き上がらせ、目の前で微笑むルナの顔も、また鮮明に映す。
「いまあげるからね」
彼女はそう言って、持っていた吸い飲みに口をつける。本来シディアスに向けられるべき吸い口を含み、口内に水を溜めると、シディアスに向き直る。
そのまま覆い被さるように、桃色の唇が彼の薄い唇に触れた。
「──っ!」
シディアスは驚いて彼女を力の限り突き飛ばす。けれど、この数日飲み食いを禁じられていた彼の体は風が撫でるくらいの力しか出せず、抵抗にもならない。されるがままに唇を重ねられ、その隙間から水が流れ込んだ。
「──っぷは」
シディアスは顔を思い切り逸らした。溢れた水が顎を伝い、シーツに染み込む。
「あら、もういいの?」
ルナは口元を拭いながら、挑戦的な眼差しを向ける。それに、少年は心底苛立ちを含んだ声で唸った。
「なんのつもりだ」
その言葉には王としての名残があった。彼は唯一威厳を保っている目を鋭くして、彼女の言動を咎める。
「私はただ、あなたを救いたいだけよ。憐れなシディアス陛下──いえ、私のシディアス」
ルナは彼の繊細な顎筋を指先で辿りながら、濡れた肌を拭う。
「あなたはもう王様じゃない。角を折られた無力な生き物よ。そして、あなたの代わりに私がこの国の女王になった。同時に、あなたの所有者でもある」
顎筋を撫でていた指は、するする下がると首の付け根に到達する。そこには所有物であることを示す鉄の首輪が嵌められていた。
「ねえ、シディアス。あの人間の娘のことは忘れて。これからは、私のためだけに生きて」
「何を馬鹿なことを──」
「頷いてくれたら、飲み物もご飯も好きなだけ与えてあげる。もうあそこに戻るのは嫌でしょう?」
カリカリと、綺麗な爪が無骨な首輪を引っ掻いた。わかりやすい脅しだったが、シディアスの答えは決まっていた。
「殺せよ。僕はソフィア以外愛さない」
けれどその反応はルナの予想通りのものだったらしい。さして驚く様子もなく、彼女は長いまつ毛を伏せて静かに笑った。
「もういない相手をどうやって愛するの? あなたの高貴な角を折った相手に、操を捧げるのは果たして美徳かしら? 傍からすれば、あなた随分と滑稽よ」
首輪を弄んでいた指で、次は無防備な角を撫でる。普通、魔角はどれだけ親しい間柄でも滅多に触れさせることはない。ましてや、外皮も何もない、剥き出しの部分を撫でられることなど、心臓を直に触られているにも等しい。
肌が粟立っているのを見て、ルナは目を細めた。
「いつか、あなたから強請るようになるのが楽しみだわ」
名残惜しそうに角から手を離した彼女は再び吸い飲みを持つ。今度は直接、吸い口を彼に向ける。
シディアスはしばらくそれを睨んでいたが、観念したように口を開けた。
「いい子」
ルナの甲斐甲斐しさを訝しみながらも、渇きにあえぐ体はそれを受け入れるほかなかった。




