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プロローグ 太陽が割れた日

「僕を裏切ったのか……?」

 悲痛な声が玉座の間に反響する。十四歳になる同年代の魔人に比べ、貧相と言ってよいほどに華奢な体躯をふるわせるのは、魔人族を統べる王、シディアスであった。

 黒い前髪からのぞく深紅の瞳は、目の前の、数刻前まで愛を囁き合っていた人間の少女に向けられる。

 耽美な生き物として知られる魔人族のなかでもいっとう美しいシディアスが愛でていたのは、特段器量がよいわけでも、突出した魔法技術をもつわけでもない、凡庸を極めるただの娘であった。

 少女の名はソフィアといった。くせのある赤毛と、そばかすの浮いた肌という特徴以外特筆すべきことはなかった。しかしいまの彼女は、それまでとはまるで別の生き物へと変容を遂げていた。

 赤毛は太陽の如き黄金に。くすんだ肌は抜けるような白に。藻の浮いた池のような緑の瞳は、エメラルドの輝きを放つ。

 ただの人間の娘から、少女は、魔人の如き

美しさを手に入れていた。

 がり、がり、と。氷をかみ砕く音に似た咀嚼音が、彼女の犯した罪を物語る。

「人間の……害虫の分際で、よくも……よくも僕の角を!!」

 シディアスは薄い腹を必死に膨らませて咆哮する。彼を、魔人の王たらしめていた巨大な枝角は、見るも無残に根元からへし折られていた。その残骸はいま、ソフィアの両手に収まっている。

成熟した牡鹿の、あるいは年齢を重ねた巨木の枝のような風格をもつ立派な【魔角】であった。外皮は木のそれに似ているが、内側は絶大な魔力の結晶でひしめいている。不格好に折られた断面からは、ぽろぽろと、魔力の結晶が零れ落ち大理石を切なく転がっていた。

 ソフィアは虚ろな表情で手元の角にかぶりつく。本来であれば歯の方が欠けてしまうというのに、彼女の歯は簡単に齧り取って見せる。それは魔人にとって、抉り取られた心臓を貪られているにも等しい光景であった。

「やめろ……やめてくれ……」

 まだシディアスの頭に辛うじて残っている角の断面からは、魔力が光を放ちながら空気中に霧散していた。生命力そのものである魔力が、作られたそばから逃げていく。その感覚はシディアスが初めて触れる恐怖だった。

 魔力を失い、肉体が体調不良という名の警鐘を鳴らす。激しい眩暈と悪寒に、少年はたまらず嘔吐した。目を開けているのに、自分がどこにいるのかさえわからなくなる。ずるずると玉座からずり落ちたシディアスは、息を浅くしながら這いつくばった。助けを求めるように、吐しゃ物まみれの手を宙に伸ばす。頼りない腕は、虚しく空を掻くだけだった。

「……あ、れ? シディアス、どうして……?」

 ゴトン! と大きな音を立て、角が床に落ちた。同時に、ソフィアの瞳がシディアスに向けられる。

「なんで私、こんな……。角を折るだけでよかったのに……そうすれば、シディアスが助かるって言われたのに」

 シディアスの苦しそうな顔と、自分の手を交互に見遣る。すでに彼女の手は人のそれではなくなっていた。以前の丸い爪は跡形もなく、猛禽類を思わせる鉤爪が伸びている。

 ソフィアの肉体の変容は続いていた。人間の体が、どうにか魔力に適応しようともがいている。まだ人に近い姿だった彼女の肉体は、激痛をともなって更なる変貌を遂げる。そのさまを、シディアスはただ茫然と見つめることしかできなかった。なにもかもが曖昧になっていく意識のなかで、その光景だけがくっきりと形をもつ。

 少女はシディアスの名を必死に叫んでいた。けれどすぐ、彼女の喉は嗚咽と血反吐を吐き出すだけの器官となり果てた。

「そ、ソフィア……?」

 ぼこ、ぼこと少女の背中が不自然に隆起する。彼女は呻きながら前傾姿勢になり、両腕をついた。鉤爪のあった手は、骨の折れる音と共に変形し蹄のように硬くなる。

 やがて少女は、黄金の毛皮をもつ魔獣となった。美しいが、だらしなく舌を垂らす姿からはまるで知性を感じなかった。

 人が、魔人の力欲しさに角を口にすることがある。魔人の死体を掘り起こし、角を砕いて飲み込むのだ。一時的にだが、そうすることで凄まじい魔力を手に入れられるのは事実だった。けれど、そのさきに未来はない。

「どうして……どうしてこんなこと……」

 シディアスの愛した人間の少女は、もうどこにもいなかった。

 彼が意識を手放すのと同時に、魔獣も血溜まりに倒れた。



 後日、目覚めたシディアスの傍らには、少女の遺品として、血にまみれた黄金の体毛がひと房、上等な布にくるまれて横たわっていた。


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