トイレかよ
歩行者信号が点滅していた。走れば間に合いそうではあったのだが、やめておくことにした。ちょうど横断歩道の前で、若い女性が渡るのを躊躇っていたからだ。青色の灯火が点滅し始めたら、道路の横断を始めてはならないというルールがある。そのルールを厳密に守る人が目の前にいたので、その人を追い抜かして道路を渡るのは少し気が引けたのだ。急ぎの用事があったわけではないので尚更だった。
程なくして、歩行者信号が赤に切り替わった。その瞬間耳に入ってきたのは、信号待ちをしていた車のエンジン音ではなく、甲高い大きなクラクション音だった。何事かと見ると、横断歩道を堂々とわたる女性の姿が。直前まで目の前にいた女性だった。クラクションを鳴らされた理由が分かっていないのか、不思議そうな顔で特段慌てる様子もなく、歩道を渡り切ってしまった。
「すいません、ちょっといいですか」
その後から追いついて、思わず声をかけた。正義心とかそういうものではなかった。ルールを忠実に守っていると思った人が、どうしてそんな行動を起こしたのか気になったのだ。
「すいません、あの、いいですか」
「あ、私ですか。はい、なんでしょう」
「さっき、赤信号で渡りましたよね」
「あ、はい」
「ダメですよ。危ないじゃないですか」
「あぶ・・・ない・・・?」
女性は理解できないようで、狐につままれたような顔をした。
「当たり前のことじゃないですか。何が分からないんですか。赤信号なのに渡ると、車に撥ねられますよ。」
「なんで車に撥ねられるんですか?」
子供でも理解していそうなことを、この女性は分かっていないようだった。あきれて力が抜けた。
「赤信号は渡ってはいけない合図だからです。あの時間は自動車が走行するんですよ」
説明した瞬間、女性の目が、ぱっと輝いた。
「ああ、なるほど、だからかあ。ありがとうございます。教えていただいて」
「・・・良かったです。理解していただけて」
「はい、道理でおかしいと思ったんですよ。だから、青信号で男性のみならず、女性まで道路を渡っていたんですね。なるほど、合点しました」
「いや、意味が分からないのですが・・・」
女性は照れくさそうに頭を掻いた。
「赤信号は、女性専用だと思っていたんです」
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