ぼくが車に乗れない理由
良かったら是非ご覧ください。
やっぱりダメだった。
せっかく従妹のおじさんが、遊園地に連れて行ってくれるチャンスだったのに。
園内には新しいアトラクションが出来て、クラス内でも話題の遊園地だったのに。
やはり行くことが出来なかった。
ぼくは、小学6年生でスポーツも勉強も出来るほうだ。
体格に恵まれていることもあり、この間の運動会なんて応援団の団長にも抜擢されるほど、クラス内からも信頼されている。
ついでに、女子からするとイケメンらしいから女の子にもそこそこもてる。
だけど、どうしても苦手なものがある。
どんなに頑張っても耐えられないことがある。
ぼくはどうしても車に乗れなかった。
理由はもう分かってる。
ぼくには、父さんがいない。
まだ3年生の誕生日に交通事故で亡くなったんだ。
全てぼくのせいだ。
その当時、ぼくは誕生日プレゼントには子犬がほしいとねだり続けていた。
父さんは、ぼくが子犬の面倒も自分自身のこともしっかりやると約束するなら、飼ってもいいと言ってくれたので、ぼくは胸を張って約束するとちかった。
遅刻はする、宿題はしない、だらしないぼくは、これを機に生まれ変わるつもりだった。
子犬がいれば全てうまくいくと信じていた。
だけど、誕生日前日から、父さんは風邪で仕事も休んで寝込んでしまった。
子犬ももちろんまだ家にはいなかった。
朝早く、ペットショップに行って子犬を連れてくるつもりだったらしい。
母さんは、2・3日すればすぐに治るんだからそれまで待っていなさいと言うけれど、ぼくは、どうしても待てなかった。
早く、早く、子犬に会いたい。
あのぬいぐるみのようなモフモフした子犬と一日も早く触れ合いたい。
ぼくは、寝込んでいる父さんの周りをうろうろしていた。
「父さんまだ? まだ元気にならないの?」
病気で寝ている父さんにだだをこね始める。
「いいかげんにしなさいっ。」
ついにお母さんも怒りだした。
「これ以上、駄々をこねたら子犬も飼ってあげないわよ」
「え???」
それは、まずい。
ぼくは、体が凍り付いた。
「…、ごめんなさい」
仕方なく、とぼとぼと自分の部屋に戻ろうとすると、父さんがふとんからむくりと起き上がり、
「ふー、だいぶ、体調が戻ってきたな」
父さんは、首を横に揺らしてポキポキトと骨を鳴らした。
「ごめんさない、あなた、この子がうるさかったでしょう?」
お母さんが、まったくもう、という顔でこちらを見ている。
ぼくはなにも言い返せず、黙って下を見るしかない。
「いや、いいんだ。そもそも父さんが約束を破ったから悪いんだ。ごめんな。ユウヤ」
父さんは、ぼくの頭を無造作になでて、笑っていた。
「よし、今からでも遅くない。俺、子犬をもらってくるよ」
「え、今から?」
母さんは、無茶だと言わんばかりの驚いた顔をしている。
その反面、ぼくは消え変えたロウソクが再び燃え出すように、心が明るくなった。
なんだ、結局、子犬に会えるんだ。
「でも、まだ病み上がりなんだし…」
母さんは、しつこく父さんを止めようとする。
「大丈夫、大丈夫、すぐそこだから」
父さんは、早々と着替えて、
「待ってろよ、すぐに連れてきてやるからな」
そう言って、車に乗りこみ、ペットショップへ向かった。
それが、父さんの最後の言葉だった。
お店から家に帰る途中の事故だった。
雪で凍った道路にタイヤが滑らせ、そのまま壁にぶつかったと近くを通りかかった人が証言したらしい。
ぼくが、だだをこねなければ、父さんは死ななかった。
「これからは、二人で力を合わせて生きていこうね」
母さんと誓いあった。
正直、ぼくは不安だった。
これからどうなるんだろう。
父さんを失い、暗く元気の無い我が家にゴールデンレトリーバーの子犬が届けられた。
事故当時、父さんが連れてきてくれた子犬で傷一つなく奇跡的に助かったらしい。
ぼくは寒さで、ぶるぶる震えているその子をそっと抱きしめる。
しばらくすると、ほっとしたように、すやすやとぼくの腕の中で眠りに着いた。
ぼくは、はっとした。
この子犬は、ぼくを頼ってくれている。
ぼくは、この小さな命を守りたい。
母さんの力にもなって行きたい。
そして、父さんとの約束を守る。
それから、ぼくは大嫌いだった勉強も体育も必死で努力した。
寝坊して遅刻しない様に、夜も決まった時間に寝る様にした。
おかげで、成績や学校の先生、クラスメイトの信頼もぐんぐんあがり、先に説明した通り、運動会の応援団長まで任せされた。
子犬もどんどん大きくなった。
名前は、パンに決めた。
ぼくは、食パンが大好きだ。
毎朝、決まって食パンを食べている。
そのたびに、パンはよろよろと立ち上がって欲しがっていたからだ。
パンもすくすくと成長しているのが、凄く嬉しい。
そして、父さんとの約束を守れている自分が、少しだけ好きになれた。
とはいえ、やはり車に乗れないと言うのは、やはり不便だ。
車に乗ると、急に父さんの姿を思い出してしまう。
あの事故に遭った雪の日、ぼくのわがままのせいで…。
父さんが元気になるまでちゃんと我慢していたら…。
父さんは、天国で怒ってるかもしれない。
だから、一言だけ伝えたい。
ごめんなさいって、あやまりたい。
そう思うと、体が震え出して、涙が止まらなくなる。
その日から、ぼくは車に乗れない体になってしまった。
従妹のおじさんも、何度もぼくを元気づけようと従妹たちと一緒に、海や映画館、ショッピングモールなど子供が大喜びする場所へ連れて行ってくれようとした。
その陰には、母さんがこっそりおじさんに頼んでくれていたこともぼくは知っていた。
今日で、事故から3年近く経つから、もしかしたらと思ったけどやっぱりだめだった。
今日までどこに移動するにも、自転車と電車を使って移動していた。
小学生の僕にとって、車に乗れないということはそんなに大した問題ではなかった。
自転車さえあれば、友達とどこにでも行けたし、仲間はずれにされることもない。
ただし、これから中学、高校へ進んだころには遊ぶ範囲も広くなるだろうし、人間関係にも影響が出てきそうだから、やっぱり心配はある。
どうにかしないと…。
できれば、小学校を卒業するまでには克服したいけれど。
直前まで来ている冬休みの間に、なにか解決の糸口が出来ればいいけど。
間もなくして待ちに待った冬休みに入った。
クラスメイトで友達のタケシとお互いの家に遊びに言ったり、たまにパンも交えて公園で思う存分走り回って遊んだり、それなりに楽しい冬休みを過ごすことはできた。
タケシは、幼稚園の頃からの幼馴染みで、家族ぐるみの付き合いをするほど仲が良い。
だから、当然、ぼくの父さんが亡くなったことも知っている。
その時は、おすすめのマンガを貸してくれたり、自宅に呼んでアニメを見せてくれたり、なんとかぼくを元気づけようとしてくれた。
タケシは、本当に友達思いでやさしい奴だった。
ぼくが、車に乗れないこともクラスの中で唯一知っている人物でもある。
そのことで馬鹿にしたりせず、誰にでも苦手なことがあるから、気にしなくて大丈夫だと、何度も励ましてくれた。
友達やパンがいればぼくは寂しくなんかない。
今のままで、十分幸せだ。
結局、車に乗るための努力は何もしないまま、冬休みはあっという間に終わってしまった。
残すのは、あと3学期だけ。
もう、無理だな。
今日は、始業式だ。
そういえば、冬休み直前、5年生からの担任の中村先生が3学期から産休にはいるから、新しい先生がくるって言っていたな。
帰りのホームルームは、新しい先生を紹介する時間になった。
「えーっと、明日から、わたくし中村は産休に入るので、新しいここの担任の先生を紹介します」
みんな興味津々で、待ってましたと言う顔をしている。
クラス全員が新しい先生は待機しているであろう廊下に目をやっている。
「それと、3学期から転入してくる新しいお友達も紹介したいと思います」
転入生?
それは、初耳だった。
一気にクラス中がどよめいた。
「と、言いたいところですが、その子は、体が弱くて今日は学校に来ていません。名前は、河野ゆかりさん。体調が良くなって学校に来た時は皆、仲良くしてあげてね」
クラスのみんなは、どんな子かもわからないのにと戸惑いながらも、はい、と返事をするしかなかった。
女子グループでリーダー格の田村なおこはイケメンだったらいいなあ、と、となりの女の子と盛り上がっている。
その声が、中村先生にも聞こえたらしく、
「田村さん。その子は女の子よ」
「ちぇっー、つまんないな」
みんな、くすくすと笑っている。
転校生のことも気になるけど、まずはこれから入ってくる先生だな。
一体、どんな先生だろう。
どうか、優しい先生でありますように。
では先生、自己紹介をお願いします。
「はいっ」
一目見てぼくは、目を疑った。
???
あまりにもぼくの知っている人にそっくりだった。
あの顔、あの声、あの筋肉のついた体つき、あの白髪交じりの短髪、あまりにも似ている。
…父さん?
いや、違う、違う。
父さんのはずがない、もう死んでいるんだから。
だけど、そっくりだ。
「なんだ。今度は、おじさんか」
田村のがっかりする声が聞こえてきた。
皆から見たら、どこにでもいる普通のおじさんだ。
だけど、父さんを無くしているぼくに父さんそっくりの人が現れた。
ぼくにとってこれは、大事件だ。
ふと、背後から視線を感じ振り返る。
一番後ろの席に座って居たタケシがこちらを向いて口をパクパクさせていた。
そうかタケシなら、父さんのことを覚えていたはずだ。
部屋に飾ってるぼくと父さんの写真も何度も見ている。
タケシも一緒に驚いてくれることにぼくは少しだけほっとした。
「今日から中村先生の代わりにこのクラスの担任になる浦上と言います。みなさん、よろしくお願いします」
浦上先生か。
やっぱり、苗字も違うし、別人なのは当たり前だけど、やっぱり、父さんにそっくりだ。
ぼくは、ホームルームが終わるまで、自分たちの軽い自己紹介が終わってもずっと浦上先生のことを見ていた。
下校時間になり、下駄箱で靴を履き替えると、タケシがあわてて追いかけてきた。
「おい、ユウヤ待てって。一緒に帰ろうぜ」
「あ、タケシ今日、サッカー部の練習は?」
なるべくぼくは、冷静を保とうとした。
「今日まで、部活の休みなんだよ。それよりあの新しい先生、見たか?」
ぼくは、ドキッとした。
「ユウヤの父さんにそっくりだった」
ぼくは黙ってうなづいた。
「だよな。だよな」
タケシはぼくに指を差してやっぱりなといわんばかりの顔をした。
「でも、別人だから」
できるだけ、冷静を貫くぼく。
「まあ、そうだよな」
「そういうこと」
少しだけ沈黙が続いた。
「ところで、もう一人の転校生のこと、聞いた?」
転校生?
そうか、そういえば、女の子が一人、転校してきたんだった。
新しい先生のインパクトが強すぎて今の今まで忘れていた。
「なんか、体が弱いからほとんど保健室で自習するらしいぞ。いいよな」
タケシがため息交じりにつぶやいた。
ぼくは、声に力が入った。
「何がいいもんか。あんな狭い保健室で保健室のおばちゃんとずっと二人っきりだぞ。楽しいわけないよ」
「あ、そりゃそうだな」
タケシは能天気に納得した。
さっそく、次の日から浦上先生の授業は始まった。
タケシにはああいったけど、やっぱり気になって行仕方がない。
なんでこんなに似てるんだよ。
ぼくは、一日中ぼけーっとしている。
「木村君、呼ばれてる」
となりの席の女の子が教えてくれた。
「だめだろ、ぼけーっとしてたら」
浦上先生は少し機嫌が悪くなった。
「あっ、すみません」
問題をあてられたぼくは、あたふたしてとなりの席の子に問題の場所を確認した。
失敗したな。
なんとなく浦上先生には嫌われたくなかった。
「めずらしいじゃん。木村君がぼーっとしてるなんてさ」
田村が珍しがっている。
「ちょと、寝不足なんだよ」
「ふーん?」
先生に見とれていたなんて言えない。
昼休みになると、
「なあ、今、転校生が、保健室に来てるんだってよ。見に行かないか?」
タケシの目は光り輝いていた。
転校生の女の子が気になって仕方ないらしい。
あまり興味はなかったけれど、タケシと一緒に保険室に行ってみることにした。
クラスメイト数人もすでに集まって、窓からその子の姿を見ようと必死だった。
女の子は、こちらに気が付いているようで、下を向いてもじもじしている。
そりゃ、そうだよな。
迷惑に決まっている。
見せ物じゃあるまいし、ぼくが止めるべきだろうか?
みんなは、お構いなしに女の子をじろじろ観察している。
その中で他クラスでも、少しやんちゃな男子で有名な樋口は不機嫌そうにその子を見ていた。
「いいよな、コイツ。授業にも出なくていいし、体調が悪くなったらいつ帰ってもいいんだろ?」
「えー、いいなー」
近くにいた女子もそこは同意見のようだ。
「このさぼりっ」
樋口は、面白可笑しくガラス窓を叩いた。
女の子は、ビクッとして、カーテンの向こう側に隠れてしまった。
「やめろよっ」
ぼくは大きく叫んだ。
もう我慢できなかった。
どれだけ、失礼なんだよこいつら。
そこに群がっていた皆が、静まりかえった。
「な、なんだよ」
樋口も体をビクッとした。
こんな時、自分の体つきに感謝する。
見た目だけは、ケンカが強そうなガタイの良い自分に。
「先生の話、聞いてなかったのか? 体が弱いからここにいるんだよ。お前みたいなやつがいると余計に体調が悪くなるんだよ、そんなことも分からないのか?」
「なっ…」
樋口は、ぼくをにらみつける。
ぼくは、止まらない。
「みんなも、こんなところに群がらないで、中に入って挨拶ぐらいしたらどうなんだよ。
みんな、失礼だよ」
「偉そうにしやがって、こんな時までいい子ちゃん気取りかよ」
樋口は、ぼくの胸ぐらをつかんできた。
「お前は、前から気にくわなかったんだよ」
樋口のあれた鼻息がぼくにもろにかかってくる。
「これはこっちのセリフだよ」
ぼくも負けじと樋口の胸ぐらをつかむ。
こんなやつに負けてたまるか。
悪いのは、お前だ。
今にも、殴り合いが始まりそうなぼくらを、タケシを含め他のクラスメイト達は止める事も出来ず、ただ、そわそわと見守るしかなかった。
「なにやってるんだ。お前たちっ」
他のクラスの先生が駆けつけてみんなはホッとした表情をしたと同時に、速やかに教室に戻って行った。
樋口も舌打ちをしてぼくをにらみつけた後そそくさと教室に戻って行った。
教室にもどると、タケシがそーっと静かにぼくの席にやって来て、
「なあ、ユウヤ。ちょっと確認なんだけど」
「なんだよ?」
「あのさ、まだ車に乗れないんだよな?」
唐突に小声でぼくに確認してきた。
「なんだよ今更。乗れたらもう報告してるって」
そうだよな。
タケシは、なにか考え事をしているようだ。
「どうしたんだよ」
「いや、来週から、修学旅行が始まるけど、だいじょうぶかなって」
…修学旅行。
忘れてた。
そうか、もう来週まで迫ってたのか。
憧れの北海道。
採れたての新鮮な海の幸。
雪山でのスキー。
雄大な牧場。
そして、雪のなかで入る露天温泉。
行きたい。
絶対行きたい。
車以外なら乗れる。
飛行機だって乗れる。
でも、空港まで行くにしてもどうしても車に乗る必要がある。
どうやったってバスに乗る必要がある。
どうしよう?。
ある日曜日、ぼくはコンビニまでジュースとお菓子を買いに出かけた。
帰る途中、雨宿りしていたら、一台の車がピタッと目も前に止まった。
助手席の窓が開いた。
「どうしたんだ?」
浦上先生だった。
まさかこんなところで会うなんて。
「あの、えっと、雨宿りしていたんです。急に降って来たから」
急に現れた先生を前にぼくがしどろもどろに答えていると、
「そうだと思った」
浦上先生はニコッと笑った。
笑った顔を初めて見る。
「家、このあたりだったよな?」
「はい」
「送ってあげるから乗りなさい」
「え、でも」
ぼくは、両手を振って、全力で断った。
「いいから、遠慮するな、ほらっ」
先生も負けじとぼくを車に乗せようと助手席のドアを開けてくれた。
「でも…」
乗りたい、乗りたいけど…。
ぼくがあたふたしていると。
「乗りなよ」
後部座席から女の子の声が聞こえた。
か細く小さな声だ。
転校生の河野さんだった。
どうして河野さんが先生の車に乗ってるんだ?
いや、今はどれどころじゃない。
ぼくは、車にのれないんだ。
どうしよう。
もう、やけだ。
ぼくは、ぺこりと頭を下げ助手席に乗り込んだ。
「よし、行くか」
ぼくは、目をつぶったまま、呼吸を整えた。
もう、なにも考えるな。
「ぷっ」
先生は、固まったぼくをみてふき出した。
「どうした? まるで初めて車に乗るネコみたいだぞ?」
ほぼ、当たっている。
「くすっ」
河野さんも後ろで笑っているのが聞こえた。
なんだよ、二人して。
だけど、この感じ。なんだろ?
なんだかすごく懐かしい気がする。
先生の笑った顔が、父さんとダブって見えた。
それに、あれ?
体も震えないし、汗も出ない。涙も出ない。
あれ?
車に乗れてる?
全然平気だ。
「このあたりだよな」
「あ、はい、もう、すぐそこです。そこの角の家です」
結局、家まで無事にたどり着いてしまった。
「あ、ありがとうございました」
ぼくは、深々と頭を下げた。
「ああ、また、明日な」
ちらりと、河野さんの方もみる。
「…じゃあね」
河野さんも小さな声で照れ臭そうに手をひらひらさせて見送ってくれた。
「また、今度」
ぼくも、あいさつを返した。
河野さんとは、仲良くなれそうな気がした。
そして、車にのれたことが嬉しくて仕方がない。
どうして車に乗れたのかふとんの中にもぐってで考えてみた。
答えはすぐにでた。
浦上先生だ。
となりに、浦上先生が座っていたからだ。
となりに座っているだけで、すごく安心できた。
昔、父さんの運転で、母さんも入れて3人でドライブに行った時の懐かしさを感じた。
ぼくは、ひらめいた。
修学旅行でも、先生の隣の席なら、バスに乗れるかもしれない。
いや、乗れるに決まっている。
確か明日は、バスの座席表を決めるはずだ。
次の日、ホームルームの時間に予定通りバスの座席表決めが行われた。
黒板に大きく、チョークでバスの車内が簡単に書かれ、そこに名前を書いていくシステムだ。
本当は、親友のタケシと隣に座りたいが、昨日電話で事情を話したら
「仕方がねえな、じゃあ、おれは補助席にのるから、それでもいいよ」
と言ってくれた。
よし、順調だ。
そう思い込んでいた。
だけど、先生の名前のとなりには、すでに転校生の河野さんの名前がしっかり書かれていた。
なんで?
河野さんが先生のとなりを希望した?
それとも先生が?
なにか事情があるのかもしれないけど、先生に聞くのもなんだか恥ずかしいし、いてもたってもいられないぼくは、本人に確かめることにした。
「先生、少し気分が悪いので、保健室行ってもいいですか?」
「あ、ああ、いいけど、大丈夫か?」
「あ、おれ、付き添います」
心配したタケシが、すぐに手をあげて言ってくれたが
「いや、だいじょうぶ、大したことないから」
ぼくは、保健室に直行した。
「河野さん」
「あれ、どうしたの?」
河野さんは、プリント学習をしている最中だった。
「河野さんも、修学旅行に行くんだろ?」
ぼくは、はやる気持ちを押さえて順番に話を進めていく。
「え? あ、うん、授業もろくに出ないのに、生意気だよね」
申し訳なさそうに照れ臭そうに答えた。
「そんなこと思わってないよ。せっかく、同じクラスになったんだし、ぼくも一緒に楽しく過ごせたらいいなと思ってる。けど、一つだけ、確認したいことがあるんだ」
「なに?」
河野さんは、きょとんとしている。
「バスの席のことなんだけど、先生のとなりの席にすでに河野さんで決まっていたんだ」
「あ、やっぱり」
「やっぱり?」
河野さんは、ニコッと笑って説明を始めた。
「あたしがお願いしたの。パパの隣の席じゃないと修学旅行に行けないってね」
「パパ?」
なに言ってるんだ? この子。
「あたしたち、親子なの。浦上と河野で苗字が違うから気が付かなかったでしょう?」
ぼくの頭は真っ白になった。
「うそだろ?」
ぼくは、まったく信じられなかった。
「本当だって。両親は離婚しちゃったけど、ママが体が悪くて入院してるの。だから、ママが良くなるまでは、パパと暮らすことになって…」
だから、あの時、先生の車に乗っていたのか。
「でも、パパはあたしのことがあまり好きじゃないみたい。だって、自己紹介する時もあたしが自分の娘だってことも誰にもいわなかったでしょう?」
そういえば、そうだ。
「こんな病弱で、弱虫な女の子が自分の子どもだって思われたくなかったんでしょうね」
「そんなことないよ」
ぼくは、河野さんの意見に反対した。
なんとなく浦上先生を悪く言われるのが、ぼくは嫌だった。
「あたし、本当は、修学旅行に行きたくないの。だけどママに、修学旅行で楽しそうにしている写真を見せてほしいって頼まれちゃたから仕方なく」
「どうして、行きたくないんだよ」
クラス内でもあきれるほど、修学旅行の話でもちきりな中、河野さんの行きたくない発言は理解できなかった。
「あたし、体が弱くて、ずっといじめられていたの。だから人と話すのが怖くて。特に男の子はね。だから、パパ以外の人と、となりの席になるなんて考えられない」
ぼくは、もう何も言えなかった。
席を代わってくれなんて言えなかった。
そのあと教室に戻ったぼくは、内心、河野さんにイライラしていた。
なんでも思い通りに行く河野さんが腹立たしくて仕方がない。
だれが、となりだってバスに乗れるならいいじゃないか。
ぼくなんて、ぼくなんて。
次の日の帰りのホームルームに事件が起きた。
田村なおこの財布が盗まれた。
「誰よ。誰が、盗んだの? このクラスの誰かが盗んだに決まってるわ」
田村の甲高い声が教室中に響き渡る。
田村は、最初から犯人がこの中にいると決めつけていた。
なんの証拠もないのに。
だけど、ぼくはこのいらいらを解消するチャンスだと思った。
「…野さん」
ぼくは、なにを言ってるんだ?
「え?」
田村も、その周りの女の子たちも静まり返った。
「ずっと保健室にいる河野さんなら、みんなが居ない時にこっそりこの教室に入れるかも…なんて」
ばか、やめろ。そんなわけないだろ?
こんな話に田村も乗せられるはずがない。
そう思った。だけど、
「そうよ、きっとそうよ。あの子だ。あの子に決まってる」
おいおい、ちょっと待てよ。
田村は、すぐに子分の女の子たちを引き連れて集団で保健室に向かった。
「ちょっと、待てよ、おい」
ぼくは、あわてて追いかける。
田村はノックもせずに、大勢で入るものだから、
「ちょっと、あなた達なんですか?」
保健室の先生もおどおどしていた。
しかし、そんなこともお構いなしに、河野さんの前に仁王立ちで腕を組み立ちはだかる。
「ど、どうしたんですか?」
河野さんは、すっかりおびえている。
「あのさ、ちょっと確認したいんだけど。あっ」
河野さんのランドセルのすぐそばに田村と同じピンク色の財布が置かれてあった。
まさか、本当に?
ぼくは、本当に河野さんが犯人かもしれないと疑いを持ち始めた。
「やっぱり、あんただったのね」
田村の怒りは限界に達している。
「え? どういうこと」
河野さんは、両手をにぎって震えている。
「とぼけないでよ。あんたがその財布を盗んだんでしょう」
「そんな…」
河野さんが、必死に訴えていても誰も信じなかった。
このぼくも。
「それは、先生がプレゼントしたものだ」
後ろから、低い男のひとの声が聞こえた。
みんなが振り返る。
浦上先生だ。
「プレゼント? 先生が? この子に? どういうことよ」
田村もそのまわりにいた子たちも訳が分からない。
「この子は、先生の娘だ。苗字が違うから気が付かなかっただろ? これは去年、誕生日プレゼントに勝ってあげたものだ」
「うそでしょ? 証拠は? 証拠はあるの?」
田村は、浦上先生を全力で疑っている。
しかし、浦上先生は、きっぱりあると話し、
「ほら、ここに、持ち主が分かるように刺繍で名前が書かれてるだろ?」
「…本当だ」
その財布の裏側にきれいな水色の糸で河野ゆかりと書かれていた。
これは、動かぬ証拠だ。
この財布は、河野さんのものだった。
「じゃあ、あたしの財布はどこに行ったのよ」
田村は、肩を落とした。
「もう一度、自分の机の中やカバンの中を探して、無かったらもう一度先生の所に来てくれ、いいな」
「はい…」
田村達は、しょんぼりして教室に帰って行った。
謝らなきゃ。
ぼくのウソのせいで、河野さんを傷つけた。
だけど、泣きじゃくっている河野さんを見て、自分が悪の根源だと言えなかった。
雨の日に、車に乗せてくれた浦上先生と河野さんの優しさをこんな形で裏切るなんて。
自分がこんなに醜い生き物だなんて思ってもみなかった。
立ちすくんでいるぼくを見かねて先生は、
「木村も、早く教室に戻りなさい。さあ、早く」
「はい」
ぼくは、ロボットの様に、自分の教室に戻って行った。
すると、すぐに
「あったー」
田村の嬉しそうな声が教室中に響き渡った。
「良かったねー」
周りの女の子たちも一緒に騒いでいる。
「なんだ。あたしって本当にばか。机の奥にもぐりこんでいたなんて、全然、気が付かなかった」
財布が見つかったのは、本当に良かった。
そして、ぼくは本物のクズだ。
ぼくは、すぐに田村に相談して河野さんに謝りに行こうと待ちかけた。
もちろん、そうしようと田村もすぐに応じてくれた。
「ほんとうにごめんなさい」
ぼくが証拠もないのに河野さんの名前をあげたことも正直に話した。
河野さんは、最初は戸惑っていたけど、
「だいじょうぶ。もう、気にしてないから。財布見つかって良かったね」
「うんっ」
田村は、ぱっと明るい笑顔になった。
「本当に、ごめんね。修学旅行楽しもうね」
単純でいいな、こいつ。
ぼくは、横目で田村を観察していた。
彼女は、すたすたと教室に戻ってしまった。
だけどぼくは、納得がいかずにその場に立ち尽くした。
「どうして、許せちゃうんだ。こんなに。こんなに、ぼくはひどいことしたのに」
ぼくは、まだ一発なぐってくれた方が、気分が晴れたと思う。
それだけ納得できなかった。
河野さんは、にっこりと笑い、
「だってさ、まだ転校してきたばかりの時あたしのこと、助けてくれたでしょ?」
「あっ」
それが、なんのことなのかすぐに分かった。
みんなが保健室に群がって、樋口が窓を叩いた時だ。
「あたし嬉しかったんだ。男子に助けてもらったの初めてだから」
河野さんは、すごくうれしそうにぼくを見ている。
「でも、今回のことで、プラスとマイナスで白紙になっちゃったじゃないか」
「そう、そうなんだけど…」
河野さんもそこは納得している。
「最初に、パパの車に乗った時、借り物の猫みたいに小さくなってたじゃない? あの姿がなんかかわいくって、だから、やっぱり木村君って、まだプラスのところにいるの」
女の子に、かわいいなんて言われるのは初めてでぼくは、顔が赤くなっていくのが自分でもわかった。
「それとね、全然今日のこととは関係ないんだけど」
河野さんは、急に話題を変えた。
「以前、あたしにお願いがあるってきてくれたよね? あれってなんだったの?」
ぼくは、正直にすべてを話した。
せめて、正直に話すことが、河野さんにできる償いだと思った。
ぼくが、車に乗れないこと、亡くなった父さんが浦上先生にそっくりだということ、その浦上先生のとなりなら車に乗れるかもしれないと言うことすべてを話した。
そしてぼくは、信じてもらうために財布から父さんの写真を見せた。
「うわー、本当にそっくりだ」
河野さんのキラキラ、大きく光っている。
「信じるよ、その話」
なんだか嬉しそう?
「なんだか、修学旅行が楽しみになってきた。そう思わない?」
どうしたんだ? 急に。
「いや、ぼくは、修学旅行に行かないことにしたんだ。そんな権利、ぼくにはないよ」
そうだ。
ぼくは、もうそんな権利も資格もない。
どうせ、小学校もすぐに卒業だ。
残りの学校生活は静かに過ごそうと決めていた。
けれど。
「…だめだよ。そんなの。だったら、あたしにしたこと許さない」
なんだって?
「そんな。話がちがう」
まさか、河野さんから(許さない)という言葉が出るとは思わなかった。
そんな強い言葉がいつもおどおどしていた河野さんの口から出るとは。
「バスの座席。あたしのとなりに座ってよ」
「へ?」
「あたし、木村君のとなりなら、修学旅行を楽しめる気がする。ていうか、男子とこんなにおしゃべりできるのって初めてなの、ね、お願い」
結局、ぼくは、許しを貰う代わりに河野さんのとなりにすわることになった。
しかも、一番後ろの座席で、浦上先生は一番前、これって絶対絶命じゃないかな?
さらに、タケシはほかのサッカー部の子のとなりに座ることになってしまった。
どうしても断れなかったらしい。
これは、非常にまずい。
修学旅行当日、朝から緊張していた。
もし、車に乗れないことがみんなにばれたら、バカにされるに決まっている。
それならまだいい。
バスに乗れないことで、発車が遅れ、飛行機に乗れなかったら、みんなにどう謝ればいいんだ。
いや、悪いことはもう考えるな。
浦上先生も席が遠いとはいえ、一緒に乗っている。
きっと大丈夫だ。
生徒たちが順番に、バスに乗って自分の席に座っていく。
いよいよ、ぼくの番だ。
一番後ろの席へ。
もう引き返せない。
自分の席に座った瞬間、体がぶるっと震えた。
やっぱり、無理なのか?
しかし、ふととなりを見ると、さっきまでぼくに楽しそうに話しかけてきた河野さんはそれ以上に震えていた。
やっぱり、ほとんだ話したこともないクラスメイト達と狭いバスの中で時間を共にすることは簡単なことじゃないらしい。
震える河野さんを見て、一瞬、家にきたばかりのパンのことを思い出した。
河野さんはきっとぼくを頼りにしてくれている。
なんとかしないと。
ぼくはぎゅっと河野さんの手をにぎって
「お母さんのために頑張ろう。写真を見せてあげるんだろう?」
と何度も河野さんを励ました。
ぼくも、震えているくせに。
するとぼくも河野さんも二人とも、次第に震えは止まった。
バスが走り続けても、もう震えも、汗も、なにも起こらない。
―助かった。
おおきく息を吐き出す。
「もう、だいじょうぶだよな?」
「うん」
河野さんにも笑顔が見えた。
あとは、旅行を楽しむだけだ。
長いバスの走行中、お互い何を話せばいいのか分からなかった。
だけど見かねたタケシが家から持ってきたマンガを差し出してくれて、偶然にも河野さんもマンガが特に少年マンガが大好きということがわかり、他にお互い好きなマンガやキャラクターのことで話題は尽きなかった。
ぼくたちは修学旅行を満喫できた。
スキー場でたくさん遊んだ後、ウニやいくら、かに、新鮮な海の幸をお腹いっぱい味わい、ぼくたちの心は幸せではみ出しそうだった。
最終日、スキー場から旅館へ戻る際中、河野さんは日記を書いていた。
辺りは、もう日が沈み始めていた。
「今日までのことを書いておきたいの。大人になって読み返したらきっとおもしろいと思うから」
日記なんてめんどうな物、よく書く気になれるなと思いながら外の景色を見ていると
ぼくの携帯電話に着信メールが来た。
その内容に目を疑った。
パンが急に倒れて意識不明の重体と書かれている。
ウソだろ?
急にどうして。
「どうかしたの?」
ぼくの青ざめた顔に河野さんはすぐに気が付いた。
「あ、」
河野さんが、ボールペンを座席の下に落としてしまった。
身をかがめて取ろうとするけど、届かないらしい。
「まって、ぼくがとるよ」
「え、あ、ごめんね、ありがとう」
ぼくも河野さんと同様身をかがめてもぐりこんだ瞬間、大きな音と共に頭に強い衝撃を感じた。
目の前が真っ暗になった。
目を覚ますと、側で河野さんが泣いている。
「あいたっ」
頭がズキズキする。
なんだ? なにがどうなったんだ?
「よかった、目が覚めて。もう起きないかと思った」
相変わらず、河野さんは泣いている。
周りを見渡すとバスの中にはだれもいない。
どうなってるんだ?
「バスが、対向車とぶつかって事故に遭ったの」
「事故? うそだろ?」
だけど、こんな状況、それしか考えられない。
「みんな、パニックになって、大騒ぎになって、木村君は倒れたままだし、返事もないし、あたし、どうしたらいいのか」
「バカ、どうして助けを呼ばないんだよ。ていうか、逃げろよ、ぼくなんてほっといて」
「そんなことできるわけないじゃない。それに呼んだって、だれも来てくれなかったの。あたし、声が小さいし、みんな、自分のことで頭が一杯だったみたいだし、それに、それに…」
「ああ、もう分かった。分かったよ」
外を見るとどんどん雪が積もっている。
辺りは、もう真っ暗だ。
まずいな。このままじゃ、二人と凍死になるんじゃ。
背筋が、ぞくっとした。
さっきまで、幸せに満ち溢れていたのにこんなことになるなんて…。
状況は、かなり最悪だ。
携帯は、バッテリーが無くなってもう使えない。
河野さんは、携帯すら持っていない。
ぼくは、ふと家族のことが頭をよぎった。
パン、大丈夫かな。
いや、今は自分の心配をしなきゃ。
なんとしてでも河野さんとここを脱出しなきゃ。
きっと助けが来てくれるはず。
ああ、寒い。
このままじゃ、本当に凍え死ぬ。
ぼくは、座席上の荷物置き場から毛布を引っ張り出した。
二人で毛布にくるんでお互い眠りそうになったら声を掛けた。
寝たら、死ぬぞ。
そう、何度も声を掛けた。
だけど、どうしても眠たい。
もうだめだ。
二人の体力は限界だった。
もう、眠りたい。
結局、二人とも、毛布の温かさに負けて、眠り込んでしまった。
しばらくすると、ぼーっと声が聞こえてきた。
「おーい。大丈夫かー」
叫び声がする。
ぼくは、がばっと起き上る。
助けがやってきた。
河野さんは、まだ寝息を立てて寝ている。
無事だ。
もう、朝になったらしい。
かすかに、窓の外から光が差し込んでくる。
どうやらこのバス全体が雪でほとんど覆われているらしい。
かろうじて、窓から外の景色が少しだけ見える。
精一杯、背伸びをして外の様子を伺う。
浦上先生や救助隊の人たちの姿が少しだけ見える。
これで、助かるぞ。
「河野さん、起きて、助かったよ」
ぼくは、軽く肩を叩いて河野さんを起こした。
「う、木村君?」
眠そうに目をこすりながら、周りを見渡している。
「君のお父さんが、助けに来てくれたんだ。早く脱出しよう」
「本当っ?」
河野さんもふらふらと立ち上がり、二人は雪でがちがちに固まったバスの窓を開ける。
「先生っ」
ぼくは、力をしぼって叫ぶ。
ここにいること、まだ生きていることを先生に伝えるために。
先生は、救助隊の人たちと共に駆けつけた。
「無事だったか、すぐに出してやるからな」
これで、安心だ。
ぼくと河野さんの渾身の力で、バスの窓がやっと半分だけ開いた。
そこから、ぼくは河野さんをおんぶして、先に脱出するようにうながした。
先生がいる地上まで、本の数十センチの所まで来てる。
河野さんは、窓から精一杯、手を差し出した。
「パパっ」
浦上先生は河野さんの手をしっかりつかんだ。
「よし、もう、大丈夫だ河野さんの体は、グイッと勢いよく引き上げられる。
その後、河野さんの泣き声が聞こえてくる。
きっと、先生の胸の中で思いっきり泣いているんだろう。
良かった。
本当に良かった。
ぼくは、安心しきって、その場に倒れこんだ。
「さあ、次は、木村の番だ。さあ」
先生は、そうは言うけれど、力が入らない。
立ち上がれない。
「どうした? 木村?」
その時だった。
山の頂上から、爆発音のようなものが響き渡った。
それと同時に、大きな地震が起き上がった。
それも、どんどん大きくなっていく。
「まずい」
救助隊の人が、トランシーバーで深刻な顔で仲間とやり取りしているのが聞こえる。
え、どうしたの?
「すぐにここから避難してください」
「なんだって?」
先生の怒ったような、戸惑いにあふれた低い声が聞こえる。
「なだれが発生しました」
なだれ?
「あとは、われわれが救出いたします。ご協力ありがとうございました」
「ちょっと、待ってくれ。まだ。おれの生徒が中にいるんだ」
先生、正直、河野さんを助けたあとは、ぼくのことはどうでもいいかと思ったけど、そうじゃなかったんだ。
ぼくは、嬉しかった。
「さあ、早く、お連れしろ」
「そんな、だめ。やめて」
河野さんのおびえた声も聞こえてくる。
その後も、救助隊の人たちのやり取りが聞こえてくる。
「さあ、隊長、われわれも非難しないと。すぐそこまで来ています。今、逃げなければここにいるみんなが死んでしまいます」
「クソッ。クソッ」
救助隊の人の声が聞こえる。
「仕方がないっ。退却だっ」
隊長と思われる人の声が響き渡る。
なんだ、結局、あんたたちも逃げるんかい。
ああ、ぼくは、死ぬんだ。
でも父さんのところに行ける。
おやすみなさい。
…。
…ワン。
ワンワン。
ん、なんだよ。うるさいな。
眠れないじゃないか。
せっかく、良い気持ちでいるのに。
でも、この鳴き声、どこかで?
…、パンだ。
力を振り絞ってぼくは立ち上がり、窓の外を必死でのぞきこむ。。
やっぱり、パンだ。
探しに来てくれたのか?
ぼくを見つけてはしゃぐ姿。
良かった。もう元気になったんだな。
また、一緒に思いっきり遊ぼう。
そのためには、こんな所、さっさと出なきゃな。なだれが来る前に。
ぼくは、手を精一杯伸ばした。
窓の外のかすかに見える地上の光に向かって精一杯伸ばした。
もう、だれもいないのに。
もう、助からないのに。
だけど、あきらめたくなかった。
涙で、目の前がぼやける。
その時だった。
おおきな手がぼくの手をしっかりにつかんだ。
「ふー、間に合った」
だれ?
もうみんな逃げたはずじゃあ?
この大きくて暖かい手。
何よりこの声。
「父さん?」
「しばらく見ないうちにでかくなったな」
死んだはずの父さんが、今、目の前にいる。ということは…。
「父さん、ぼくを迎えに来てくれたの?」
「いいや」
大きく、首をふる。
「助けに来たんだ」
父さんは、勢いよくぼくをバスの外へ引きあげてくれ、そのままぼくを胸に抱き寄せた。
ぼくのわがままのせいで、死なせてしまった父さん。
言わなきゃ。
ずっと、この時を待ってた。
ずっと、言いたくても言えなかったことを今言わなきゃ。
「父さん、ぼくのせいで、ご…」
「ごめんな。父さん、先に死んじゃって、寂しい思いをさせてごめんな」
…ずるいよ。先に謝られたら、もう謝れないじゃないか。
父さんを死なせたのは、ぼくの方なのに。
ずるいよ。
ぼくは、涙が止まらなかった。
今まで我慢していた涙が、ぼくの顔をぐちゃぐちゃにしていく。
「ごめんなさい」
ぼくは、そのまま気を失った。
気が付くと、まただれかの鳴き声で目が覚めた。
やれやれ、今日は、よく眠りを邪魔される日だな。
ん? 車の中?
だれかの車の後部座席で眠り込んでいたらしい。
この泣き声は河野さんの声だ。
「もう泣くな。お前を旅館に送ったあと、父さん、もう一度、助けに行ってくる。救助隊何てあてにできない」
「ヒック、ヒック、あたしも…。一緒に…行くわ」
「だめだ、お前は旅館で待っていなさい」
「いやよ、絶対にいく」
「だめだ」
なんだか、いい争いをしているようだ。
しかも、ぼくのことで。
止めなきゃ。
「河野さん。先生。ぼく生きてるよ」
浦上先生は、急ブレーキをかけた。
「木村、どうしてここに」
「木村君っ」
涙でくしゃくしゃになった河野さんは、助手席からぼくに飛びつき、泣きじゃくった。
この時、河野さんの頭があごにぶつかってひりひりする。
「よかった。無事だったんだ」
旅館にもどると、タケシが泣きじゃくって座っていた。
本日2回目。
あごのひりひりは学校に帰り着くまで続いた。
そして、パンは一命をとりとめ、以前と変わらず元気に過ごしている。
パンは、突然倒れこんだ後、一歩も動物病院の外から出ていないと母さんは言っていた。
あのとき見たパンは何だったんだ?
本人に聞いてみても、目を細めて嬉しそうにしているだけだった。