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日常の小箱 -Recrystallization-  作者: 維酉
第一部 きみの凡てが果つように
4/4

04 空国③

   ◇




 きれいなひと、という印象だった。遅れて食卓に登場したその若い女性は、みけを見るなりぺこりと会釈して、そのまま蒼のとなりに座る。


 位置的にみけの右斜め前に来た彼女は、静謐な空気をまとってしんとしている。歳は蒼と同じか、すこし若いくらいだろうか。目を引く長い黒髪は艶のかかってあでやかで、じっと見ていると吸い込まれそうなのをはっきり引力として感じる。


 蒼が、


城野きのいさみ」と、みけにいう。「もうひとりの同居人だ。事前に聞いていると思うが、わけあって声を出せない」


 はい、とみけは頷く。それは事前に白から伝えられている通りだった。


 とある事情で、声が出せなくなっている。はじめは戸惑うかもしれないけれど時間の問題だ、と。


 たしかに、戸惑う。戸惑うが、こうして相対してみるとその程度、すっかり消え失せてしまうような美しさがある。彼女を一目見た瞬間に、心のどこかで安堵している自分がいることをみけは驚きをもって実感している。


 とはいえ、いわゆる事情についてはよくわからない。その内実についてわざわざ言及しないあたり、詮索しなくてよいことだろう。すくなくともみけはそう理解したし、いまはまだ些細なことのようにも思える。


「村上みけです。よろしくお願いします」


 本日二度目の自己紹介をすると、いさみはやわらかい表情でまた会釈してくれた。その所作はゆったりとまた丁寧で、目を奪われる。周囲に凛とした花の咲いているような空気感である。


「ね、びっくりでしょ」となりの白が耳打ちする。

「うん、美人さん」こくこく頷く、みけ。「ほんとうにびっくり」

「さて、これで一応の紹介は済んだし」


 いうなり、蒼が麦茶の入ったグラスを持ち上げる。


「歓迎会は夜にまたやるが、ひとまずは長旅を労わって」


 乾杯、と四人でかち合わせて、昼食をとる。みけ、六時間超の電車旅を終えて、安穏のひと時であった。



   ◇




 樫木邸に母屋と離れがあるのは前述の通りだが、これは一本の渡り廊下でつながれている。この渡り廊下がまた粋で、庭にひかれた小川のうえを跨いで通るつくりである。


 庭に池があるならまだありそうなものだが、小川もとなるともはや庭園である。もちろん浅く、ゆるやかに少量の水が流れゆくだけの代物ではあるが、ふつう個人宅にあるかどうかと問われると、まずない。


 元旅館といわれたらしっくりきそうな設備だが、ともかく、これを渡り廊下はひょいと通って母屋と離れを接続している。で、昼食後、みけは白に案内されて離れに向かうために、てくてく廊下を渡っていく。


 先を行く白の背中を見、その足取りの当然さについていけない。すでに一年をここで過ごした白ならば歩きなれた景色かもしれないが、新参者のみけにしてみれば、いやはやこの渡り廊下を歩くだけで目移りする。そもそも庭から小川のせせらぎが聞こえるお家ってなに、樫木蒼ってとんでもないお金持ちなの、ていうか本当にこんな家に住むの、住めるの、いろいろと。


 目も回るし思考も回る。頭痛がしてきたので離れに足を踏み入れるころには考えるのをやめた。


「みけの部屋はここ」


 と、白に案内されたのは十畳くらいの和室である。ひとりで使うには広すぎる感もあるが、手狭であるよりかはずっといいだろうということで、ここになったらしい。


 まぁここより狭い部屋はほぼないんだけどね。なかば呆れ気味にいう白も、だいたいこのくらいの部屋を割り当てられている。ここから渡り廊下の向きへふたつ隣、似たような和室である。


 ついでにいうと、廊下を挟んで真向いにはいさみの使う部屋がある。で、蒼は母屋の奥まったところに自室をもっているらしい。こちらは詳しい場所をやはり知らないが、へたに教わってもきっとわからない。気にしなくてよい。


 さて、すでに運ばれていた荷物を確認しつつ、調度のチェック。といっても取り立ててこれといったことは、まだない。布団の詰まった押入れに、年季の入って木のにおいのする箪笥、あとは隅にちぢこまっている学習机とスタンドライト。学生をやるのに最低限度の設備はそろっている。


「蛍光灯は代えたから点くんだけどさ」


 と、白が照明からぶらさがる紐をぱちんと引けば、二本の丸型蛍光灯は昼の陽射しに似たまっしろいあかりを放つ。それからすぐにぱちん、ぱちんと紐を引き、ちっとも光らなくなるのだが、


「これ、豆電球みたいなやつ点かないから。ちゃんと三回目も引いてね」


 ぱちん。紐から手を放す。これで照明は完全に沈黙したようだ。


「気を付ける」


 よろしい、と白はうなずいて、こんどは部屋の奥まで行き、ガタガタと障子を開ける。


「いちおう、窓ガラスはあります」と示してみせる。掃出し窓の向こうは縁側である。


「外に出られるんだ」

「気を付けてね。板がちょっと」


 窓を開けて、みけは縁側の床板を足裏でおさえてみる。たしかにところどころ沈み込むのがある。古い邸宅のようだからそれも仕方ない。


「趣を感じるね」


 板のまだ丈夫な部分に腰をおろして、白がいう。銀色めいて髪が風に揺れる。


 まねしてみけも座り込んでみる。で、眼前には丁寧に手の入れられた松の木やら、鯉の数匹いる池やら。すこし視線を外して見えるところに色鮮やかな花が並んでいるのは、いさみの趣味らしい。花壇を手伝うのはたのしいよ、と白は笑う。


「鯉のエサやりとかもね。でも中庭の掃除はだめ。次の日、筋肉痛だから」


 二の腕を揉むしぐさをしながら不平をこぼす。「訂正します、三日後まで筋肉痛です」とかいって、それからぐぅっと伸びをして、


「桜、見にいこっか」


 と、これまた急なことをいいだす。いそいそと立ち上がり、すぐに部屋まで戻る。どうやら決めてしまったことらしいので、みけもそれにならう。


 窓、それから障子をきっちり閉めて、白を振りかえると運び込まれた荷物を眺めている。段ボール箱が三箱積まれているのと、落書きばかりのキャリーケースがひとつ、それと大きめのリュックサック。これから荷ほどきでもしようかと思っていたが、まぁ追々である。


「なにかあった?」

「いやぁ、懐かしいなぁと思って」


 キャリーケースを指さすので、みけはそいつだけ手元に手繰り寄せてみる。古びたシルバーの旅行鞄にさんざん書き込まれているのは、出発前に近所の子どもたちが遊び半分にマジックペンで落書きしたものだ。ただし、名目上は寄せ書き。


「わたしもやられた、これ」

「うん。やったもん」


 去年はみけも書き散らす側にいて、そのころはまだ地元の高校に進学するつもりでいた。姉を追いかけて街に出ようなんてちっとも考えなかったし、叔父の家で平穏無事につつがなく過ごすとばかり。だのに一年経って、まさか落書きされる立場になろうとは思いもしなかった。


「よし、じゃあ行こう」


 白は揚々と部屋を出る。ので、とりあえずキャリーケースを隅に押し込めて、みけも後を追う。すると渡り廊下からちょうどいさみが来て、


「あ、いさみさん!」と白が声をかける。「いまから桜、見にいかない?」

「そんないきなり……」


 と、みけが口にしたころには、すでにサムズアップの返事。判断が早い。


 ちょっと外用に着替えてくるのだろう、髪をなびかせ早歩きで自室に戻る。花の蜜のような甘い香りがする。


「待ってようか」と、白。

「おねえちゃんは着替えなくていいの?」


 これまでずっと制服姿の姉に訊いてみる。昼食後、居間からそのまま割り当ての部屋に案内してくれたから、ずっと着替えてないままだった。


「それもそうだね」


 白も自室に入っていく。みけの部屋と似た広い和室である。妹の前だからって襖を閉めないので、みけは廊下の壁にもたれてじっと待つことにした。


「そういえば」と、布の肌にすれる音がして、「いさみさんとは連絡先交換した?」

「うん。さっき居間でしたよ。樫木……えっと、蒼さんとも」

「よし、なら大丈夫か」


 わたしのはいうまでもなく。白が付け加えて、ささやくようにやわらかく笑う。それから畳のうえをとたとた歩き回るのがしばらく続き、やがてそれもやむと、ひょっこり顔だけ出してくる。


「着替えたの?」

「どう思う?」

「うーん」知らないよ、などを飲みこんで、「着替えた」

「残念、いまから着るところです」

「外しちゃったなぁ」


 おなかの奥から深いため息がもれる。向こうは部屋のなかでケラケラ笑っているが、付き合わされる身にもなってほしい。


 またしばらくして、今度はそのまま部屋を出てくる。制服のときとはすっかり見違えて、薄紅色のカーディガンを羽織る楚々とした服装にまとめている。


「今日、ちょっと寒いよね」

「うん。朝とか特に」

「みけの朝は早かったろうなぁ。まだ暗かったでしょ」


 それなりに、と返してみる。始発の電車、そういえば一時間弱ほど揺られて、ようやく白みだした東の空を車窓から眺めていた。期待と不安と眠気の入り混じるのに、いつのまにか胸の鼓動が高鳴っていたこと。つい数時間前のはずなのに、ずっと遠い過去にも思えるからおかしい。


 ふぅ、と白が一度、深い呼吸をするのが聞こえる。みけと同じように壁にもたれかかると、ほんのすこし高いところから彼女を見つめてくる。


「なんだか不思議。ここでみけと一緒に暮らせるなんて」

「あ」悪戯気に見上げる。「やっぱり、受かると思ってなかったんでしょ」

「まさか。優秀な妹ですから」


 くしゃくしゃと頭を撫でられて、髪がへんになるからやめてよといってはみる。姉のものとはちっとも似ないこげ茶色の癖っ毛を、それでもやたらめったらな扱いをされる。


「おーこーるーよー」

「ごめんごめん」


 屈託のない笑顔で、つまり微塵も反省してなさそうなようすで白は手を引っ込める。よかった、あっさり解放された。みけは手櫛でいちおうの回復を試みる。完全復旧とはいかないまでも及第点ぐらいにはできるか……


「ねぇ、みけ」

「うん?」

「うれしいよ。わたし」


 髪をいじっている最中に、突然そんなことをいわれた。ぴたりと手を止めて、白のほうを見やる。携帯を触りながら時間をつぶしている。


 みけもジャケットのポケットから携帯を抜き出し、インカメでさっとチェックする。そこまで気にかけるほどでもなかったふうでもある。さっさと携帯をしまう。


 ほんのすこし低いところから見上げて、


「おねえちゃん」

「うん」またこっちを見てくれる。「なに?」

「今日からまた、よろしくね」


 虚を突かれたように目を丸くして、それでも白はすぐに口元を緩める。また髪をくしゃくしゃやられる。だから、と口を尖らせても効き目がない。


 いい加減に怒ってしまおうか、と本気で思い出したところで、ようやくいさみが現れた。花柄のワンピースを着て、髪を後ろでひとつに結っており、肩にはなんだか高そうなカメラを提げている。彼女を認めるなり白の手があたまからすっと離れたので、髪が乱れるにもさっきより短い時間で済む。


 時間が短かっただけで、ぼさぼさなのに変わりはないが。


「もう、いさみさん、これどう思いますか!?」

「いやいや、ごめんって」


 いさみは口元に右手を添えて、首を傾げて微笑んでいる。困らせちゃってるよ、と白はいうが、現在進行形でわたしを困らせているのはおねえちゃんでしょう、というのがみけの至極もっともな言い分である。


「いさみ裁判長、判決をお願いします」


 白、審判をゆだねてみる。


 どうしてかゆだねられたいさみ、悩まし気にピアスを揺らし、いま一度しっかりと状況を精査。パッと見てあまり似ないふたりの姉妹を見比べて、どうやら目元の垂れている感じは近いらしいと気づく。


 で、やがて、ぴしっと白を指さす。


「わたしがギルティ?」


 口を一文字に結んでいさみがうなずく。みけ、勝訴。


「よし。じゃあ勝訴って紙もって桜並木に行こう、みけ」

「それはいやかな」


 てきとうな半紙か何かを探しに行こうとする姉を制して、みけは三人で離れを出、渡り廊下を歩く。三月の風はすこし冷たいが、あまり気にならない。

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