03 空国②
空国市内から車で二十分弱走れば、都会の喧騒とは打って変わって閑静な住宅地に入った。遠くに高層ビルの町を車窓に、つかの間のドライブ。
やがて辿りついたのは、立派な日本家屋だった。そとから見てもずいぶんな広さの邸宅で、白塗りの塀の奥にはちらりと瓦屋根が見える。
それは唐突に、住宅地の一角にぽっと現れた。まさかここが、と思って訊ねてみるとまさにその通りだった。この日本家屋こそ樫木蒼の自宅であった。
車は木組みの門で一度停まる。みけと白はそこで降りたが、蒼は車でそのまま走り去った。車庫に向かうらしい。ついでに荷物を部屋に運んでおいてくれるとのことである。
門前に立ち、その悠々としたさまを見る。年季の入った木組みの門は、すこし黒ずんでいて重そうだ。
白塀にぐるりと囲まれた平屋建ての一軒家は、まわりの家々と見比べて明らかに浮いている。ここ十数年で開発の進んだ土地の中、ひとつだけ妙に古めかしくて、それに巨大な日本家屋が出てくれば、当然そうなる。
「すごいでしょ、びっくりだよね」白はにこにこして、「中に入ったらもっとすごいよ」
門は重そうな見た目とちがってすんなり開いた。飛び石の向こうに正面玄関があって、白に促されて歩いていく。閉じられる音がして、振りかえると白ががちゃんがちゃんと錠をかけている。サムタームらしい。
見た目のわりに、存外、いま風だ。時代劇さながら閂で固くやるのではなく、サムターム錠をぐるりと回せば、それだけで施錠できる。
「こういうのは、ちょっとイメージと違う」
と、みけの思ったようなことをそのままいって、白が飛び石をひょいひょい渡ってくる。
そして玄関の引戸に鍵をさし、右に捻る。錠のはずれる音がする。
「あとで鍵を渡さなきゃね」
戸を引く。少しぎしぎしと鳴る。
「ただいまー」
先に白が入った。そのあとに続く。
「お邪魔します」
「はい、どうぞー」
隣の白が、ローファーを脱ぎながらそのまま答えた。上り框に足をかける。みけもスニーカーを脱ぐ。そうしながら家中の、いま見える範囲をきょろきょろ見回した。そうせざるをえなかった。
実のところ――信じられない広さである。開放的とでもいうのが正しいか、やけにすぱんと抜けた玄関である。みけが両手を目いっぱいに広げてもずいぶん余りそうな横幅と、だれか肩車しても余裕そうな天井高で、単に広いというか、だだっ広い。
で、玄関からは三方向に廊下が伸びている。右方、左方、そして真ん中とあるが、こと真ん中の廊下はすっかり奥まで見通せて、そこからまた左に折れているのが見える。むろん、廊下の中途にはいくつか部屋があるようで、いま見えるだけで三つほどある。
外見通り、中は古びた日本家屋という印象ではあるが、かといって小汚い感じはない。むしろすぐ見えるところに塵などはなく、丁寧に掃除されているらしい綺麗な家で、年季の入った雰囲気も手伝って、品がよい。
大きな木目の見える上り框に、みけもまた足をかけて、それからかがんでスニーカーを揃える。どうやらとんでもないところに来ちゃったみたいと、固い動作である。
と、玄関にもう一足、レディスの靴があるのを見つけた。すぐに思い当たる。もうひとりの同居人のものだろう。
白に「いさみさん」と呼ばれているその人もまた、樫木宅に居候するひとりらしい。もうここが一種のシェアハウスめいている気もするが、これだけ広い家なのだから、個人宅とはいえ同居人のひとりやふたりいてもおかしくない――かもしれない。
「あ、いいにおい」
と、みけのうしろで白が呟く。いわれて鼻を利かせてみたら、あぁ、たしかにいいにおい、これは、味噌の香りがする。
「よし、じゃあ、行こうか。目的地は居間だよ」
うなずいて、みけは膝を伸ばした。
誰かの家で迷う心配をするのは初めてだった。
切実に見取り図がほしいと思ったのも、同様に初めてだ。廊下が入り組んでいるとか、どことなく迷路っぽいとか、そういうことはない(とは言い切れない気もする)のだが、いかんせん部屋数が多い。
もちろん、いくつかは空き部屋であり、というか使い切るということが難しいのだろうが……たくさんの似通った部屋の中から、どれが普段使いの居間であるのかやらは、一度では覚えきれない。
であるので、居間までの道中――と形容するが、ここはあくまで廊下である――、白にちくいち「ここがこれ、あそこがそれ」と説明されるも、みけ、たいていは忘れた。とはいえ、多くは空き部屋であり、それほど覚えなくてはならない部屋ではなかった。
「ちなみに」と、道半ばで白。「この家にはトイレが三箇所、お風呂が二箇所あるけど、使えるのはどっちも一箇所だけだからね。それだけは間違えないでね」
うなずく。そして場所を教えられる。
いわく、そもそもこの家は平屋建てで、母屋と離れがある。使えるトイレと風呂はどちらも母屋にあり、トイレはウォシュレット付き、風呂はタンクのお湯らしい。風呂のようすを聞くにオール電化の住宅みたいなのだけれど、やはり内実がイメージと違う。
で、ついでにもうひとつ、樫木邸の補足をすれば――と、白。とにかく庭が広い。これに尽きる。
庭、とはいうが、想像するなら小さめの庭園くらいがちょうどいい。立派な木もあれば、鯉の泳ぐ池もあるし、季節によって花も楽しめる。ただの個人の邸宅とは思えない充実した庭が、この家にはどんとあるらしい。
先ほど母屋と離れをつなぐ渡り廊下の横を過ぎたが、どうやらそこから庭にすぐ出られるようだ。白から聞く話、だいぶ広い、それはもうみけの想像をはるかに上回るくらいでどーんと広い、とのこと。
実際、白の誇張はいくぶん入っているとしても、立派であろうという見当はつく。白塀にぐるりと囲まれた敷地は、どのくらいの面積かなどさっぱりだが、家屋がこれならそりゃ庭だって広くなるに決まっている。
そんな庭の手入れは、週末、家主である蒼が欠かさない。朝の九時から夕方五時まで、休日なのにきっちり八時間はたらく。もしも気が向いたのなら、もしも暇で暇でどうしようもなかったのなら、手伝ってあげて、と白はいった。ただしまったく休日という感覚はない、手伝うなら、それなりの覚悟をして、と。
廊下を歩きながら、白は人差し指を立て、要はそのくらい仕事が多いのだよと説く。そしてそれを毎週、ひとりですっかりこなしてしまう蒼はさながら――
「バケモノなんだよ」
「だれがバケモノだ」
「うわっ」
いた、長身のバケモノ――もとい、樫木蒼が。
のけぞって、出たー、とかいう反応をして、白は頭のてっぺんをはたかれる。女の子にはもっとやさしく――などと、さっきも駅で聞いたような会話。
白の抗議を聞き流して、
「というかな」と、蒼。「遅いぜ。飯の支度はもうできてる」
で、すぐ近くの障子をスライドして、早く入れと顎で指示する。すると味噌汁と焼き魚のにおいが強くして、どうやらそこが居間らしい。いつのまにか目的の部屋に着いていた。
渋々、といった感じで、白、まぁこれ見よがしに叩かれたところを両手で抑えながらも、みけに目配せ。お先にどうぞ、の合図。
「では……お邪魔します」
畏れ多くもといったふうに、みけはすごすごと身を低めて、敷居をこえようとする。すると蒼が、ちょっと顔を綻ばせて、
「いやな、そう畏まらなくても」と、みけを見下ろす。「堂々としてくれよ。今日からここはお前の家だぜ」
で、ぽん、と小さな背中を叩いた。そしたらみけ、勢いよく踏み越えて、というか一歩どころか二、三歩、畳のうえを歩かざるをえない。
しかも存外力が強くて、思わず転びそうになった。みけ、勢いよく振りかえって、びっくりしたような声で、
「も、もう、樫木さん!」
「蒼でいいぜ」
悪びれるそぶりもなく、みけの抗議を豪快に笑い飛ばして、蒼は部屋に入ってくる。白も続いて、既に昼食が並べられた食卓、先に二人は座ってしまった。木組みな長方形のテーブルで、白と蒼は斜向かいに腰を落ち着けている。
そしてすぐに白が、そのとなりの座布団をてのひらでぱんぱんと叩いて、座りなよ、と促す。慌ててみけもそこに腰を下ろす。
テーブルに並んで、白と蒼と、みけ。どうにも見慣れない光景でありながら、目の前では温かいごはんがすっかり湯気を立てている。ふんわりとした焼き鮭に、花柄の茶碗によそわれた白米。豆腐とわかめの入ったお味噌汁はよい香りがして、端にはお漬物の小鉢がある。
そういうごはんが四人分並んでいて、空席がひとつある。蒼は四つの透明なコップに麦茶を注いで、「すぐ来るから待ってようぜ」とみけにひとつ差し出す。
両手で受け取り、少しその水面を覗き込んだら、ふしぎな感覚だった。すぐ顔を上げる。目の前には蒼が座っていて、隣には白がいる。新しい家がある。
「どうしたの、みけ」
白が丸い目でみけの顔を覗き込んでくる。ううん、なんでもない、と肩をすくめる。コップをテーブルにことりと置いた。