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日常の小箱 -Recrystallization-  作者: 維酉
第一部 きみの凡てが果つように
1/4

01 四時二十八分

 ごゆるりとお楽しみください。

   Ⅰ




 海だ。海が見えた。コバルトブルーの純粋に青い海。昼の陽射しにきらめく。波の往来が見てとれて。胸の透き通る感じがするのと同時に、どこか懐かしさがこみあげてくる。でも見覚えのない海だ。


 海岸沿いを走る列車に揺られ、村上むらかみみけはひとつあくびをした。まぶたをこすりながらいくつかのことを思い出す――今日の日付、向かう先、降りるべき駅――泡みたいに湧いて消えていく思考の種々。目の前の車窓いっぱいに広がる海。


 ――はて、こんなところ走ったっけな。


 ふいに浮かんだのはそんな疑問。あたまをクリアにしようとぐっと手前に伸びをして、膝上のリュックサックを落としてしまう。ばたん、と大きく音が鳴って、思わずあたりを見回すも、ひとっこひとりいない。列車の揺れる音だけがある。


 いつのまに乗客が、と思いつつ、それならば席の移動の一度や二度。揺れる車内をふらふら歩き、海の広がる車窓にへばりつく。


 壮麗な海だった。生まれてこの方見たことのないくらいきれいだった。こうやってほんのすこしでも近くにいけば、それはいっとう美しく見える。太陽の陽射しを水面がさんざんに反射するのは宝石をちりばめたみたいで、青の透き通ったのは液状のガラスみたいだった。息をのむような光景に、すっかり心を奪われてしまう。


 とはいえ……さっきの疑問。みけは小さく首をかしげる。やはり見たことのない海だ。以前に一度、この列車に乗ったときには、こんな場所は走らなかったはずだ。


 海を背にして、みけは深く座る。乗り換えを間違えたかもしれない。これでは待ち合わせにすっかり遅れてしまう。まったく、お世話になる初日からこんなことになってしまうなんて……とにかく連絡しておこうと、みけは携帯を探す。が、ない。ジャケットのポケット、リュックサックのなか、シートのすきま、入念に調べ上げるが、どこを探しても見当たらない。


 困った。思わずあたまを抱える。買ったばかりなのに……


 すっかり途方に暮れていると、やがて車内アナウンスが響いた。生気のない、すごく機械質でガビガビした声が、次の停車駅を告げる。だのに肝腎の駅名がうまく聞き取れない。


 どうしようもなく天井を見呆けているうちに、列車は停まった。「十三分停車いたします」と聞こえる。十三分。どうやらしばらく動かないらしい。


 窓から車外を見やる。プラットフォームがひとつだけの小さな無人駅だった。駅から出て、道路を挟むとすぐに砂浜がある。海水浴目当てならここで降りるといった場所なのだろう。あいにくいまは三月で、ひとりもそういう乗客はいないらしかった。駅名看板は文字がかすれて読めない。


 ここで座っているだけ、というのもつまらないし、ひとまず降りてしまう。それに乗り換えを間違えたのなら、逆向きの列車で引き返さないといけないし……


 そうだ、引き返さないといけない。とにかく荷物を――リュックサックと落書きだらけのキャリーケースを手に、いそいそとホームに降り立った。


 潮のかおりがすごかった。深く吸ったら胸やけしそうなそれは、ぐっさりと鼻腔を刺して痛いくらいだった。


 改札は切符入れがぽつんと置いてあるだけの簡易的なものだった。殺風景な駅舎には自動券売機と気持ちていどのベンチがあって、ここから外に出ればすぐに砂浜だ。


 みけは時刻表、あるいは路線図を探す。無人駅とはいえそれくらいあってしかるべきだろう。


 で、〈それらきしもの〉は見つかった。時刻表と路線図、どちらも券売機のすぐ横の壁にかけてある。


 だが厄介なことに、すべて焼けたみたいに煤けてうまく読めない。いくらか解読に時間をかけたものの、徒労だった。


 それでも時計くらいはあるだろ、と思ってこれも探した。あった。四時二十八分を指している。


「いまが四時二十八分……」


 みけは駅舎の外を見やる。天頂には太陽が燦々ときらめいて、世界の隅々まで明るく照らしている。まさに正午頃といったぐあいで、あまりにもおかしい。


 時計がすっかりずれている、というのはどうやら疑いようがないらしかった。携帯だって失くしてしまうし、ここがどこか、いまがいつかもわからないで、帰りのこともさっぱりだ。


 ずいぶんな絶望だった。いったいどうしてこんなことに。駅舎の固いベンチに座り込んで、みけは額に手を当てる。三月の風が重たい潮気を孕んでぐったり吹き抜けた。


 海を見よう、と思い立ったのはそれから五分くらいしたころだった。もういっそ吹っ切れたほうがいいと、彼女なりに決めてのことだった。それにせっかくきれいなところに出たのだから、そうしない手はない、気もする。だれもいないようなので荷物はその場に放って、駅舎を出る。


 スニーカーで歩く砂浜はぐにぐにしていた。三月の海にひとは見当たらない。どうせならばと、靴を脱ぎ、素足をさらす。ぬくい砂地を肌で感じる。


 そのまま海に駆け出そうとしたところで、足が止まった。なにか見つけたのだ。よくよく見ないと気づかない、浜辺の端の小さなベンチ椅子に、女の子がひとり座っている。


 その子はまだ幼くて、だいたい七、八歳くらいに見えた。生地が薄めのワンピースはこの季節にしては少し肌寒そうで、でも気にならないのだろう。その子はスケッチブックを携えて、一心不乱に絵を描いているのである。


 まるで吸い寄せられるみたいに、みけはその子のもとに歩み寄っていった。向こうが気づくそぶりはない。一歩ずつ、ゆらり近づいていき、ついぞ気づかれないうちにすぐそばまで来た。


 ちょっとためらって、なるべく驚かせないよう穏健に、


「なにしてるの」


 と訊いてみる。女の子ははっと顔を上げて、みけの顔をびっくりしたように見つめた。その青い瞳。


 しばらくして、


「……絵を描いてる」


 とだけ、女の子はいった。それから困惑したふうに、みけから目を離せないでいる。


 みけはその子のとなりに腰を下ろして、


「なんの絵?」と訊いた。

「海の……」女の子は視線を外す。「……あの、海の絵」


 そういうと、女の子はまた鉛筆を動かしはじめる。みけはそれ以上のなにかを訊けずにその様子を眺めていた。紙の上を鉛筆が走る音、そしてさざなみが時空を支配する。


 女の子の絵はよく見るとすごく上手だった。あくまで幼い子の〈お絵描き〉ではあったが、波の往来と光のさんざめくのをはっきり描き込めている。すくなくとも、絵心の欠けたみけにはどだい無理な芸当だった。ちょっぴり敗北感を覚える。


 緩い温度。三月は冬と春のちょうど中間地点で、いまはどちらかといえば天秤が春に傾くころだった。波。鉛筆。風。潮。どれもやさしく心地よい。


 いつのまにか、ベンチに座ったまま微睡んでいた。女の子のとなりで、みけの意識はゆっくり融けていく。感覚の融解――どこか遠くから声が聞こえる。名前を呼ぶ声だ。聞き覚えのある、懐かしい声でもある。


 それが次第に大きくなる。みけ、みけ、みけ……




「ねぇ、みけってば」


 肩を揺すられて目が覚めた。ひとでごった返す電車のなか、みけの目の前に、吊革につかまった少女がいる。紺色のブレザーに胸元の赤いリボン、スカートはチェック柄で――学校の制服?


 だんだん意識が再結晶していく。目の前の少女をよくよく見る。丸くて大きな瞳や薄桜色の唇。透明感のあるやわらかそうな肌。なにより目を引く、長い白髪……


「おねえちゃん?」


 みけはわっと口を開ける。おねえちゃん――村上白むらかみしろは悪戯気に笑って、


「ひさしぶり。よく寝てたね」とみけの頭を撫でた。

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