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「初めまして。この度、ラシェリア皇女殿下の護衛騎士に選ばれました、ステファン・ホンバートでございます。今日より、どうぞよろしくお願いいたします」
ぽろっと持っていた焼き菓子が落ちてしまったのは許して欲しい。まだティーカップでなかっただけマシだろう。
(――…そう来たか…っ)
栗色の柔らかな髪、優しげに細められる菫色の瞳。
がっしりとしているわりに、物腰は柔らかく、どこか目を引くその容姿を持った彼を、ラシェリアは知っていた。
知っていたとは語弊だが、思い出したが正しいだろう。
ステファン・ホンバートは名前からもわかるように、ホンバート伯爵家の血縁だ。そしてただの血縁者ではない。
シャナリーゼ・ホンバートの血の繋がった弟である。
「…どうかされましたか?」
「いや、気にするな。少し手が滑ってしまったのだ」
胸の前で左腕の拳を当てて、腰を低く折り曲げている状態から顔を上げたステファンが、目を丸めて問うてきた。
それを、極力動揺を悟られないように、真顔で答えたが、ラシェリアは見逃していない。
一瞬訝しむように細められたその瞳を。
(…どうしてこう…。問題事が次から次へと…)
頭を抱えたくなる。
こんな形でさえなければ、彼に会えたことを心の底から喜べただろう。
ステファンはシャナリーゼより3つ下の弟だった。
それが今やラシェリアよりずっと年上になり、しっかりと大人へと成長している。
「皇帝陛下には聞かされておった。――少しの間だろうが、よろしく頼む」
「はっ。光栄に存じます」
平成を装うラシェリアに、ステファンは再び腰をおった。
「こっちはわらわの侍女のリエラだ」
「リエラ・グラナドールでございます。どうぞよろしくお願いいたします」
ラシェリアの紹介に、リエラは警戒心剥き出しでステファンへ挨拶を済ませる。
皇帝が監視をつけると言ったことで、あまり良く思っていなかったのだから仕方のない反応であろう。
ステファンもそのことを理解しているからか、不快な顔を一切見せず、端的に頭を下げた。
その後、しんと静まり返る部屋に響くのは、ラシェリアの茶器が擦れる音や、ラシェリアが体勢を変えるための衣擦れの音だけだ。
(…なんだ、このいたたまれなさは…)
ラシェリアが何も喋らないから、彼等も何も喋らないだろうことはわかるが、リエラはピリピリしているし、ステファンは気づいているだろうに、壁側に立って微動だにもしない。
彼は昔は良く泣く子どもだった。シャナリーゼの後ろに隠れているような、そんな内気な少年だ。
けれどちらりと、ラシェリアがステファンを除き見れば、視線に気が付いたのか彼が菫色の瞳を甘く細めて笑う。
(…ずいぶん変わったな)
笑い方は昔のままだが、そこに甘さが加わったことで、彼の魅力は上がったのだろうが、前世兄弟だったラシェリアからすれば複雑である。
だが、疑り深く、警戒心の強さは変わっていない。笑ってはいるが、それが本当の笑みでないことは、すぐわかる。だからこそ、この笑みに騙される女性は多いことだろう。腹の中が見えないから、見た目だけなら美男子なのだ。
しかしこんなにも成長して、他国の皇女の護衛まで任されるほど、一目置かれる存在になっていると思うと感慨深いものがある。
それと言うのも、シャナリーゼは元皇帝エドゥカルゴ側についた身の上だ。そうすればホンバート家は、必然的に元皇帝側についたことになったが、父も母もそれを良しとした。結果、シャナリーゼは敗れてしまい、エドゥカルゴ側についた貴族はこぞって取り潰しにあっているはずだが、ホンバート家はそこから除外されたのだろう。
それはひとえに皇帝コーネリアスたちの働きかけで、シャナリーゼが英雄として扱われたからだ。
だがそれでも、苦労はあっただろう。
ホンバート家だけ取り潰されないことで、貴族たちからの反発は大きかっただろうし、誰も彼もがシャナリーゼを英雄と思っているわけではなかったはずだ。
(…そう言えば、皇帝が妙なことを言っていたな)
『――今までいくら勧誘しても頷いてくれなかったんだがな…』
と言うことは、ホンバート家は今現在まで皇帝へ仕えていなかったということだ。
それが皇帝の婚約者の護衛をするためだけに、頷いたとは考えられない。
(…わらわが戦乙女だから、か)
ステファンの姉が亡くなった戦乙女シャナリーゼであるから、今戦乙女と呼ばれるようになったラシェリアを見るためだけに彼は護衛役を素直に聞き入れたのかもしれない。
だが、それはなぜなのだろうか。
ただ単純に興味という言葉で片付ければ簡単だが、本当にそれだけだろうか。興味がないわけではないだろうが、単純な興味だけで今まで頑なに城へ支えなかったホンバート家が、動くとは考えにくい。
何より、ホンバート家はなぜ今まで城へ仕えなかったのだろか。シャナリーゼの犯した罪の負い目とは考えづらい。
(最初にわらわへ向けてきたあの訝しむ視線は、少しリアネスに近いものがあったな…)
リオネスがシャナリーゼを慕っていたのは間違いないだろう。だから余計にラシェリアが戦乙女と呼ばれるのが気に食わないのだ。
(確かにシャナリーゼとステファンは仲の良い兄弟であった…では、ステファンもリオネスのようにわらわが戦乙女と呼ばれているのが気に食わずに護衛にやってきたということか?)
だが、今のラシェリアにそれを聞くことは叶わない。
シャナリーゼは死人で、ラシェリアは別人だ。
だから、そこで考えることを一旦放棄したことを、後でラシェリアは死ぬほど後悔することになる。
――どうして由緒あるホンバート家が国に仕えることもせず領地へ16年も引きこもっていたのか。
それらを少しでも疑問に思っていれば良かったと――。
――――
そこは広大な薔薇園である。色とりどりの薔薇が咲き誇る中で、一際赤く色づく薔薇の中心に探し人を見つけて男は近づいて行った。
「――やあ」
振り向くこともせず、彼は男に声をかけてきた。
「またここにいたのか」
「ここは良いよね」
「何が良いのか、俺にはわからん」
「そうだな――」
そう言って探し人は、一輪手に取ると無造作にむしり取った。
はらりはらりと落ちていく薔薇の花びらを見送りながら、彼は振り返る。
「ほら、血が散っていくさまに見える」
魔力を帯びた瞳が男をうつしていた。
優しい笑みを浮かべはするが、そこに隠しきれない怒りが、垣間見える。それが男に向けられたものでないのも知ったいた。
「ここにいると、忘れないで済むんだ。シオン、君もそう思わないか?」
ゆっくりと男――シオンは彼のその手の中でぐしゃりと潰えた赤い薔薇を見つめた。
確かにそれはシオンにも鮮血に見えるのだから、自分も大概重症である。
「――そう言えば、計画が失敗したようだね」
何も答えなかったシオンに向かって、彼は思い出したかのようにそう言った。
シオンは頷いて答える。
「ああ、アルビオンの戦乙女が助けたそうだ」
「――…そう、戦乙女が…」
「なんでも、皇帝の婚約者として舞踏会に参加していたらしい」
そこまで言ったところで、彼は手の中にあった潰えた薔薇を離す。
残った花びらが地に落ちたと同時に、磨かれた靴がぐしゃりと踏みつけた。
「…標的を変えようか」
「だよな」
「もちろん」
シオンと彼は、16年前に利害一致した。
不幸にも、2人して同じ日に大事な人を失っていたのだ。
「彼らだけ幸せになるのなんて許せない」
全てを忘れたとは言わせない。
彼が怒りに染まる瞳を少しだけ和らげて、シオンに呼びかけた。
「待たせてすまない。――約束はきちんと守るから、だからもう少しだけ待ってくれるかい」
シオンと彼は、目指す目的は一緒だった。
一つだけ理解し合いえないことは、シオンにとって彼もまた、倒すべき敵であることだ。
「――全てが上手くいったら、その時は一思いに殺してくれ」
そう言われ続けて、すでにシオンには情が生まれ始めていることを、彼は知らないのだろう。
苦いものを飲み込みながら、シオンは何も答えなかった。
それからすぐに背を向けて歩き出した彼にかける言葉も見つからず、シオンは潰えた薔薇をただひたすらに見つめていた。
「ーー杏珠…」
そう呟かれた声音は、誰にも届くことはなかった。