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ーーまだ幼さの残る手が、私のまだ幼い手を引いている。
その日、従兄弟のアルフレドと共に、遊びに来ていたシンドラー公爵家を抜け出して、シャナリーゼはレムリアの首都アバロンをかけていた。
それがまだシャナリーゼ8歳、アルフレド11歳の頃である。
ほとんど伯爵領から出たことのなかったシャナリーゼが、自分には甘いと知っている彼に、こっそり遊びに連れて行ってくれとお願いし、二つ返事で了承したアルフレドと、こっそりと邸へと来る業者の荷馬車へと乗り、誰にも見つからずに街へと降りていた。
オシャレな店が建ち並ぶ場所や、もう少し降りていけば、市場という場所に出て、露店を出して声を張り上げながら客引きする人たちが目についた。
活気ある街並みに、心躍らせていたのを覚えている。
けれど、まだ自分たちは幼かった。
貴族の子どもが2人だけで遊びに来るには、とても危険な場所であったのだ。
アルフレド1人だったなら、逃げ切れていただろうが、その時足手まといのシャナリーゼがいた。
疲れてだんだんと遅くなる歩幅に合わせて、アルフレドの足も遅くなる。
迷路のような路地裏に入り込んだのは、不幸中の幸いだったが、行けども行けども出口が見えず、立ち止まれば下卑た笑みを浮かべた男たちに追いつかれるだろう。
必死に手を引いて、前へと走るアルフレドの背中を見ながら、シャナリーゼは泣いていた。怖くて怖くて泣いていた。
足をもつれさせてこけそうになれば、アルフレドが力強く引っ張ってくれた。
そうやって、2人がようやっと逃げおおせているそんな時だった。
「こっちだっ!」
急に現れた少年が、アルフレドとシャナリーゼへと手を伸ばしていた。
少年だって今の2人には疑わしかったが、それでも手を伸ばさずにはいられないくらい、2人は疲れていた。
そしてこの少年こそが、エドガー。のちの皇帝コーネリアスであった。
美しい小鳥のさえずりが、朝を迎えたことを伝えるように響き渡る。
うっすら目蓋を開くと、緋色の瞳が覗いた。
「……懐かしい……」
声になったかどうかも怪しい掠れ具合で、ラシェリアは呟いた。
2度目の人生を歩んでいるラシェリアにとって、前世の話でしかないが、それでも自分の中にシャナリーゼは存在している。
だからと言って、シャナリーゼがラシェリアかと言われると、そうではない。あくまでシャナリーゼはラシェリアの中に残る記憶であり、今の自分はラシェリアだ。
それでも思い出せば、懐かしい気持ちになる。
だが同時に、耐え難い痛みに変わるこの記憶は、今のラシェリアにとって、とても不要なものに思えた。
ゆっくりと身体を起こすと、見計らったように寝室の扉が控えめに叩かれた。
返事をすれば、リエラがいつものように入って来る。
「おはようございます。ラシェリア殿下」
「おはよう。リエラ」
「……寝覚は?」
「最悪」
「さすがの殿下でも、昨日のことをお忘れにはなれなかったのですね」
同情したように黄色の瞳を細める彼女は、慣れた手つきでラシェリアへあらかじめ水を溜めて置いた桶を差し出し、その水を使って顔を洗う。そしてその後、そのまま口を濯ぐと、今度は布団を剥ぎ取られて、寝巻きを剥ぎ取られる。
そしてあてがわれた服を見て、ラシェリアはげんなりとため息を吐き出した。
「…なんとかならないか?そろそろズボンでもいいのではないか?」
華美に広がるドレスを嫌がるためだろう、広がりの少ない薄紅色のドレスは、白いレースがふんだんに使われ、詰襟のあたりまで総レースという仕上がりだ。だからと言って派手さはなく、けれど地味なわけではなく、まさに上品な仕上がりだった。
「なりません。自国でもこれを機会にドレスで過ごされるとよろしいのですわ」
普段、男のなりを好ましく思っているラシェリアへ、ぴしゃりとリエラは言い放った。
そのまま反論できないままに、ラシェリアは見事に着替えさせられて、今は鏡台の前に座らされている。
鏡の中にうつる不貞腐れ顔のラシェリアが口を開いた。
「なぜ女というのはこれほど時間をかけたがるんだ。わらわには理解できん」
「そういう殿下も女性でしょう」
「わらわはだからズボンで構わんと言っているだろう?」
「だからなりませんと申しました」
「ではせめて化粧をやめてくれないか」
「ではせめて髪の毛を伸ばしていただけませんか」
「………」
「ね?無理でしょう?でしたら大人しくして下さいまし」
ラシェリアに甘いリエラも、こういうところは譲ってくれない。これ以上無駄口は叩くなとばかりに、彼女は手際良く化粧を施して行く。
そうしていくらも立たないうちに、化粧筆を置いたリエラが、納得顔で頷いた。
「素材がよろしいので化粧もすぐ終わりましたわ。……やはり髪の毛を伸ばされては?」
「伸ばさんっ!」
「残念です」
わきわきといじり足りないのか、両手を彷徨わせるリエラに間髪入れずラシェリアは首を振った。
「だいたい、こんなに着飾ったところで何になるんだ」
自分は剣を振るって敵を薙ぎ倒し、魔法を駆使して、壊滅させてきた。
アルビオンの自国民からすれば、英雄戦乙女も、いざ吸収された他国の地へと足を踏み入れれば、死神姫と嫌われることは少なくない。
別に美しいものが嫌いなわけではないし、可愛らしく着飾る娘たちは、それだけで目の保養になる。だがそれはそれ、自分が着飾ったところで、剣を振るう邪魔になるだけだ。
不満げに唇を尖らせたラシェリアに、リエラは呆れたようにため息を吐き出した。
「殿下。貴族の娘は美しく着飾ることが武装なのですわ。殿方が戦う時に重い鎧を着るのとなんら差異などございません」
「わらわは鎧も着んぞ!」
「……貴女を説得するのはどうしてこう、骨が折れるのでしょうか」
どこか諦めが滲むリエラは、そのまま朝食の支度がされた隣室へとラシェリアを促した。
そして、促されたラシェリアと言えば、隣室の扉を超えたあたりで微動だにしなくなってしまった。
(っっっんで、朝からいるんだ…っ!)
ギギギと錆びたゼンマイが軋むように、扉を開けて佇むリエラを見た。だが彼女は、ラシェリアの視線に気が付いているだろうに、目蓋を伏せたままこちらを見ない。
(……謀ったな…!)
昨日の出来事からまだ立ち直っていないラシェリアにとって、傷口に泥を塗られるようなものだ。
いるはずのない朝食の席へ、優雅にティーカップとソーサーを持つ彼が、恐ろしいほど美しい微笑を浮かべてラシェリアを見つめていた。
「やぁおはよう。――婚約者殿」
この世で自分のことをそう呼ぶのは、レムリア皇帝コーネリアスしかいない。
光を反射して並々輝く長く美しい銀髪を右耳へとかける仕草さえ色っぽく、空色の宝石が嵌め込まれた瞳のまつ毛の長さといえば、影を作るほどだ。一見女性かと思うほど美しいが、男性的な骨格が彼が美しい男なのだと知らしめる。
「どうした?婚約者殿。さあ、朝食を食べよう」
コーネリアスの目の前に広げられた美味しそうな湯気をあげる朝食は食べたい。それは切実にそうラシェリアは思っている。お腹だって美味しそうな香りに刺激されて、虫がうるさいほど鳴いていた。
だがどうだ。なぜ今のラシェリアにとって天敵とも言える皇帝と朝食を取らねばならない。
「――わらわはお腹は減っておりませんので…ぐぅうううううぅっ……」
「……今のは、腹の虫か?」
「いいえっ!…ぐぅうぅぅうううっ」
「……くっ」
「っ!」
かっと顔に集まって来る羞恥心が、今にも沸騰しそうなほど熱くなる。
「いや…っ、くくっ。…っすまない」
すまないと言いつつ、コーネリアスは肩を揺らして笑っていた。
(……最悪だ…)
いくらラシェリアでもこれは流石に恥ずかしい。
昨日のようにこのまま意識を失うことでも出来たら、と思わずにはいられなかった。
一思いに笑って満足したのか、皇帝は立ち上がると自分の向かいの椅子を引いて、ラシェリアを招く。
「さあ」
いつまでも鳴り止まないお腹の虫に、早々に降参したラシェリアはしぶしぶ彼が引いてくれた椅子へと腰掛けた。
素直に座ったラシェリアを見届けてから、コーネリアスも自分の椅子へと戻って行く。
それを見計らってか、リエラがグラスへとオレンジジュースを注いでくれた。その動きを恨めしげに見上げても、彼女はまったく目を合わせてくれない。
「それでは頂こう」
「――いただきます」
ため息を押し殺して、ラシェリアは手を合わせた。
焼きたてのバターが芳しいクロワッサンを1つ取って、そこへメープルシロップをかけていれば、前方から視線を感じて上げたくもない顔を上げる羽目になる。
「―…何か?」
「いや、…婚約について何も聞かないのだね」
困ったようにコーネリアスは苦笑した。
ラシェリアはじっと彼を見ると、すぐにパクリとクロワッサンを口へと放り込む。
「――聞いたところで、何も解決しないのはわかっておりますから」
「なぜ?気を失うほど嫌なのだろう?」
「では逆に聞きますが。わらわは嫌だとごねればこの婚約は白紙に戻るのですか」
「それはない」
少しも考えず速攻で返事をしたコーネリアスに、ほらみろと滑りそうになった口を慌てて閉じて、口をへの字に曲げる。
「じゃあそういうことです」
「――受け入れると?」
微笑みを絶やさない彼を見て、唐突に思い出す。
この美しい微笑の裏で、いろいろと考えている一癖も二癖もある男だと言うことを。
自分の容姿を最大限に生かす方法を知っているのが皇帝コーネリアスである。
への字に曲げた口が、さらに曲がっていった。
ふわとろオムレツに、真ん中へナイフを差し込む。とろりと溢れ出す卵液が、今のラシェリアの心のうちを表しているようだった。
婚約なんて、今まで考えたこともない未知の出来事だ。
ラシェリアはアルビオンの第一継承者として育って来た。剣と魔法の才能を開花させて、戦乙女になったのも、実を言うとこの先の国の統治者としての地盤が必要だったからだ。
女の統治者というのは、他国から舐めら安くなる。それは公然事実である。
過去に女王の君臨した国は、他国に飲み込まれ国の名を無くした。
だから、ラシェリアは努力した。剣と魔法だけではどうにもならない、政治も学び、礼儀作法も完璧にして来たつもりである。
もちろん性格的な問題もあるが、天才ではないラシェリアは、努力あっての今があった。
それなのにその努力が、父皇帝が勝手に決めた婚約1つで水の泡になるのは、この上もなく腹立たしい。腹立たしいが、それに抗う術は今のラシェリアにはなかった。
みっともなく騒ぎ立ててもいいが、それでは自分の気が晴れない。
この婚約を白紙に戻す、もっと良い方法が何かないかと考えた時、どうして彼はまだ生まれてもいないアルビオンの皇女と婚約をしたのか。
ふとラシェリアは伏せていた目蓋を上げた。
(そういえば…レムリアはシーラン大国と沙羅國、両国に挟まれた国だ。シャナリーゼの頃はたびたび小競り合いもあったな。コーネリアスが皇帝についてからそれなりに国交も交わされているはず…)
小国と違ってシーランも沙羅も大きな国だ。
下手に争えば、負けることも考えなければならない、そんな相手である。
だからこそ、コーネリアスはそうならないために全力を尽くしてきたに違いない。
だが、その均等が崩れかけているとしたら。
(魔障薬…)
これがただの偶然なのだろうか。
狙われたのがしかも、元皇女であるリディルローザ。
当時、魔障薬はレムリアに蔓延り、そこにばかり目がいっていたが、もし他国までその脅威が蔓延していたら、およそ16年で立て直して来たレムリアに、同じように魔障薬の脅威から立て直して来たとすれば、最初に魔障薬を作り上げ、それをばら撒いた根源へ怨みを持っていたとしても不思議ではない。
「――…もしかして、シーランと沙羅が同盟でも組まれましたか?」
16年前の婚姻話を今ここで持ち出して来たということは、アルビオンの後ろ盾が欲しいと考えるのが妥当だ。
すると微かに空色の見開いたコーネリアスが顔から表情を落とした。だがそれも一瞬で、次にはその美しい凶悪な微笑をラシェリアに向けていた。
「――どうしてそう思われる」
どれだけ美しい微笑を向けられていても、その美しさは氷のような冷たさを放つ。
久しぶりに味わう、ゾワゾワとしたその感覚に、ラシェリアの口角は密かに緩んだ。
「―…16年前交わされたその密約が今明かされたことと、魔障薬が無関係とは考えられません。両国が同盟を結び、開戦の機会をうかがっているのだとしたら、すぐにでも婚約し、両国を牽制なさりたいと考えました……ですが、魔障薬のことについては皇帝陛下、貴方はわらわのことも疑っておいででしょう?」
ラシェリアの問いに、否定も肯定もしない皇帝は凶悪な微笑を保ったまま組んだ手に顎を乗せた。
前世のシャナリーゼの記憶からするに、彼ほど交渉相手に向かない男もいないだろう。
「その、疑い晴らすついでに、わらわが両国との関係を結び直すと言ったら、この婚約、解消していただけるでしょうか?」