3.5
ここは気絶したラシェリアが去った後の執務室である。
「ほーんと。あのお姫様、なぁんにも知らなかったのねぇ〜」
自分で入れた紅茶を小指を立てて飲むサイラスが、軍の元帥だと誰が思うだろう。
見た目と中身がチグハグ過ぎるが、剣と魔法を使えば彼の右に出るものはいないと言われている。
サイラスは平民の身でありながら、当時私生児として反乱軍の旗頭を務めたエドガーの旧友だ。
彼がいなければ、エドガーがコーネリアスとして皇帝になることはなかったと言われるほど、サイラスの力量が発揮された出来事になった。
その後褒章として伯爵の爵位を献上された。
本人曰く、爵位なんてあったっていいことないらしい。
「サイラス様、わたくしにも入れてくださいまし」
メルフィナがサイラスの横にストンと座った。
彼女は有能なアルフレドの補佐官だ。
女の身でありながら公爵の爵位を継いでおり、女公爵として有名である。そんな彼女が不毛な恋をこじらせて、どれくらいになるだろう。
「やーよ。フィナ、あんたは女なんだから自分で入れなさいよ」
「何故ですのっ⁉︎」
「何故もなにも、あんたそんなことも出来なかったら嫁に行けないわよ」
時が止まったように愕然として、微動だにも動かなくなったメルフィナは今年32歳だ。とっくの昔に行き遅れ、家族からもせっつかれるようにお見合いの絵が送られてきていた。
だがどれもこれも良縁であろうと、メルフィナは自分の恋に真っ直ぐに生きてきたが、難攻不落の泥沼にハマってしまっていた。
見かねたように双子の片割れが口を開く。
「サイラスちゃんやめたげてよ。姉さん機能しなくなっちゃうでしょうが」
ジドはおーいと、メルフィナの顔の前に手のひらをパタパタ動かす。
「なーに?アタシは本当のこと言ったまででしょー」
「それが姉さん1番堪えるんだから」
「バカねぇシドったら、それがわかってるから言ってるのよぉ〜」
そう言ったサイラスも大概屈折した愛を注いでいることだけは、彼女以外は気がついていた。
だから余計に思うのだ。
「姉さん一生結婚出来ないかも…」
シドが、がっくりと肩を落とす。
本当ならば男児である彼がドレッセンの爵位を継承するはずだったのだが、シドは自由を求めて姉であるメルフィナに爵位を譲ったはずだった。
だがしかし、何年経っても結婚できない姉のおかげで最近ではシドにもお見合い画が送られてくる始末で、いろんな女の子と遊びたいであろう彼からしたら、迷惑な話なのだろう。
だがこんな奔放者ではあるが、サイラスの右腕として軍の大将を務めているのだから、コーネリアスという皇帝の側には何故こんなにも曲者が多いのか。
まともなのは自分だけだなと、アルフレドは深いため息を吐き出した。
それを聞き逃さなかったのは、皇帝コーネリアスだ。
「――どうかしたか」
先ほどまでアルビオンの皇女とまみえたと言うのに、早々に書類と恋人になっている皇帝は顔をあげていない。
「なかなか面白い百面相だ」
「顔も見ていないのによくお分かりで」
「お前たちのことなら良くわかるよ」
お前たちとは、ここにいる配下のことを言っているのだろう。
アルフレドは意を決して、口を開いた。
「自分でも馬鹿らしいと思うんですが…」
姿形はまったく異なる人だった。
性格にしても、口調にしても、何もかもが異なっている。まったくの別人であることもわかっているし、何故自分が彼女を重ねてしまったのかもわからない。
彼女の瞳は菫色だった。
対して彼女は緋色である。
髪の色だって、彼女は栗毛だったが、彼女はストロベリーブランドだ。
どこにも似ている要素は見られないのに、何故か彼女の燃え上がるような眼差しを見て、心の奥底がざわついてしまった。
「…エドガー…貴方は懐かしいと言いましたね。」
「――ああ。言ったな」
やっと書類から顔を上げた皇帝の空色の瞳が、アルフレドの心もとない顔を映し出した。
「私は恐ろしいと思いました」
今の自分たちがあるのは彼女の犠牲の上である。どれだけ心を痛めても、どれだけ悲しもうとも彼女はもうどこにもいないのに。
それなのに、先程までここにいた彼女の眼光が脳裏に焼き付いて、離れなかった。
「この日常が全てまやかしに思えてきて」
それが必要な結果だったとしても、それが国の、大勢の国民のためだったとしても、国民よりも、自分だけは従兄弟という彼女の味方を最期までつらぬかねばならなかった。
けれど自分たちは彼女と一線を引いて、そして最期まで彼女は自分の意思を貫き通した。
彼女はそんなアルフレドにも「それでいい」と、「間違っていない」と、笑いかけて背中を押してくれたのに。
だからずっと、この16年ずっと燻っていた思いがある。
「本当に彼女はあの時死ななければならなかったのかと。もっと違う結末があったのではないかと。恐ろしく不安なりました」
アルビオンの皇女ラシェリアの視線を間近に見て、余計にその思いが強くなった。
彼女を失った時、結局のところ自分が本当に護りたかったモノは何一つ護れなかったのだから。
それが自分で招いてしまった、結果だった。
くしくも皇女は、同じ16という年齢で戦乙女と呼ばれていた。
そんな彼女が、彼女と重なって見えても不思議なことではないかもしれない。
だが、それだけだろうか。
『――っどうして彼女を見殺しにしたんだっ‼︎』
そう言って怒鳴りながら泣いていた親友が、その後すぐレムリアから姿を消して、消息不明になった。
もう生きているのか、死んでいるのか、それすらわからない。
だがあの一言にアルフレドはずっと囚われている。
エドガーは、持っていたペンを置いた。
「ルフ」
懐かしい呼び方だ。
貴族の自分たちがまだ幼かった頃、彼女と一緒に下町に遊びに行った時に、アルフレドがエドガーに名乗った名前だ。
それからどれほどの年月が過ぎただろう。
伏せていた瞼を持ち上げると、エドガーの空色の瞳がアルフレドを見上げていた。
かつてレムリアは天空の支配者と呼ばれた。それは宝石眼と呼ばれるその瞳の色にある。普段は空のように澄んだ水色の瞳が、魔力を浴びると宝石のような輝きを放つのだ。その美しさには、誰もが息をのむほどである。
「それは、俺の判断が誤っていたということか」
それは皇帝としてではなく、ただのエドガーとしての問いだ。
最初アルフレドは何を言われたのか理解できなかったが、それを理解すれば自分がなんてことを口走ってしまったのかと顔を青ざめさて、首を振った。
「いいえっ!貴方の判断は間違っておりませんでした。そうしなければ、間違いなくこの国は破滅しておりましたっ!」
「ああ。じゃあ、そういう事だ」
「…は…?」
「うん?そういう事だ。そういう事」
そう言うと、彼はそのまま書類と再び向き合いペンを取る。
毒気を抜かれたようにアルフレドは放心して、そして込み上げる苦笑を抑えられなかった。
16年悩み抜いて来たことを口にしたと言うのに、『そういう事』と言う一言で片付けてしまうエドガーは、昔も今も変わらないように見える。
だが、彼が人知れず苦悩し悲しみ、暗い部分を一手に引き受けてしまうそんな優しさを持つ、途方もないこの国の皇帝であるのは間違いない。
彼が『そういう事』というのだから、そういう事なのだ。
だったら自分も今は切り替えなくてはならないだろう。この国の宰相として、彼の右腕として。
あの何者にも染まらない、強固な輝きを放つ緋色の瞳を見れば、またアルフレドはきっと今のように彼女を思い出すだろう。むしろ思い出さない日々などないが、それでも今まで自分たちは前へと前進して来たのだ。
「貴方がこの婚約をそのまま素直に推し進めるとは思っておりませんよ」
「――まあ相手が限りなく黒に近いグレーであるからな」
「限りなく白に近いグレーでもあります」
彼女は舞踏会で確信的に魔障薬だと言い切った。
だが魔障薬の流行っていたあの頃、アルビオンは一切の貿易を禁じ、断絶状態になっていた。
それなのに、彼女は魔障薬だと言い、しかも迷いなくグレゴリー・スペンサー。
レムリアの賢者と名高い彼の元へ歩いて行った。
あれはまさに疑ってくれと言わんばかりである。
だが、リディルローザ皇女を助けたのも間違いなく彼女だ。
結局、ラシェリア皇女が完膚なきまでに気絶させた容疑者の男は魔障薬中毒で亡くなった。
魔力の暴走が始まってしまっては、もうグレゴリーにも手がつけられないのだ。
結局、その命尽きるまで結界の張られた牢の中で生き絶えた。
その後の解剖結果から、男が魔障薬中毒なった原因に、腹の中に埋め込まれたカプセルから魔障薬が時間と共に溶け出し、中毒を起こしたのだろうとグレゴリーは語っていた。
最初からただの使い捨ての駒に過ぎなかったのだ。
もちろん男の死に方に同情の余地などない。だが、男は最期に地べたに這いつくばりながら、涙ながらにこう言った。
『私の妻と娘を助けて下さいっ…』
自分に魔障薬が埋め込まれていることぐらい、わかっていただろうに、その全てを喋らず、妻と娘のことを託すその父親としては同情した。
「とりあえず、疑いが少しでもあれば調査するべきでしょう」
婚約を理由に監視下に置くことができるこの状況を有益に使うべきだ。
「サイラス」
「あら、やぁっとアタシたちも会話に混ざっていいのかしら。まったく暗い話してるから、どうしようかと思っていたわよ」
名前を呼ぶと、やれやれと言うように右手を頬へと添えてサイラスが肩をすくめた。
彼なりに気を遣っていたようだが、なぜだか変に気恥ずかしさに襲われ、切り替えるように一つ先払いをしてから、アルフレドは口を開いた。
「表向きは護衛に、最適な人材適職を求めたいのですが」
表向きは護衛、その実情は監視。
するとサイラスはニヤリと笑うと、そうねぇ〜と考える素振りを見せた。
「ステファン・ホンバートに任せるのはいかが?」
さっきと今でまさかその名前が出てくるとは思わず、アルフレドは戦慄した。
「駄目かしらん?」
「いや、駄目とか、そういう問題では、無くて、…っ」
「彼はこの上ない適任者よ。その力量はシドに匹敵するわ。10回戦えば、5回はシドが負けるほどにはね」
「うーん。下手したら6回負けるかも…」
「なーに馬鹿言ってんのよっ!アタシの部下でしょうが本当だったら負けなんて許さないのよっ!」
ごちんと、頭を殴られたシドが舌を噛んだのか悶絶しながらテーブルに突っ伏した。
実力は確かに素晴らしいとアルフレドも思っている。
思っているが、ホンバート伯爵家は問題が多過ぎるのだ。
「なぁに〜?まさか自分が立ち直ってないからって、実力あるものを切り捨てようとでも思ってるじゃないでしょうね」
「そう言うわけではなくて…っ」
「じゃあ決まりよっ!これでホンバートをこちら側に取り込みつつ、空きっぱなしの左軍の大将の座を埋めることもできて一石二鳥だわっ!」
1人意気込むサイラスは、もう5度ほどホンバート伯爵家に大将をと打診しているのだが、そのどれもがこっ酷く断られている。
それはもちろんステファン・ホンバートが彼女の弟であり、自分たちが彼女を見捨てたのだから、彼は自分たちを恨んでいるからだと言うことぐらいわかっていた。
けれど、それでもサイラスは言うのだ。
「彼以外に左軍の大将はつとまらない」
だってと、そして続ける。
「――左軍はシャナリーゼそのものだもの」
若干16歳で左大将まで上り詰めた彼女、シャナリーゼ・ホンバート。
その後の16年ずっと大将の座に誰も座れていないのは、今でも彼らが彼女の帰りを待っているからだ。
それが例え2度と彼女が戻って来ないと知っていても。
軍としては元帥であるサイラスと、右大将であるシドがなんとか機能して来たが、いつ反発が起きてもおかしくないほどにはギスギスしていた。
確かに彼なら左軍の大将に相応しい。左軍の彼らも彼女の弟になら心を開く可能性がある。
けれどわだかまりがあるのは、彼も同じだ。
だからこそホンバート家は16年前から国政に関わらず、領地に引きこもっているのだから。
「難しいのは重々承知の上よ。ケド、いつまでもこのままだと、左軍はいずれ機能しなくなるわ」
そうなれば、左軍を切り捨てなければならなくなってくる。
サイラスとシドがなんとか抑えてはいるが、それがもう限界なのだろう。
「これが最後のチャンスだと思うのよ。今代の戦乙女にステファン・ホンバートもきっと興味があるはずだわっ」
オホホホと野太い高笑いをしましたサイラスは、これは名案だとでも思っているのか。
確かに、ステファン・ホンバートの力は借りたいとは思うが、この時アルフレドは絶対無理だろうと思っていた。
もちろんエドガーも思っていたことは一緒だったが、すぐにその場で皇帝コーネリアスとして書簡をしたため、アルフレドに渡し、それをアルフレドが早馬でホンバート伯爵領に送ったのが5日前。
そうたった5日で帰ってきた早馬は、ホンバートの家紋の入った印の返事と共に帰ってきた。
ーーそのお話、謹んで拝命いたします。
そんな一言だけの紙切れだったが、されど紙切れだった。
結局、サイラスの思惑通りになったということだ。