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春の大舞踏会から1週間、いまだにレムリアにとどまることになっているラシェリアは盛大にため息をついていた。
「はぁぁぁぁぁぁ」
「…ラシェリア様、はしたないですわ」
それを見かねたラシェリア付き侍女のリエラがその愛らしい顔を顰めた。
「だいたいラシェリア様があんなに大ごとにしてご自分で解決などなさろうとするからこんなことになるのです」
「だがな、リエラ…」
「だがなも何もございません。結果です」
ばさりと切り捨てられてラシェリアは唇を尖らせた。
このリエラ・グラナドールは名前からわかるように、アンセムの娘である。
父親から受け継いだ茶褐色の髪に、母親から受け継いだであろうの鮮やかなレモン色の瞳をした愛らしい娘だ。もともと同い年なのもあって10歳の頃に話相手としてラシェリアのもとへ来て、今は侍女としてつかえてくれていた。
リエラが入れてくれたお茶に口をつけて、荒れる心を落ち着かせるように飲み込んだ。
1週間前のあの出来事は、ラシェリアからしたらそんなに大ごとのことではなかった。
なんせ自国では戦乙女と呼ばれ、ちょっと暴れたところで、「なんだラシェリア様か」なんて笑い話ぐらいにしかならないのだ。
そもそも自分は犯罪を未然にふせいだのだ。褒められて然るべきだと思うが、アンセムもリエラも鬼のように怒るものだから、ラシェリアとしては納得いかない。
リエラたちは言うのだ。
ここは他国だから、他国のことは他国に任せるべきだと。一理はある。
しかしだ。性格もそうだが、シャナリーゼ・ホンバートの前世を思い出した今、他国だと割り切るにはいささかラシェリアには難しかった。
(…思い出しさえしなければ、あれが魔障薬とは気づかなかった)
あの男から香った甘い香りを思い出した。
魔障薬とは、レムリアが過去廃退して行った要因にもなった薬物だ。
謳い文句はこうだ。
――魔力の弱い者でも魔力を増幅させて強化する。魔力の強い者はより強く――
それは魔力の弱い者からしたら喉から手が出るほど欲しいモノだ。
強い者だってそうだ。まだ強くなればと願わなくはない。
魔障薬を使用した者は、最初こそは魔力の増幅を強く感じるのだそうだ。けれどそれは薬で一時的に増幅させる魔力であり、何より薬には副作用と依存性があった。副作用は量を間違えると眠ってしまい、下手したらそのまま魔力暴走が始まるのだ。
その副作用の危険性から、シャナリーゼは魔障薬の取り締まりを強化するべきだと、当時の皇帝へ諫言したことがあった。だがしかし、それがまったくの間違いであったと気がついたのは、魔障薬が蔓延してもう手の施しようがないほどになってからだ。なんせ魔障薬を作るよう指示し、ばら撒いたのはエドゥカルゴ前皇帝だったのだから。
あの男は広大なテラスに立ちながら、可笑しそうに、そして残念そうに笑っていた。
『魔力の増幅は中々簡単にはいかんなぁ。シャナリーゼ今回は失敗だ』
その時シャナリーゼが愕然と立ち尽くしていたのを鮮明に思い出せる。
信じて疑わなかった皇帝の裏切りだった。
「ラシェリア様?」
ハッとしてラシェリアは目を見張った。
いつの間にか心配そうに覗き込む、菫色の瞳が目の前にあったからだ。
「…顔色がとてもよろしくありませんわ」
自分がどんな顔をしているのかはわからなかったが、彼女の動向に気づかないほどには気が動転していたのだろう。
「そう心配せずとも、少し考えごとをしていただけだ」
「そのようには見えません」
きっぱりと言い切るあたり、やはり父親そっくりである。
微苦笑すると、リエラは不満げに眉間に皺を寄せた。
「何が可笑しのですか」
「いや、大したことではないぞ」
「ではおっしゃって下さいませ」
「わらわは構わぬが、本当に言っても良いのか?」
ラシェリアが面白そうにそう言うと、リエラは一度口を閉ざした。
そして首をふる。
「やはりおっしゃらないで下さい」
何かを察したようだ。
だがこのままはぐらかしたままでは、彼女は煮え切らないままになるだろう。
「――あの助けた女性はどうなったのかと思ってな」
嘘は言っていない。
ぐったりと男に寄りかかるように動かなかった女は、ラシェリアが見た限りでは魔障薬の副作用で間違いなかった。
副作用を起こして、あの男は何を起こすつもりだったのだろうか。
魔力暴走はその命が尽きるまで暴走し、多大な被害を催す。気付くのが遅れていれば、あの舞踏会ホールなど木っ端微塵になっていたかもしれない。
もしそれを狙っていたとしたら、立派な反逆罪である。
腕の中ぐったりと動かない女、息をしているのかしていないのか定かではなかった。
ラシェリアがあの会場の中で、一目散に歩いて行ったのはある男の前だった。
(グレゴリー・スペンサー。まだ生きていたんだな。あの老いぼれめ)
シャナリーゼ時代からいくらも変わらず、女の尻ばかり追いかけていて、げんなりした気持ちで見てしまったが、この時ばかりはグレゴリーの変態爺いがいたことに感謝した。
グレゴリーは女癖の悪い、どうしようもない阿呆のような爺いだが、これが医学に関しては飛び抜けて天才だった。
魔障薬の解毒に初めて成功したのもグレゴリーである。
その解毒の成果は、今世へ受け継がれているはずだ。そうじゃなければ、今この国は地図から消えていてもおかしくなかったのだから。
『グレゴリー・スペンサー殿』
爆発にもあまり興味がなかったのか、周りに女性を侍らせて、楽しそうにしていたグレゴリーは、ラシェリアに名を呼ばれて驚いたように灰色の瞳を丸めた。そろそろ80になるはずだが、見た目は40代と昔から変わらない外見で、その見た目で白髪の髪がどこか歪に見えた。
『これはこれはラシェリア皇女殿下。美しきプリンセスはわたくしめに何ようか』
『魔障薬、わかるだろう?それに侵されている。このままにしておけば、どうなるか貴公ならわかるはずだ。そしてこの娘をそのまま死なせることになれば、貴公の首は飛ぶかもしれんということもな』
最初こそ、訝しげに細められた灰色の瞳は、腕の中の女をとらえると、慌てたように近寄ってきた。
『っ、いつからこの状態だっ?』
『わらわが見つけた時にはすでにこの状態だった』
『おいそこの近衛っ!今すぐこの方を私の部屋、おっとっ。医務室へ運びたまえっ!』
猶予がないと言うことが、分かったのだろう。
その後は実に迅速だった。
慌てて出て行く、グレゴリー。
走ってくるアンセムは怒鳴る寸前。
その後ろをついてきた、皇帝の側近アルフレド・シンドラー。
そのままラシェリアは今日まで客室に押し込められ、今に至る。
「別に部屋から出れない訳ではないのですから、ご自分でご確認されてはいかがです?」
リエラのもっともな意見に、ラシェリアは素直に頷けない。
それができるならとっくにしているが、なんせラシェリアはシャナリーゼと言う過去を持つのだ。この国の過去を知り、この国の重鎮を知り過ぎている。
ラシェリアの姿で彼らがシャナリーゼだと気付く者はいなくとも、ラシェリアは知っていることが、どうしようもなく記憶という古傷を痛ませた。
皇帝の側近アルフレド・シンドラー。
彼はシャナリーゼの従兄弟だった人だった。
海底の深い青色の瞳と、陽に当たってキラキラと輝くプラチナブランドはサイドで三つ編みにして肩から垂らし、いつもその顔には本を読み過ぎて視力が悪くなったために、銀製の眼鏡をかけていた。
頭が良くて、シャナリーゼには人の数倍優しくて、きっと妹のように可愛がってくれていた人だ。
シンドラー公爵家の長男として生まれ、当時皇太子だったリートヴィッヒの将来の片腕になろうと言われていた。
けれど彼は私生児だった現皇帝側につき、今はその頭脳を宰相として遺憾なく発揮している。
リートヴィッヒとアルフレドは仲の良い親友だった。その結末を決意した時の彼の心情は計り知れないものだったのだろう。
そしてあの魔障薬中毒に侵されていた女性は、当時まだ少女と言われる15歳だった当時のレムリア第一皇女である。名をリディルローザ・レムリア。今は皇女の称号を剥奪されているだろうが、公の社交場に姿を表せるというのは、それだけこの国は当時から比べると豊かになった証拠だろう。
むしろ彼女たちは皇族であったが、被害者でもあったのだ。何度もリートヴィッヒとリディルローザが、父皇帝をたしなめようとしていたことを、シャナリーゼは知っていた。
その後酷い鞭打ちをされ、1週間寝台から起き上がれないことが日常的にあったのだ。
そんな彼女が今度は魔障薬に侵されて、死にかけているなどラシェリアには耐えられなかった。
紅茶色の美しいオレンジ色の髪は今でも健在だったのにも関わらず、すぐに気がつかなかった。助け出したリディルローザが、少女から女性へと変貌を遂げていたからもある。ぐったりと動かず、見えるはずの空色の瞳が見えなかった時、ラシェリアは指先から血の気が引いて行くのを感じた。
当時も最期まで護ることが叶わずに、そして今世も再び護れずに、2度めの人生までそんなことがあってはならないと、思わず力加減を間違えて扉を吹き飛ばしてしまったのだ。
グレゴリーに頼んだのだから、大丈夫だろうというぐらいには信頼している。
願わくば、リートヴィッヒもどこかで生きているだろと信じたい。
皇帝コーネリアスが庇護しているから、リディルローザが生きているのだろう。ならば、リートヴィッヒもきっと生きているはずだ。
ラシェリアが本日2度目の大きなため息をついたところで、扉をノックする音が響いた。
リエラが素早く対応に部屋の扉へと歩いて行く。
(どうせならこのまま何事もなければ良かったが…)
何事もなく、そのまま帰国と言うのが1番望ましかった。
けれど、それが叶わぬと言うこともラシェリアは理解している。
魔障薬はレムリアで流行ったもので、アルビオンには一切出回っていない。
それなのに、なぜそれが魔障薬と分かったのか。疑われるような要素を披露したのは、他でもないラシェリアであるからして、今から行われるのが尋問だと言うことはリエラの顔を見ずとも分かった。