七話 歌は世界の垣根を越える(前編)
ーーー屋敷の扉を潜ると楽器店だった。俺の目が点になった。
川端康成の『雪国』の冒頭部分のような言葉が俺の頭を過ったが、実際今の状況はまさにその通りなのだから仕方がない。
青葉の部屋の扉を開けた俺の目に飛び込んできたのは、まさに機材の山だった。
広さ20畳はありそうな部屋の壁一面にはギターやベースが所狭しと吊るされ、その下にはバンドのポスターが至るところに貼られている。
床には謎の機器や巨大なスピーカーが何発も置かれ、蛸足のようなケーブルがその間をのたうつように這っている。
また、床にもギターラックが設けてあり、そこにも何本ものギターやベースが立てかけられている。壁のものと合わせれば総数は20本を超えるだろう。
部屋の奥にある作業机の上には工具の類いが整然と置かれていて、そこからは意外と几帳面な青葉の性格が伺えた。
「すげー部屋だな、おい」
「楽器店」あるいは「音楽の要塞」とでも形容すべきその部屋に、年頃の少女の部屋に入ったこととは別のベクトルで俺は興奮していた。
もちろん、部屋の中には少女らしい所も少しはある。例えば、お洒落な刺繍のシーツがかけられたベッドの枕元には大量のペンギンのぬいぐるみが鎮座していた。
しかし、他の部分のインパクトがあまりにも強すぎて最早その辺りのことはどうでもよくなっていた。
「ふふふ、すげーでしょ私の部屋」
部屋に踏み込んでから呆然と立ち尽くしていた俺の背中に青葉の声がかかる。
「親の趣味でギターを三才の頃から弾き始めて、色々やってるうちに気づいたらこんな有り様ですよ」
「10年以上の積み重ねか。通りですごいわけだ」
俺の素直な称賛の言葉に青葉は嬉しそうに胸を張った。
ただ、なだらかな丘陵地のように起伏に乏しいその胸部には張って主張するほどの胸が存在していなかったことには同情を禁じ得なかった。
「小さな頃から、誕生日のプレゼントとかお小遣いとか全部機材に注いだり、お下がり貰ったりしてコツコツ集めた成果というやつですな」
「なるほどなー」
「………? カイト先輩、なんか言葉がやけに生温かい気がするんだけど、何か心境の変化でも?」
おっと、憐憫の気持ちが言葉に漏れていたか。危ない、危ない……。
余計なことを考えていたことがバレたらさらに面倒なことになるのは明白だったので、「そうか? 俺はいつも通りだけどな」などと適当に答えてはぐらかしておいた。
青葉は少し腑に落ちない感じで首を傾げたが、それ以上深く追及してくることはなかった。
「ふーん、ならいいんですけどねー。そんなことよりも中に入って適当に座ってて下さいよ。お茶持って来ますから」
「あー、そんなに気を使わなくてもいいぞ」
俺を残して部屋から出ようとする青葉に声をかけたが、彼女は「いいから、いいから」と言わんばかりに俺を手で制する。
「カイト先輩だって、沢山歌ったら喉も渇くでしょ」
「えっ、お前そんなに歌わせる気なのかよ」
「当然! 折角お家に呼んだんだから、限度いっぱいまでやってもらいますよー。覚悟して下さいね、せ・ん・ぱ・い♥️」
「無駄に色っぽく言うな、この阿呆」
吐き捨てた俺の言葉を背に、青葉はお茶を取りに部屋からでていった。
さくっと歌って帰る予定が、あてが外れたか……。
面倒くさいことを避けようとして、結局面倒くさいことに巻き込まれている現状に俺は頭を抱えた。
まぁ、元々まな板の鯉の俺に選択肢はないんだけどな。
どう頑張ったところで弱味を握られている以上はどうしようもない。
潔く諦めて、青葉の言う通りに適当に座って待とうとしたのだが。
「……どこに座れっていうんだよ、これ」
部屋の床にはケーブルや機材が至るところに這っているので座れるようなスペースがない。ケーブルをどかしてもいいが、それで万が一変なことになったら面倒なことになるのは明白だ。
青葉のことだから、大したことがないのに「あー、先輩が壊したー(棒)」なんて言って、更に譲歩を迫ってくる可能性もあり得る。リスクは回避しなくてはならない。
「……ベッドの上でいいか」
年頃の少女がいつも寝ているベッドに座るのもそれはそれであれなのだが、なるべく部屋を弄らないで座れる所はここしかない。
俺は諦めてベッドの上にゆっくりと腰を下ろす。少し硬めのマットレスはソファーがわりに丁度よかった。
ひとまずはこれでいいか。
とりあえずのポジションを定めた俺はゆっくりと部屋を見回す。
真っ先に目を向けるのはもちろん壁にかかったギターとベースだ。
「やっぱりスゲーなこれ、いくらかかってるんだ?」
俺は音楽には詳しいが、そこまで楽器に詳しいわけではない。しかし、そんな俺でも目の前のこれが凄いものだということは分かる。それだけメジャーな世に名の知れたメーカーのものばかりだ。
……GibsonのレスポールにフライングV、Fenderのストラトとジャズベース。ESPのランダムスターまであるのかよ……。あっちのはYAMAHAパシフィカの上位モデルっぽいな。現役女子高生が複数持っていいレベルの楽器じゃねえぞ、これ。
どれも新品で買えば一本10万は下らないだろう。世の高校生なら必死にバイトして、ようやくどれか一本を迷いに迷って買うレベルの名器を当然のように複数持っている青葉は正真正銘のお嬢様だった。
もう少し近寄ってあわよくば手にとって見たかったが、勝手に触るのは気が引けたし、何より座ったところなのでもう一度立つのも面倒臭かった。
仕方ない。なんか手近なところに暇を潰せそうなものは………。
「……おっ」
そう考えながら辺りを見渡した俺の目に飛び込んできたのは、枕元にあるペンギンのぬいぐるみの下敷きになった音楽雑誌だ。もしかしたら青葉が寝る前に読んでいて、何かの拍子にペンギンに埋もれたのかもしれない。
この雑誌は俺も時々買って読むやつだ。そしてペンギンの下からちらりと見えた発行日から察するに、どうやら俺がまだ読んでいない最新号のようである。
まぁ、本ぐらいなら勝手に読んでもいいだろ。
楽器を触るよりはいくらかましだと思って、俺は雑誌を読んで暇を潰すことに決めた。
「ちょいとごめんなさいよっと」
そんな言葉をペンギンのぬいぐるみに投げかけ、そこそこ大きなそれを両手でひょいと持ち上げる。そのまるっこいボディに俺の指が沈み込む。
……中々いい手触りだな、こいつ。
良い生地を使っているのか、手の中のペンギンは滑らかで手によく馴染む。しげしげとペンギンを見つめてから二、三度手で揉んでみると程よい柔らかな感触がそれに応える。
「……なるほど」
俺はペンギンのぬいぐるみを元に戻さず、胸に抱き抱えるようにしながら回収した雑誌を開く。案の定、胸元のペンギンは顎を乗せておくのに丁度いい塩梅だった。
ペンギンの心地よい感触を楽しみつつ、俺は青葉の帰りをゆったりと待った。