8話『その日、雪が降った』
十二月二十四日。
今日という日を、彼女は教えてくれた。
「クリスマス・イブって、にちぼつからなんだってよ?」
「らしいね。今日はいつもより長く居てもいい?」
「もちろんだよっ。わたしもうれしい」
僕はよく彼女に触れるようになった。といっても手を握ったりするだけだ。彼女の手は相変わらず血が通っていないみたいに冷たい。だから僕の手で温めた。
「あたたかい」
「そりゃ良かった。さっきまでカイロ握ってたから」
「えぇ~、りょうくんのたいおんじゃないの~?」
「外すっごい寒いから、僕は凍っちゃう」
「ゆき、まだふらないのかなぁ」
今日の天気予報は午後から雪だった。そのことを真っ先に彼女に伝えたら飛び起きてこようとした。そんな体力なんてもうない。
ようやく空は鼻声の眠たい彼女の願いを叶えてくれる気になったらしい。
現在時刻午後三時。
空は灰色と白で、いまにも雪が降りそうな気温は五度を下った。何をもったいぶっているのか。僕の心は落ち着かず、丸椅子から根の生えた尻を剥がして、見やすいようにカーテンをしっかりと開いた。寒いのだと視覚でわかるほどに外は白く澄んだ色。
「はやく、ふってほしいねぇ」
隠すことなく棚に乱雑に置かれたクスリは今日の分だ。けれど彼女はいつになく辿々しく、おぼつかない言葉。寝てしまう前に早く雪が降れば良いのに。
「ねぇりょうくん。いうには、すこしはやいかもしれないけど。いい?」
「どうした?」
「わたしね……りょうくんに、きらわれてるんじゃないかって。しんぱいだったの」
「そんなことない」
「うん、しってるよ。このあいだ、すきっていわれてとても、うれしかったの……けど、おもってたことだけいって、ねちゃったからいえなかった……だから、いま、いうね……」
僕の鼓動ははち切れそうだった。感情がこれほど邪魔なものなのだと初めて知った。
どうかしてしまいそうだ。吐いてしまいそうだ。言葉に出さないでほしい。
雪が降って。彼女は微笑んで。細い呼吸を短く繰り返して、彼女はしっかり声に、一言ずつ確かめるように言った。
「すきです、りょうくん」
言わないで欲しかった。そんな笑顔で、言わないでほしかった。
僕は彼女の弱く微笑小さな唇にキスをした。短いただ触れるだけの。初めての雑な接吻。
小さくて、柔らかくて、温かくて、微かに震えていて、微かに滲んだ涙の味がした。
けれど僕はうれしかった。
「雪だよ……そうだ、雪、集めてくるから。ちょっと待ってて。すぐ……戻ってくるから」
「うん、まってる」
はじめてみた彼女の恍惚とした熱い溢れるほどの幸せを抱いた表情。これ以上一緒に居たらそれ以上行ってしまうと、ダメだと理性が警告した。
熱い身体を冷ますために。
僕は彼女の顔を再び見ることなくコップをもって、雪を集めるために病室を飛び出した。
当たり前だがまだ雪など集まっていない。僕は入り口前の柱に背を預け、腰を下ろした。
冷たい風が今では心地良い。唇は熱かった。あのまま溶け合ってしまいそうなほどに。
雪がようやく積もって見えたのは両手が冷たくなってきた辺りで。
僕は鉛色の空を見上げた。ゆっくりと確実に降る雪に僕の体は吸い込まれている錯覚に陥る。こんな景色を僕は彼女にまた、見せてあげたかった。
取りやすいところに集まった雪を解けないように気をつけながらさっさとコップに溜めた。
「このくらいで良いかな」
七割ほどたまった。僕は注意されない程度の早足で病室に戻った。ちょうど白衣の男性が出てきたところだった。それが何を意味するのか僕には理解できた。けれど理解などしたくなかった。だからしないようにした。けれど結局理解した。最期の名残は雪を見せてあげられなかった事。不思議と彼女の葬儀で僕は泣かなかった。
あの時の不謹慎な夢のように、笑っていた。ということはないけれど。幸せそうだったし、顔色も化粧で誤魔化されて綺麗だった。
奥歯が砕けそうだ。
「なにしてんの」
口の中に血の味が広がる。
「雪、降ってるよ」
顎が軋む。
「目があけられないくらいに、降ってるよ」
僕は泣かないように堪えた。
「雪、置いておくよ」
伸ばせば彼女の顔に触れられるのに。僕の手は伸びなかった。怖かった。触った瞬間、それが本当に彼女になってしまいそうだった。彼女は今も、どこかに存在しているかも知れない。庭で雪を見上げて飛んでる気分になっているかもしれない。その考えが彼女の母のソレだとわからない。
その母はただ静かに正座して、自分の番になったらまるで他人行儀でお焼香を済ませた。
そうだ、きっと彼女に似ていた、他の人なんだ。
そう思っても決して僕の身体は緩まなかった。そう逃げてしまえば、彼女が僕を好きと言ったことを否定することに思えたから。
「俺も、好きなんだよ……」
結局、僕は通夜を抜けて葬儀場のトイレで、ひとりで膝を抱え、喉を潰し、歯を食いしばり泣いていた。視力の落ちた双眸が砕けた彼女の破片を捉える。何が何なのかわからない、けれど丁寧に頭だの腕だの足だの教えてくれた。皮肉にも骨は普通の人間と同じものだという事も知った。気が狂いそうだった。
ずっと、僕は、彼女を、死んでしまえば良いのにと思っていた。
彼女は僕がそんな感情を抱く前から僕のことが好きだった。ずっと恋いに焦がれていた。
ようやく出てきた僕は煙草の臭い混じる吹雪の中に立って空を、彼女の代わりに見上げた。
本当は今にも零れる涙を堪えるために。
窺うような声。それがドッキリを告げる彼女の声だったらどれほどよかったのか。
どうしようもない感情の渦に虚無を演じる僕に話しかける人間など知れている。
母はまた、僕に何かを言った。
「おつかれさま」
やっぱり、どうかしてるんだ。僕も、誰もが。