3話『僕と彼女の土曜日』
朝が来て、僕は身支度と食事を済ませたら家を出る。歩いて電車に乗り、街の総合病院に向かう。手土産とかはない。
「おはよう」
ノックして「はい」と返事が聞こえ、僕は一呼吸して息を整えてから戸を開けた。
僕の方へ顔を向ける彼女は次第に表情を整えていく。ようやく作った笑顔に僕も作り笑顔で応じる。
「きてくれてありがとう」
「そういう約束だからな」
「じゃぁもうすぐ終わりかもねぇ」
夕方より少しだけ口調ははっきりしている。まだ起きて三時間と経っていない。
「終わりまで付き合うよ」
「うん」
彼女が本当に死ぬなら、僕は見届けるつもり、生誕以来の付き合いだから。死ぬと思っても僕はやはり胸がざわついたりはしなかった。
あともう長くないのだと。見るたびに色が失われていく彼女の肌や唇を見て思う。きっとその色と同じで冷たいのだろう。
「どうしたの? 陵哉くん?」
「いいや、何でもないよ。この部屋暖房よくきいてるね」
「もう外は寒い?」
「そりゃね。もう十二月だから」
「そっかぁ~雪、降るのかなぁ」
「降っても積もらないと思うけどね」
「降ってるのが見たいの。わかってないなぁ。ゴホッゲホッ」
「水、飲むか?」
「うん、飲む」
明るく振る舞ってくれようとすると毎回こうなる。生命を脅かすような痛い咳。彼女はコップに注がれた水をゆっくりちびちびと時間をかけてメモリ二つ分ほど飲んだ。
薄い胸が細い呼吸と同じように小さく上下する。全てが必死に思えた。見ていて気分の良いものではないと、僕の視線が逸らされた。
「もう大丈夫」
「そうか……なぁ」
「私ね、空からゆっくり降る雪をね、下から見るのがスキなの……なぁに? どうしたの、そんな顔して」
「後、どのくらい生きるの」
今の僕は自分から訊いた。それくらい教えてくれても良いだろう。
彼女はしばらく僕を見据え、苦笑いを一つしてから口を小さく開いた。
「ちゃんと過ごしていれば年越しは、迎えられるかなあ……」
本来なら来年の春は越せたはずだった。死はもう目前だと、僕が言葉として受け止めた。
けれど彼女はまた、五指を折っていた。嘘が混じっているのだとその仕草が告げる。
本当は生死の境界で年越しを迎える、そういう具合なのだろう。
「じゃぁ、ひとつきはあるんだな……それなら、雪も見られるかもね」
僕は窓の外の曇りを見ながら言う。知らなければ良かった。そう思うこともある。自分から選んで苦しむためにここに来ているわけじゃないのに。
「だと良いなぁ、そうだ。雪が降ったらコップにいっぱい詰めて持ってきてよ」
「そのくらいの頼みならいいよ」
「やったぁー!」
「はしゃぐと身体に悪いって」
大きく細い腕を上げるものだから心臓に悪い。喜んだ衝撃で急死なんて笑えない。けれど一番幸せな最期かも知れないと同時に思う。
僕はまた、彼女と勉強をした。どうやら久しぶりに見る難問を解くのは楽しいらしい。けれど解けるのは彼女が学校に来ていた時までの範囲だけ。三年生の問題はやはり難しいらしい。基本的には応用問題、けれど解けない。もう新しいことを覚えるのはどうやら中々困難らしい。
病室には昼食が運ばれてきた。彼女は危なっかしいながらも箸も使える。食べさせてもらうことはないのだが。
「手、つかれちゃった。ねぇ」
「……誰かに見られたら……僕以外来ないか」
これが始まったのは僕が夏休みに入った初日の頃。病状悪化が顕著になった頃。箸を持つのも億劫になっていたのだろう。
僕は彼女の手から触れないように箸を取り、所望の具材をつまみ上げた。
「少し上向いて」
「はーい」
なんだか動物に餌をあげている気分。
それから一時間ちょっとかけて少量の昼食を食べ終えた。
「おなかいっぱい」
病院のご飯はおいしくないとか言うけど彼女の表情からそんな事は感じない。無理をしている風でもない。その後は学校での出来事とかそういうことを聞かせた。
「まぁ、いつも通りだよ」
話すネタなんてない。友達と話すとかそういうことは一切ないから。彼女には少し申し訳ない。
「私、学校に行きたかったなぁ」
「僕は出来れば行きたくないよ」
「えー、なんで? 楽しいでしょ?」
「楽しくないよ」
「なんで?」
「……楽しくないから楽しくないんだよ」
「よくわかんないのぉ。羨ましいなぁ」
望む人が得られず、望まぬ人が得る、お互い不幸だ。そこにいるのは僕だったらきっと似合っている。
自分の感想を言っているのにまるで悪いことを、彼女が傷つく事を言っているみたいな苦い気分になった。
「どうして学校に行きたいんだ?」
「みんなが行ってるから。私もみんなと走ったり、ご飯食べたり、遊んだりしたい、お話したりしたいコイバナとかっ」
けれど彼女の身体では全て出来ない。みんなと走れば搬送され、ご飯を食べても一時間は平気で必要、遊ぶと行ってもずっと屋内で体力を使わないもの、コイバナは唯一出来る話かもしれない。ほとんどの事は昔から、彼女が生まれたときからすることを許されない行為。おとなしくて我慢してくれる友達なんて普通はいない。だから僕が彼女の友達として――。
「そっか……」
日が落ちるのは早い。午後五時になると辺りはもう暗くなる。午後六時はもう夜だ。
僕は帰りの電車の中で軽く睡眠を取った。
明日も、彼女と会わないといけない。
その時趣味の悪い冗談の夢を見た。彼女のお葬式は僕以外の参列なく、静かにとり行われ、棺を覗くと空笑顔のままの青白い顔で硬直した彼女がいた。
そんな夢。最悪の気分だった。きっとそれは彼女の実際の葬儀でも同じだろうと、ふとそう思った。
家に帰り風呂に入り夕食時。母は訊く。
「どうだった……具合は」
「いつも通りだったよ。いつも通り仲良くしてた」
「そう、なら良かったわ」
父は黙ったまま、プチトマトを丸のみした。
死は全てを狂わせるのだと、僕は肉を噛みしめて思う。
その夜、雪が降らないかと空を眺めていたら向こうの窓に明かりがついた。
僕は思わず息をのんだ。なぜならその部屋は彼女の部屋の場所だから。けれどしばらくして明かりは消えた。その行為をするのはひとりしかいない、彼女の母親だ。
「美里は部屋に居るから――」
それを聞いたあの日、彼女の家から飛び出した。それ以来僕は彼女の母と会わないように過ごしていた。
もう寝よう。そう決めて明日のために眠りについた。