1話『私は燃えている』
雪が降った日の、彼女からの返事の日が、すなわち命日であると。
僕を含め、誰も思わない事だった。
「私、燃えてるんだ」
染みついた消毒が香る彼女の病室と身体。
そうにわかに信じがたい告白を告げたのは、つい一昨日ICUから出てきた彼女。うすい笑顔に力はなく、状態はあまり良くないものなのだろうと僕は他人事に思う。実際他人事だし、感情移入をしてしまえば辛くなるのは僕自身だ。それにそうしてくれて良いと言ったのは彼女だ。
「……そう。水でも飲むか?」
「うんう。いい」
彼女の言葉の意味は何なのか、訊く気はない。細く力のない凹凸のない冬の枝みたいな白い腕につながる五指をきゅっと握る。その仕草を見せるときは大体言えないことがあるときに現れる。そのことを知っている僕なら気づいてくれる。そう意図的にやっているのだろうか。どうでもいいが、だとしたら意外とわがままな性格だ。
「何か言いたいことあんの? 言いなよ、せっかく来てるんだから」
「え。えっと……うんう、だいじょうぶっ」
「そうか」
あと一時間――。
僕がここから出られるまでの時間だ。
時計を見上げたらまだ五分しか経っていなかった。中学三年の冬。僕は国立の進学校を第一志望に大学まで見据えて受験勉強に励んでいたのに……こんなところにいるべきじゃないのに。
僕がそんなことを意識し始めたのはいつからだろうか……どうでもいい事だ。
彼女、杉屋美里は僕の幼なじみだ。出会いは生まれた頃からと言ってもいいだろう。だから他人、というより兄妹みたいな感じだった。
昔から体力がなく、すこしでも年頃らしく身体を動かすことはできなかった。走れば脈が乱れ整うことなく病院へ救急搬送される。そんな僕は昔からよく彼女と遊ぶよう親に言われた。そんな身体故同年代の友達すら出来なかった。ちょうど良かったのだろう僕は。おとなしくて。
けれど後一年もしない、半年もしない、この冬かも知れない、僕はこの役目からようやく、解放されるらしい。彼女もきっと、この長い苦しみから解放される。そのことを聞かされたのは彼女の口から、『私、これ以上よくなることはないんだって……もしかしたら一年以内に死んじゃうかもって――』僕は「ふーん」仕方ないね。と感慨すらわかずに。一年、長いな――。
その言葉を聞いてから七か月が過ぎた。
彼女が病院に寝泊まりするようになったのは春から、わざわざ僕は毎日健気に通っていた。もう十五年の付き合いになるのに感情移入など一切なかった。面倒だ、これが僕の思考の大半を占めていた。子どもにこんなことを押しつけた彼女の両親と、僕の両親が憎い。
そんな彼女の両親といえばもうアレはダメだ。完全に壊れた家庭だった。春から見るたびに顔色は悪くなり、宗教に縋り。けれど仕方のないことだ、ひとり娘がこんな状態なのだから。
僕は受験対策のプリントを彼女の病室の机に広げた。ただでさえ冷たい空気が一層冷たくなるのを背中に感じていた。
「なにしてるの? おべんきょう?」
「そうだよ、僕は受験して頭の良い高校に行くんだ」
「へー、頭いいもんね『りょうくん』」
「……そうでもないよ」
彼女はねむたげな声で『りょうくん』という。僕の名前は橋渡陵哉。
本心を打ち明けるなら――少し、本当は寂しくもあった。僕は学校から帰れば家ではなくここに来る、平日はたった一時間だけだけど、休日になれば面会が始まる時間から面会終了時間まで居る。そのせいで、とは言わないけど僕には友達が居ない。彼女が死ねば僕に友達が出来るのかなぁ。
きっとまだ僕は、『死』が何かを漠然としか知らなかったんだ。
「ねぇ?」
「あ、なに? 水でも飲む?」
「ちーがう、わたしにべんきょうおしえてよっ」
「難しいからわかんないと思うよ」
中学二年まで学校に通っていた彼女の成績は良くも悪くも普通だった。
勉強しないといけないのに。そう思いながらも頼まれたからにはやるしかない。アウトプットも大切だ。
脚にローラーのついた長細いテーブルがベッドに跨がる。
「あー、これみたことある」
どうせ学校なんて行かないのに。なんのために勉強をするんだ。そう思いながらも僕は適当に言う。
「じゃ、解いてみたら?」
僕は彼女の手元にペンを向ける。「ありがとう」と作ったような笑顔をしてから受けとる。そんな手でもペンを握れるんだ。僕は意外と初めて見るのかも知れない。彼女が僕の前で勉強をする姿を。
「あってる?」
「……残念。けどおしい」
口で説明するより書いた方が早い。そう思いながら訂正する。決して彼女の字はきれいじゃない。筆圧は弱く、引いた線はゆらゆらと、なんと書きたいのかかろうじてわかるレベルの文字。
「あ~そうそう、それだったねぇ。やっぱあたまいいね」
「もう半年以上も勉強してないのに、上出来だよ」
間違っている時点でクソもない。
その後も僕の勉強時間はマルバツ解説に費やされた。
すぐに一時間が過ぎて午後五時。
「じゃ。僕は帰るから」
「うん。ありがとうね」
いつからか彼女は「またあした」「またね」とか言わなくなった。明日があるのか僕にも彼女にもわからない。けれどそれは生きている生命すべてに言えること。明日が絶対に訪れるなんて誰にも言い切れない。
ネットをみれば嫌でもどこかで誰が殺されたと情報が流れてくる。殺人に自殺。そんな文字列に僕の心は微動すらしなかった。よくわからない。死んだから何なのか、その人が別に、特別なわけじゃないのに。




