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長いトンネル

作者: のらしろ

 日々の生活で悩みは尽きないものです。 

 私自身も日々くだらないと思わっれることから色々と悩んでおります。

 そんな私が今まで聞いたことや読んできたこと、それらについて考えてきたことなどを参考に短編小説風にまとめてみました。

 お時間の許す限り読んで頂けたら幸いです。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」


 これは川端康成の小説『雪国』の冒頭の一節です。私はこの作品を読んだことがありませんが、この一節だけはなぜか強く記憶に残っています。正確には「長い長いトンネルを抜けるとそこは雪国であった」と若干間違って記憶しているのですが。


 なぜこのように誤った形でこの一節を知ったのかは定かではありません。おそらく、テレビか他の小説で引用されたのを見たのでしょう。しかし、初めてこの一節に触れた時、強い印象を受けたことは間違いありません。今でも鮮明に記憶に残っているからです。


 おそらく、この冒頭の一節が、人生における重要な何かを暗示しているように感じたのでしょう。何らかの比喩表現で人生の真理を語っている、そのように感じていたはずです。今もそう考えています。


 私にとって、長いトンネルは人生における苦悩や困難を象徴しています。トンネルは、明るいイメージを持つものではありません。現代の高速道路のトンネルは明るいものが多いですが、この小説の時代背景を考慮すれば、トンネルの中は暗く、閉塞感に満ちていたでしょう。そこから連想されるのは、孤独や苦悩です。しかし、トンネルには出口があり、長いトンネルの先には、かすかな光が見えます。それは、苦悩の中に見える希望の光のように思えます。長い苦悩の先に希望を見出し、そこに向かって進んでいく、この一節はそのような人生の姿を描いているように感じます。私が間違って覚えていた「長い長い」という表現は、苦悩が長く続くという印象をさらに強めていました。


 しかし、トンネルの先にある「雪国」もまた、単純な希望の象徴とは言い切れないかもしれません。雪国のイメージは人によって異なります。ウインタースポーツを愛する人々にとっては肯定的なイメージかもしれませんが、豪雪地帯に暮らす人々にとっては、厳しい自然環境を意味します。かつて、雪は文字通り命に関わるものでした。「白い悪魔」と呼ばれることもある雪は、その白さゆえに、かえって恐ろしさを際立たせます。一面の雪景色は美しい反面、吹雪となれば容赦なく人の命を奪うからです。


 この冒頭の一節は、人生における絶え間ない苦悩を比喩しているのではないかと、今でも考えています。私自身の経験に照らし合わせると、この表現は非常にしっくりきます。学生時代、私は友人関係がうまくいかず、孤独を感じていました。それは、長いトンネルの中を手探りで進むような感覚でした。社会人になり、今度は別の種類の苦悩に直面しています。仕事では様々な人と協力しなければならず、最低限のコミュニケーションは必要です。多忙な日々に追われ、寂しさを感じる余裕すらありません。学生時代は静的な苦しみ、現在は激動の苦しみと言えるかもしれません。学生時代がトンネルのような静的な苦しみだとすれば、現在の生活は雪国の吹雪のような動的な苦しみです。


「雪国」の冒頭の一節は、トンネルの静的な苦悩と、雪国の動的な苦悩の両方を表しているように感じられ、私自身の経験と重なり、強く心に残っているのです。 



 なぜ今そんなことを考えているのか。それは、ひょんなことから雪国の寺の高僧と話す機会を得て、豪雪地帯として知られる十日町郊外の寺へ向かっているからだ。

 小説の冒頭に出てくる国境の長いトンネルは、新幹線であっという間に通り過ぎてしまった。

 暗いトンネルを感じることもなく、明るい車内で温かいコーヒーを飲んでいることに、どこか皮肉を感じた。

 越後湯沢で在来線に乗り換え、十日町を目指した。まだ昼前だというのに、空は重い鉛色の雲に覆われ薄暗く、降り始めた雪は次第に勢いを増し、吹雪と言っても差し支えないほどになっていた。

 私を乗せた列車は、吹雪の影響でやや遅れて十日町に到着した。


 十日町は、かつて雪まつりで賑わった喧騒が嘘のように、静かに雪に埋もれていた。高級絹織物の産地として知られるこの街は、冬の祭りが終わると、再び静寂を取り戻す。サスペンスドラマの舞台としても度々登場するため、その静けさが一層際立って感じられた。

 駅前のロータリーは閑散として、人影はまばらだった。

 雪まつりの賑わいが遠い過去のことのように感じられる。

 ここは観光地というより生活の場なのだろう。

 シャッターの閉まった店も目立ち、どこにでもある地方都市の風景が広がっていた。

 元々『雪国』の冒頭から良い印象を持っていなかった私は、目の前の白一色の風景に、得体の知れない不安を感じていた。

 寂しいロータリーに一台だけ停まっていたタクシーに乗り、行き先を告げた。

 運転手は一瞬戸惑ったものの、すぐに思い出したように「お客さん、観光かね?あの寺は特に何もないが、それでも行かれますか?ここからだと一時間ほどが」と尋ねてきた。

「観光ではありません。住職の方と約束がありまして」と答えると、運転手は「それなら仕方ないね。帰りはどうします?バスはありませんから、タクシーを呼ばないと帰れませんよ。よければ電話をくれれば迎えに行きますが、時間を教えてください」と言った。

 名刺を受け取り、タクシーは走り出した。


 街を抜けると、窓の外は一面の雪景色に変わった。

 起伏はあるものの、視界を遮るのは白い雪だけだった。

 幻想的と言えばそうかもしれない。だが、私の頭には先ほどから「白い悪魔」のイメージがこびり付いており、景色はどこか不気味に見えた。

 雪国の道を車で走ったことがあるだろうか。

 私はこれほど雪の積もった道を走った経験がなかったため、走行音が非常に静かなことに驚いた。

 積もった雪が音を吸収するため、雪国では静かに走行するのが当たり前なのだそうだ。

 さらに驚いたことに、タクシーの音を聞きつけてか、目的の寺の山門で住職が待っていた。

 北海道に比べれば極寒とまではいかないが、外は十分に寒い。

 雪も容赦なく降りつけており、住職は既に雪まみれだった。

 タクシーを降り、料金を支払うと、私は急いで住職のもとへ駆け寄った。

 都会育ちの私は革靴を履いており、案の定、山門の前で足を取られて転んでしまった。

 住職に心配されながら助け起こされ、寺の中へと案内された。

 本堂の前を通り、住職の私室に通された。

 暖房の効いた部屋は、冷えた身体に染み渡るように心地よかった。

 住職は、かすかに聞こえたタクシーの音で私の到着を知り、山門で待っていてくれたらしい。

 それほど大きくない寺なので、本堂に通されるかと思っていたが、この時期の本堂は底冷えがするとのことだった。

 住職は毎日本堂で勤行をしているそうだが、「慣れている私でもこの時期は堪える」と言っていた。

 住職のさりげない気遣いが、ひどく嬉しかった。

 心のわだかまりが少しずつ解けていくように感じられた。

 住職の振る舞いや佇まいから、徳のようなものを感じた。

 生まれつきのものか、厳しい修行の末に得たものかは分からないが


 部屋の中の小さな炬燵に促されるように座り、お茶をいただいて、私が十分に落ち着いたのを確認した後、ゆっくりと話を始めました。

「地獄のような環境で生きておられるとか。本当によく頑張っておられるご様子。今まで大変でしたね。ここではあなたの置かれてきた状況は詳しくは今お聞きしませんが、別の質問をさせていただいてもよろしいですか?」

「え? 私の方がご招待に甘えてここまで来たのですから、何なりとお聞きください」

「そんなにかしこまらずに。地獄のような生活とおっしゃっておられましたが、地獄のイメージをどのように持っていますか。今の生活の方の地獄ではなく、本来の地獄のイメージですが」

「地獄ですか。そうですね。今の生活そのものが地獄なのですが、ご住職のお聞きしたいことは別の話ですよね。あまりに一般的で、恥ずかしいのですが、私の知っている地獄は、針山や血の池、それに釜茹で地獄のような苦痛を伴う環境に落とされた亡者がたくさんいる世界でしょうか。ああ、それから、賽の河原というのもありましたね。河原でただ石を積み上げさせ、完成間近になると鬼に壊され、また最初からというのを延々とやらされるような、精神にくるような苦痛を与えるというのもありました。正直、私のイメージしている地獄はこんな感じですが。それが何か?」

「安心しました。私の持っているイメージもそれとそれほど変わりません。多くの方が感じている地獄もそれほど変わり映えしないのでしょうね。ところで、ご存知ですか。この地獄という思想ですが、西洋にも同じようなものがあることを」

「西洋ですか」

「はい、私もそれほど西洋に詳しいわけではありませんが、英語ではHELLと言うそうで、ここでも永遠の罰をそこで受けているそうです。キリストの教義については私は全くの門外漢なので、この地獄をどのように扱っているかは知りませんが、面白いとは思いませんか」

「面白いですか。私には何が面白いか見当もつきませんが」

「これは失礼しました。私が言いたかったのは、洋の東西を問わず同じような思想が存在することなのです。これは人間が持つ本質的な何かに起因しているのかどうかは分かりませんが、人間の多くが地獄の存在を考えたことがあるということを」

「はあ。私はそこまで他人がどのように感じているかについて考えたことがなくて、ご住職が言われたことがいまひとつピンと来ておりません」

「そうですね。この地獄という存在が、どちらも死後の世界と考えていることが共通していますが、私はそのようには考えておりません。これは仏教で言われていることや、本山の高僧から聞いたことではなく、私のいわば妄想のようなものですが、お聞きくださいますか?」

「ご住職がそのように言われるのなら、ぜひお聞きしたいと思います」

「最初から説明しますが、仏教の開祖であるお釈迦様は、ご自身では死後の世界について何もおっしゃっておられなかったというのをご存知でしょうか?」

「え? 死後の世界をお釈迦様は認めていなかったというのですか。それでは歴史で習ったことや、本願寺などの末法思想はどうなりますか?」

「たぶん、あなたが思っておられる末法思想について誤解されているようです。この説明は避けますが、これは死後の世界ではなく、お釈迦様の教えが長い時間できちんと伝わらなくなるので、阿弥陀如来様にお祈りをして救われようという思想のはずです。この場合、多くの方は阿弥陀様にすがって極楽浄土に移りたいという教えです。しかし、この極楽浄土というのは正確には私たちが思っている『あの世』とは違うのです。仏教では修行の後に悟りを開けば行くことのできる世界で、私は精神世界のことを指していると思っています」

「私には、とても難しくてよく分かりませんが」

「あくまでも私の妄想の範囲としてご理解ください。お釈迦様はこの苦悩のあふれる世界から救われるためにはどうすればいいかを考え、当時ご自身が釈迦族の王子という地位も、家族も捨てて厳しい修行に臨みました。当時の宗教界での厳しい修行をしても一向に救われず、菩提樹の下で静かに瞑想しているときにお悟りになられたと聞いております」

「そうなんですか」

「お釈迦様の修行については詳しくは述べませんが、お釈迦様の考えの根底にある部分だけは知ってもらいたいのです」

「根底の部分ですか」

「はい。あなたは『四苦八苦』という言葉を聞いたことがありますか?」

「四苦八苦ですか。まさに私の毎日がそれにあたります。四苦八苦しながら生きております」

「そうですね。ご苦労なさっておるのですね。ところで、その語源をご存知でしょうか?」

「語源ですか。いえ、知りませんが、それが何か?」

「それこそお釈迦様の考えの元にあると私は考えます。これは仏教用語から来ている言葉なので、簡単に説明させてください」


 ここでご住職はお茶を一口たしなみ、一呼吸置いて話を続けました。

「この四苦八苦の四苦には『生』『老』『病』『死』の四つのことを言い、まさに生きること、老いること、病になること、死ぬことの四つの苦しみを言います。次に来る八苦はこの四苦にさらに別の苦しみを四つ加えて八苦と言い、まさにこの世に生きとし生けるものすべてが、この世で苦しみを感じながら生きているという考えで、その苦しみからいかに脱することができるかを説いたのが仏教の始まりだと思っています」



「仏教の始まりが、この人生の苦しみから救われるためですか?」

「生きる苦しみと言ってもいいかもしれません。四苦八苦には肉体的苦痛や精神的苦悩が含まれており、簡単に言うならば、あらゆる苦痛や苦悩と言ったところでしょうか。私の友人の一人で口の悪い者が、『西洋のパンドラのせいだ』と言っていました。彼曰く、『パンドラが開けてはいけない箱を開けてしまったのが原因なのだから、西洋人がどうにかすればいい』などと乱暴なことを事あるごとに私に言ってきましたが、さすがにそれでは誰も救われません。それに、苦悩や苦痛の原因がパンドラの箱だけというわけでもないでしょう。話が逸れましたので戻しますが、お釈迦様は苦痛に耐え、厳しい修行の末に悟りを開かれ、人生の苦悩や苦痛からの救済方法を示されました。それが仏教だと思います。ああ、勘違いしないでくださいね。私はあなたを我々の宗派に勧誘しようなどとは考えておりませんから。私たちの考えに共鳴して入信してくださるのなら歓迎しますが。それに、この考えはあくまで私の個人的な考えであることを忘れないでください。それよりも、ここまでで何かお気づきになりませんか?」

「え? 何のことやらよく分かりませんが」

「肉体的な苦痛や精神的な苦悩。あらゆる苦痛や苦悩がそこら中に溢れるように存在する世界。今までのお話でも度々出てきましたが、お気づきになりませんか?」

「え? 何のことでしょうか?」

「最初に地獄のイメージの話をしたのをお忘れですか?」

「ああ、そういえばそんな話をしていましたね。そうですね、地獄のことを言っているようにも聞こえますね」

「先にも申し上げたように、これはあくまで私の個人的な考えですが、ひょっとしてお釈迦様のいた時代でも今の時代でも変わらず、この世は地獄そのものではないでしょうか。私にはそう思えてなりません」

「この世が地獄ですか。確かに地獄のような生活をしていたと言いましたが」

「ですから、地獄のような生活ではなく、地獄で生きているのです」

「地獄での生活ですか。それではこの先に希望はないと?」

「いえ、そうではありません。お釈迦様もその解決方法を示されました。もっとも、全員ができるわけではありませんが、解決方法があるということです。お釈迦様はその方法の一つを示されたと思っています」

「では、私にも修行しろと?」

「いえ、誰でも修行で悟りを開けるわけではありません。古今東西、本当に多くの方が修行しながら考えました。その中の一つに、先ほど話題に出た末法思想があります。阿弥陀如来にひたすらお祈りをして、阿弥陀如来に救っていただくという思想ですが、私は別のことを考えています」

「別のことをですか?」

「まずは、現状をありのまま認めてしまうことです。どんなに足掻いたって現状だけは変えようがありません。私の知り合いの一人が言うには、『とにかく現状を認めるだけでも気持ちが楽になる』というのです。何かまずいことがあっても、既に発生したことなら、良い悪いを考える前に、まずは現状そのものを素直に認めれば、気持ちが非常に楽になるとか。私もそう思います。現状苦しい立場にいるのなら、その苦しい立場そのものを冷静になって全て認めた上で、そこから何ができるかを考える方がどれだけ建設的でしょうか」

「でも、現状を認めるだけで苦しみは無くなりませんよ」

「確かにそうですね。先に申し上げたように、この世は苦しみに満ち溢れています。どんなに逃げようとしても、そう簡単に逃げられるものではありません。しかし、逃げよう逃げようと足掻くことで、必要以上に苦しみが襲ってくるように思われます。それよりも視点を変えてみませんか?」

「視点を変える?」

「はい、苦しみはとりあえずそのままで、それ以外にもあるということを理解してみたらどうでしょうか」

「それ以外ですか」

「どんなに些細なことでもいいのです。嬉しかったり、気持ちよかったりしたことはありませんでしたか? それこそ、東京からここに来るまでの間に、少しだけでも良いことはありませんでしたか?」

「そう言われましてもねえ……」


「例えば、ここに来るまでに利用した新幹線の隣に美人が座っていたとか……おっと、これはあまりに煩悩が過ぎますね。それ以外でしたら、途中で買った駅弁が美味しかった、あるいは買った駅弁に自分の好物が入っていた、などでもいいのです」

「え? そんなことでいいのですか?」

「はい、何でもいいのです。日常生活の中でも、こういったちょっとした幸せ、気持ちが楽になること、気分が良くなることなどは意外と多くあることに気づかされます。そんなこと、と言いましたが、そういったことでもほとんどの方が忘れがちで、見落としがちなことでもあるのです」

「確かに、苦しみばかりに気を取られていたことは否定しません」

「私は、こんなちょっとした良いことを『幸せの種』と呼んでいます」

「幸せの種ですか」

「はい、種ですから本当に小さなものですが、この種を自分の中で大切に育てていくことで大きくなります。また、小さなものですから見落としがちですが、意識することで意外とたくさん見つけられるものだと思っています」

「でも、ご住職。それでは確かに幸せな部分が大きくなるかもしれませんが、最初の苦しみは消えないように思うのですが」

「苦しみは消えないでしょうね。でも、苦しみにも種類があるように思います。ご存知ですか。何の著書だったか忘れましたが、その人は心配事について、『心配事の8割は実際には起こらない。また実際に起こる2割のうちのさらに8割は大したことにはならない』といったことを言っていたと記憶しています。記憶が定かではないので、これがその通りなのかは分かりませんが、まあ、ほとんどの場合が取り越し苦労となるものだと言っているのだと、私は今でも思っています。これは心配事について言っていますが、ここで話題にしている苦悩や苦痛についても同じようなものではないでしょうか。苦しみを感じている自分が、さらに悪いことを考えて自分を苦しめているのではないかと思っています。少し落ち着けば、『確かに苦しい状況ではあるが、以前感じていたほどではない』と気づくことがあるかもしれませんね」

「そんなものでしょうか。でも、その苦しみが多ければ同じでは?」

「そうですね。確かに、そういった面はあるでしょう。苦しみばかりでは誰もが辛くなりますね。ですがそれは、私たちは地獄で生かされていると考えたらどうでしょうか。地獄にいるのですから、苦しいのは当たり前なのです。ですが、人の心は簡単に変わります。今幸せを感じていたかと思ったらすぐに苦しみに襲われる、ということはよくあります。しかし、その逆もまた然りです。ならば、少しばかりの工夫をしてみませんか?」

「工夫ですか」


 ご住職はここでお茶を一口飲み、一息入れてゆっくりと話を始めました。

「ここで話は変わりますが、六道をご存知でしょうか?」

「六道ですか。さすがにこの言葉は初めて聞きました」

「多くの方はそうでしょうね。六道、または六道輪廻などと言い方もしますが、転生輪廻、または輪廻という言葉はよく聞く言葉だと思います。その輪廻に関する思想の一つとお考えください。簡単に言ってしまえば、天国から地獄までの間に4つの世界があり、それに天国と地獄を合わせて6つの世界を生まれ変わるというものです。多くの場合、今の行いが来世の運命を決めるといった考えがあり、善行をたくさん積めば天道、いわば極楽のようなところに生まれ変われ、逆に悪行をすればするほど地獄に近づく世界に落とされるという考えです。しかし、これも別の見方があるそうです。これは私が学生時代の恩師から聞いた話ですが、この六道が示す世界観は、そのまま今生きている私たちが感じる自分の感情そのもので、その感情はいくらでも天国から地獄までの世界の間を巡るといった話でした」

「え、ちょっと難しくてよく分からないのですが」

「私も学生時代にはあまりよく理解していなかったのですが、先の『この世は地獄』という考えに至った時に、私なりの理解ができました」

 ここでご住職は、私が落ち着くのを待って静かに話を続けてくれました。

「この六道ですが、『天道』、『人間道』、『修羅道』、『畜生道』、『餓鬼道』、『地獄道』の6つを言い、先の極楽のような世界を天道と言います。地獄は説明の必要はありませんね。転生輪廻の多くの考えは、それぞれの世界に生まれ変わるというもので、より高次元になるように功徳を積まなければならないというものです。末法思想でも出ましたが、阿弥陀如来にすがり唱えることなどは、この功徳を積む行為とされています」

「でも、ご住職は別の見方もできると?」

「はい、これは私の考えではなく高校時代の恩師の受け売りなのですが、この六道は人の感情そのものと考えることができると。輪廻は感情が変わることだと言っていました。もう少し砕けた言い方をしますと、気分が非常に良い時には誰にでも優しくなれるように、感情は天道にあると。色々と悩みが多く苦しんでいる時は人間道、怒りが収まらずどうしようもない時は修羅道、社畜という言葉が最近流行のようですが、まさに馬車馬のように働かされ心身ともに疲れている時の感情を畜生道、餓鬼道は空腹などを表す言葉ですが、これをいくら持っていても満足できない、自分の所有欲が抑えられない時の感情、最後は地獄ですね。こうしてみると、どの感情も誰でも持ち合わせる感情ですが、今の自分の感情はどこにあるかが問題なのです。本来お釈迦様のように修行により悟りを開けば、この感情は天道だけにあるのでしょうが、普通の人には無理です。恥ずかしい話ですが、長く修行をしてきた私ですら悟りは開けておりません。言ってみれば、私の感情も修羅や餓鬼、地獄もあるということです」


「ご住職でもそうなのですか」

「恥ずかしい話ですが、私もまだまだ未熟な人間ですから。でも、生きるヒントを見つけてからは本当に楽になりました」

「生きるヒントですか」

「それが、先ほどの話に出てきた『幸せの種』なのです。この幸せの種を一つでも多く見つけ、大切に育てていくようにすれば、それだけ自分の心の持ちようは天道にいる時間が長くなります。言うなれば、その間は苦しみから解放されるわけです」

「その間は苦しまない、と」

「まあ、見方によってはごまかしでしかないかもしれませんが、それでもできるだけ苦しまない方が人生を幸せに過ごせますからね。私はそう考えています。それに、天道にずっと留まっていることもできませんし、ある意味、ずっと留まっていたいとも思いません」

「え、それはどういうことなのでしょう?」

「先ほどは地獄のイメージをお聞きしましたが、今度は天道、いや地獄の反対の極楽、天国でも構いませんが、どのようなところだと思いますか?」

「天国ですか。天国というと洋風で天使が舞い、きれいな草原、この場合は花畑でしょうか。そんなところで静かに幸せを感じながら過ごしているような……。極楽も同じでしょうか。花畑、蓮の花の咲く傍で仏様が微笑んでいるそばで、幸せに暮らしているような場所でしょうか」

「私のイメージもそんなところですね。でも、少し考えてから答えてほしいのですが、ずっとそんな生活を送った場合、本当に楽しいでしょうか? 退屈しませんか?」

「あ!」

「私はその時、考えました。確かに素晴らしいものでしょうが、ずっとはどうか、と。私は人間ができていないのでしょうか、私の場合は絶対に退屈しそうで、何度でも行きたいとは思いますが、ずっとそこに留まるのは遠慮したい、と思うでしょう」

「そうですね。私もそう思います」

「少し前に読んだ本の中に、上手いことを言っていたコンサルタントの方がいました。彼が言うには、『極楽だけでは生きていけない』そうです。なぜなら、この極楽に続く言葉は、日本では『往生』しかないからです。この『往生』とは、お葬式などで聞かれるように、死ぬことを意味します。つまり、極楽だけでは死ぬことになる、と。色々な変化があって初めて人の営みであり、その変化には当然苦しみもありますが、その代わりに幸せもあります。幸せだけでは、人はその幸せを感じなくなるみたいですね。人は本当に業の深い生き物です。それだけに、人生もまた深みが出てくるのかもしれません。先にも話しましたが、どうせ地獄での生活だと思うなら、少しでも幸せを感じるだけでも儲けものだと考え、軽い気持ちで試してみてはいかがでしょうか」

「苦しみも人生の深みになる、と?」

「死んでしまっては元も子もありませんが、まずはそのままを受け入れてみてはいかがでしょうか。私の経験から申し上げますと、それだけでだいぶ心の持ちようが楽になります。余裕が出てくれば、わずかな時間でもいいので、幸せの種を探してみてはいかがでしょうか。少なくとも今よりは悪くならないと思いますよ。どうせ地獄での生活ですし、苦しみは無くなりませんからね」

「地獄の生活をありのまま受け入れることで楽になる……」

 その時、私の中で何かが始まるのを感じました。今までとは違った感情です。苦しくとも、それが当たり前なのだ、と。そのことで悩むことはない。別に苦しくたってそれでいい。そんな考え方ができるようになってきました。

「なんだか、ここに来た時より明るくなったように見えますね。今タクシーを呼びましたから、そろそろ来るでしょう」

 だいぶ時間を取ってしまったようです。しかし、ご住職の言うように、ここに来るまでは考えられなかったようなことを考えられるようになりました。何より、自分だけでなく、人は誰でも苦しむのだ、と分かっただけでどれだけ心が楽になったことか。しかも、それは少なくともお釈迦様の生きていた時代まで遡れるというのです。

 これはもう、人間の持つ本質のようなものではないか。なんだか、今まで悩んでいたことが馬鹿らしくなってきました。具体的な苦労や悩みは何一つ変わっていないのですが、それでも明日からはもう少し前向きに物事を考えられるような気がします。

 私は長らくお時間をいただいたご住職にお礼を述べ、山門のところまで行きました。すでに、来る時にはあれほど降っていた雪は止んで、雲の合間から青空も見えていました。

「きれいだ……」

 雲の合間から差す日の光が、何か奇跡の光のように思えて、思わず独り言を漏らしました。ああ、これがご住職の言っていた『幸せの種』なのだ、と、私にもはっきりと理解できました。同じ景色なのに、ただ見ているだけで心の中から何やら温かなものが込み上げてきます。

 ここに来る時に乗ってきたタクシーの運転手が、笑顔で私を迎えてくれます。

 昨日までの私と状況は何ら変わらないのですが、明らかに明日から私は変わることができる。

 ここに来るまでは考えられないくらい穏やかな気分で、私は東京に帰っていきました。





 私の独りよがりな考えが多分に入った作品となってしまいました。

 内容に違和感や異議などをお持ちの方も多くおりますでしょう。

 こんな考え方もあるのだなと、軽く受け止めて頂けたら幸いです。


 また、読者の方の今後の生き方に、もしほんの一部でも参考となれば、これは作者として望外な喜びとなります。


 どちらにせよ、一人でも多くの方のこれからの人生に

   幸いあれ

 とお祈り申し上げます。

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