閑話「独りぼっちの狐」後編
苺に蜜柑、艶やかな果物を、幼子の目の前に差し出す。
食べるように促して、幼子が果物を口にするのを見届けた。
数秒咀嚼すると、幼子は喜色の声を上げる。
そして、僕へ礼を告げて、頭を撫でた。
(やった、喜んでもらえた……!)
なんだかそわそわと落ち着かず、暫く幼子を見つめていると、再び目が合った。
今度は、ゆっくりと背中を撫でられる。
背中を往復する小さな手は、とても優しい。
幼子は少し考える素振りをした後、僕に尋ねた。
「きつねさんは、ただの、きつねさんなの? それとも、ようかい、だったりするの? はなせたりとか、ひとになったりとか、できる?」
僕は驚いて、言葉を失う。
この子は、僕が妖怪だと知っているのか?
人型になれることも見抜かれていた?
なんて、鋭い幼子だろう。
このまま、本当のことを告げてしまおうか。
そんな思いが頭をよぎる。
本当は僕も人型になって、幼子と話がしたい。
けれど、怖気付いてしまった。
人から与えられた優しさは沢山あるが、また、同じように、人に植え付けられた恐怖も根深いものだったからだ。
妖怪だと、霊力を持っているのだと知られることが酷く恐ろしかった。
向けられた優しさが、離れてしまう……、そんなことは、今の僕には耐えられそうにない。
どうすることも出来ずに項垂れていると、幼子は静かに、これまで自分に起きた事のあらましを僕に話し始めた。
それは、驚くべき内容だった。
曰く、彼女は生け贄として死ぬはずだったのだという。
川に沈められ、死にかけた時、生きたい一心で前世の記憶を取り戻したのだと。
そして、なんとか森を彷徨い歩いて、今に至るのだと。
(生け贄の子供……。 森を死ぬことなく彷徨える人間……。 貴方も霊力持ちなんですね)
そう考えると、親近感が湧いた。
心細そうに語る彼女は、不安気に顔を曇らせている。
笑って欲しくて、彼女に頭を擦り付けた。
彼女はきょとんと目を丸くした後、ふんわりと笑った。
(僕が、守ってあげますからね……)
少しの決意を胸に抱く。
いつのまにか降り注いでいた雨は、雨脚が弱まり、そろそろ止みそうだった。
******
夕暮れに染まる山道を、彼女と二人で歩く。
夕飯は何を採って来よう。
彼女も喜んでくれていたし、もう一度、果物を探そうか。
拓けた場所に出て、果物の香りに鼻をひくつかせる。
(果物を採って来たら、彼女はまた笑いかけてくれるでしょうか?)
期待に胸が膨らみ、気が逸る。
僕は彼女に一声かけてから、走り出した。
『すぐに、戻って来ますからね!』
僕は浮き足立っていた。
だから、失念していたのだ。
この森が、危険な森であることを。
ある程度果物を採り終えた頃、遠くから何かが鈍くぶつかる音がした。
(まさか、彼女に何かあったのか!? )
急いで元の場所まで引き返すと、頭を手で押さえている彼女がいた。
両膝からは、血が出ている。
さあっと、血の気が引いた。
(し、死んだりしませんよね? 霊力持ち、ですもんね……? 傷が悪化して死んだりなんてことは……。ああ、どうすれば。どうすれば良いんでしょうか?)
混乱で頭が回らない。
傷は、舐めれば治る。
本能がそう告げた。
僕はそれに従って、ゆっくりと彼女の傷口を舐め始める。
すると、彼女は驚き、抵抗して来た。
(治療なんです。 大人しくしていて下さい!)
なおも暴れる彼女を、狐型で抑えるのは難しい。
(僕は、貴方に死んで欲しくないんだ!)
妖怪だと分かって、嫌われるのが怖い。
だが、それ以上に、優しくしてくれた人間が死ぬのを見るのが怖かった。
身体は自然に人型へ変わっていた。
その後の事は、傷を舐めるのに必死になり過ぎて、あまり記憶にない。
せっかくの、初めて彼女と交わした会話だと言うのに……。
ただ、彼女が「人型も嫌いではない」と言ってくれたことだけは、心に残っていた。
******
ぐったりとした彼女を、元の木の虚まで運ぶ。
(そう言えば、さっき寒がっていましたね……)
ふと、そう思い立って、眠る彼女の背中を支えるように優しく抱きしめた。
動物の体温は温かいのだ。
彼女も暖まると良いのだが。
暫く待っていると、彼女は目を覚ました。
顔を赤く染めて、離れて欲しいと何度も頼まれる。
狐型時より表情も口調も堅く、寂しい気持ちになった。
良かれと思ってしたことは、彼女には迷惑だったらしい。
彼女は手で頭を守るようにぎゅっと縮こまり、抵抗の意を示している。
(やはり、化け狐は怖い? 嫌われてしまった? それは、嫌だなぁ)
嫌われるのは嫌だ。
けれど、名残惜しい気持ちも強くて、少しだけ抱き方を緩めた。
ちらちらと、彼女が此方を見上げてくる。
僕は怖がらせないよう、最大限の笑顔で返す。
暫くすると、彼女はじっと動かなくなった。
(お腹が空いたんでしょうか?)
そう思って、採ってきた苺を差し出す。
彼女は一瞬躊躇ったが、受け取って美味しそうに食べた。
そういえば、自分も昨日から碌に食べていない。
彼女を真似て、僕も苺を食べた。
途端、口の中に酸っぱい味が広がる。まだ、熟していない物だったようだ。
「うぇ、ちょっと酸っぱいですね。ハズレを引いた」
苦情じみたことを口にすれば、彼女は思わずと言った様子で笑みをこぼした。
(う、わ……)
見惚れて、惚ける。
それは、優しい優しい笑みだった。
(人型に化けても、貴方はそんな風に優しく笑いかけてくれるんですね)
霊力があって、妖怪でも、人に化けても、笑いかけてくれた人間は彼以外いなかった。
感極まって、目に涙が溜まる。
今の喜びを伝えたくて言葉を口にしたが、声が震えて上手く話せなかった。
名前を呼んで欲しくて、涙を拭いながら自分の名前を名乗る。
彼女は戸惑いがちに、僕の名前を呼んだ。
その上、僕の心配までしてくれる。
僕も彼女の名前を呼びたくて、名前を訊ねた。
そして、後悔した。
彼女は、人身御供用に育てられた、霊力持ち。
初めから名前など無い。
そう、彼女からも聞いていたのに……。
(やらかした、僕の馬鹿! 何をやっているんだ……!)
申し訳なくて、彼女に呆れられたくなくて、僕は躊躇いつつも彼女の名付けを申し出た。
期待した眼で見つめられ、またしても申し出たことを後悔し始める。
(期待に添える名前……。そんな立派なもの、僕に考えられるだろうか? 紅、どうか力を貸してください!)
咄嗟に、自分の名付け親へ願をかけた。
彼との生活を思い出す。
『紅、どうして、僕の名前は紫白なのですか? そのまま過ぎて、少し恥ずかしいです』
『バーカ、名は体を表すんだよ。率直が一番。その方が、地に足つけて生きられる。紫は高貴な奴が好む色だし、いずれ天狐になるオメーにもぴったりだろ?』
(率直に……)
彼女の方を見る。
綺麗な緋色の瞳と目が合った。
あの紅い花と重なる色だった。
『おう、紫白! 見てみろ、椿だ。巷じゃあ、首落の花なんて言う奴もいるけどよ、可哀想じゃねえか。コイツは自分が死んで落ちても、次に繋ごうとする強い花なんだぜ!しかも、とびきり赤くて綺麗だ! 俺の瞳みてーにな!』
『……もし、俺が居なくなったらよ、これ見て思い出してくれ。俺は強く生き抜いた男だったってな!』
赤い瞳に既視感を感じた。
強く、最後まで美しく、生き抜いて欲しいという願いを込めて。
二度と、彼の様な結末は迎えさせないという戒めを込めて。
僕はその名を呟いた。
「では、椿……というのはどうでしょう?」
意味のない生活はもう終わり。
これからは、彼女を守って生きるのだ。
僕は改めて、彼女を守ろうと心に誓った。
この後、街へ行きたいとごねる彼女へ苦言を呈したり、結局街まで行くことになり、昔馴染みと顔を合わせて一悶着することになるのだが、それはまた別のお話。




