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番外編「追憶」

椿達が都に来てから、音次郎に会う前ぐらいのどこかであった出来事。福兵衛の話です。


 片手に酒瓶を包んだ風呂敷を持ち、砂の道を踏みしめる。

 先程まで晴れていた空はどんよりと曇り始め、辺りからは雨の匂いが立ち込めていた。


「これはひと雨来そうだな……」


 福兵衛が空を仰ぎ見た瞬間、鼻先を雨粒が掠める。

 いよいよ降り出した雨に、福兵衛は急ぎ近くの軒下へと駆け込んだ。

 にわか雨だろうが空はまだ暗く、止むまでに時間を要しそうだった。傘を持ってこなかったのは失敗だったかもしれない。

 次第に激しさを増していく雨は、福兵衛へ感傷的な気分を運んでくる。

 雨音に耳を澄ませながら、福兵衛は遠い昔のことを思い出していた。


 ————それは、今と同じような雨の日の出来事。福兵衛と、とある男の出会いの記憶だ。




 遥か昔、まだ妖怪というものが世間に知られるようになる前、ぼんやりと微睡むような意識の中で福兵衛は生まれた。

 その頃の福兵衛は、自分という自己の確立すら危うい、霞のような存在であった。

 ただ無意識下で己がどういう存在なのかは理解していて、時折、ふらりと人の家に上がり込んではご飯を貰う。その後は誰の記憶にも残らずに、再び同じ事を繰り返す。

 覚えてもらえないことに少々の寂しさはあったものの、それがぬらりひょんという妖怪の概念であったから、あまり深くは考えなかった。考えるほどの頭がなかったともいう。

 そんな毎日を続けていた、ある日のことだ。


 その日もいつものように民家に侵入し、食事にありつこうとした。

 いつもなら人間は己の存在に気付かず、まるで自分の家族であるように共に食卓を囲む。

 だというのに、その日訪れた家の男はこちらを指差して、威勢よく啖呵を切った。


「オメー、妖怪だろう。人の家に勝手に上がり込んだことは許してやるが、いただきますの言葉もなしにタダ飯食おうたぁ、いい度胸じゃねぇか!」


 急な事態に気が動転し、外へと飛び出す。


「オイ、コラ! 待ちやがれ!」


 見抜かれることも、追いかけられることも、何もかもが始めてで、どうすれば良いのか分からない。

 だが、背後を駆けてくる男がとても怖い顔をしていたため、反射的に逃げてしまった。

 降り注ぐ雨の中をバシャバシャと走り抜け、男が見えなくなったことを確認し、ようやく立ち止まる。

 あるのか無いのか分からない心臓が、ドキドキと早鐘を打っていた。


 しかし、人間に咎められてしまった以上、これまで通りに民間へ侵入するのは難しいかもしれない。これから、自分はどうするべきだろうか。そんなことを訥々と考える。

 なかなか止まない雨に打たれながら、輪郭の曖昧な己が手をぼんやりと眺めていると、不意に雨粒が止んだ。


「オメー、こんなところにいやがったのか」


 見れば、先程の男が己の持っていた傘をこちらへ差し出している。


「雨ん中突っ立てたら風邪ひくだろうが。オメー、普段はどこに住んでる?」


 そう問われ、返答に窮した。自分は住処などもっていないからだ。

 少し考えて、家屋の軒下を指させば、男はわしわしと己の頭を掻く。


「……なんだ、生まれたてなのか? ……あ〜、悪かったな。さっきはオメーのこと、人間相手に悪さする輩だと思ったんだよ。最近多いだろ、そういう話」

「…………?」


 そうなのだろうか? そもそも、妖怪というものがどういうものか分からない。今のところ、自分以外の自分に似た生き物は見ていなかった。


「わかんねーか? というか、オメーはなんなんだよ。妖怪じゃねえのか? 名前は?」

「…………」


 首を傾げれば、男はますます困った様だった。


「……もしかして、口がきけねぇのか? それとも意味が分からなかったか? じゃあ、そうだな他の人間から何かいわれたこととかは……」


 人から言われた言葉、自身の概念。男に言われたことを噛み砕き、自分に刷り込まれた記憶を引っ張り出す。

 そうしてなんとか発した初めての言葉は、言葉とも言えぬような微かな音だった。


「……ぬらり、ひょん」

「何だ、喋れるんじゃねえか。驚かせやがって! にしてもオメー、そんな顔してやがったのかよ。妖怪のくせに中々美丈夫じゃねえか!」


 目を丸くした後、男は豪快に笑ってみせた。

 バシバシと背を叩かれながら、男の言葉を不思議に思い己の身体を見る。

 すると、これまでぼんやりとしていた自分の輪郭が嘘のようにハッキリと現れていた。

 いつの間にか雨は上がっていて、視線をゆっくりと水溜まりへ向ける。

 水面に映った自分は、人間のような姿で確かにそこに存在していた。



******



『行くとこないなら家来いよ。ちゃんといただきますが言えるなら、家に置いてやる』


『オメー、名前ないの? じゃあ、今日からオメーは福兵衛だ。滑瓢(ぬらりひょん)(ひょうたん)の別名って、ふくべっつうらしいからな。わはは、我ながら分かりやすい名前だろ』


 紅と名乗った男は、福兵衛に名前と居場所を与えた。

 そんなことをしても、一銭の得にもならないだろうに不思議な人間である。


『どうして自分を助ける?』


 そう問えば、男は至極当然といった顔でこう答えた。


『どうしてって、何の道理も知らねぇでさまよってる奴をほっとくのは、人としていかんだろ』


 つくづく変わった人間である。

 紅の家に来てから、福兵衛はさまざまなことを教わった。衣食住の基本的なことから、人間社会の仕組みについて、文字の読み書きに、妖怪と人の違いについて。

 生きるために必要な知識は、全て紅から教わったと言っても過言ではない。

 時折、傷ついた妖怪や行き場のない妖怪を助ける紅を手伝ったり、福兵衛自身が助けたりもした。

 そんな生活を十数年も続け、福兵衛が人の世に馴染み始めた頃のことだ。

 夕飯終わり、ゆったりと寛いでいた時、紅がぽつりと質問を投げかけてきた。


「福兵衛、オメー、霊力持ちの話覚えてっか?」

「勿論だとも。お前が教えてきたのだろう。覚えている」

「なら話が早ぇ。ずっと黙ってたんだかな、実は俺、その霊力持ちなんだわ。そろそろこの住居から引っ越そうかと思っててよ」


 福兵衛はしばし瞠目したものの、「そうか」と頷く。


「微妙な反応だなぁ。もっと驚くなりするもんかと思ってたんだが」

「驚いていないわけではないが……。お前が儂らのような存在を知覚でき、世話を焼く姿を長く見てきたからな。霊力持ちだと言われて、ようやく納得がいった」


 普通の人間に妖怪の前身となるもやを知覚することは難しい。その上、妖怪だとわかっていながら相手に気を許す紅の感性は、どちらかといえば人間よりも妖怪に近しいものがあった。

 一般的に妖怪は悪であるというのが、人々の認識だ。

 実際にはただ空を飛んでいるものだとか、夜中に豆腐を売ろうとしたりだとか、動物に紛れているような害のないものもたくさんいる。

 人にも善人悪人がいるように、妖にも様々な者がいることを福兵衛はここに来て学んだ。


 霊力持ちもそうだ。良いものも悪いものも等しくいる。けれど、そんなこと世間にとっては知ったことではないらしい。

 紅の見た目は年をとらない。そのことを不審に思う近隣住民が出始めていた。

 平穏に暮らすため引っ越すという紅の話に思うところはあれど、世間の霊力持ちへの風当たりを考えれば彼を止めることは出来ない。


「同じ人間だというのに、少し違うというだけで嫌な噂が広がるのだから困った者だ。……寂しくなるな」

「そうだな……」


 他者と過ごす楽しさを知った今の福兵衛にとって、彼がいない生活は考え難いものだ。

 本当は紅に着いて行きたかった。

 だが、福兵衛は都の人間由来の妖であり、福兵衛を形作る感情のない場所へ行くことは危険を伴う。最悪の場合、この世から存在が消えてしまう可能性もあった。

 現実と感情の違いに、ままならないものだなと福兵衛は自嘲気味に小さく息を吐く。


「西の山の方に行こうと思ってんだ。あっちはまだ行ったことがねぇから、俺を知る人間もいないだろうしな」

「……一人で大丈夫なのか?」

「なんだぁ? 一丁前に俺の心配してんのか? 俺は大丈夫だよ。何年一人で暮らして来たと思ってる。それより、俺はオメーの方が心配だわ」


 紅は子の独り立ちを見守る親のような顔で、福兵衛を見る。

 だから福兵衛は紅を安心させてやろうと、力強く胸を張ってみせた。


「大丈夫だとも。儂がここに来てもう何年経つと思う? 妖怪の知り合いも増えた。妖怪とも人間とも、それなりに上手くやれるさ。……まあ、人間はそもそも儂のことを忘れがちだからな。悪感情を向けられる心配も少ない」

「はは、それもそうか。気配を消すことに関して、オメーにかなうやつはいないわ」

「そうだろう、そうだろう」


 福兵衛は鷹揚に頷き、そしてある決意を込めて再び口を開く。


「それとな、紅。これを見てくれ」

「急にどうした?」


 居間の箪笥の上から福兵衛が持ち出したのは、一輪の花が生けられた花瓶だ。

 福兵衛は不思議そうな紅へ、昼間に起きた出来事を話す。


「今日の昼に、すねこすりがくれた花だ。山で腹を空かせているところに出くわしてな。持っていた握り飯をやったら、ぺこぺこと何回も頭を下げて、どこからかこの花を取ってきてくれた」

「へー、良かったじゃねぇか!」

「うむ。それで何が言いたいのかと言うとだな。儂は存外人助けが性に合っているらしい。儂がしたことで他者が喜んでくれると、こちらまで嬉しくなってしまうのだ。この感情はきっと、お前に助けられ、お前と共に暮らしたからこそ得られたものだと儂は思う」


 自分の想いを口にするのは気恥ずかしかったが、静かに福兵衛の言葉を傾聴する紅へ、福兵衛は精一杯の感謝を述べた。


「だから、あの日儂に手を差し伸べてくれて、共に過ごしてくれて……、ありがとう」

「……おう」


 照れた様に視線を泳がせた紅に笑いかけ、福兵衛は宣言する。


「儂はいずれ必ず、妖怪やお前のような人間が住みやすい世の中を作るよ。だから、もしそうなった暁にはまた儂と共に暮らそう」


 困っている者には手を差し伸べたい。誰も嫌われることなく、笑っていて欲しい。それは紅だって例外ではない。

 培った想いがたとえ偽善だと言われても、福兵衛はこの男ごと妖怪を、人を、助けたいと強く思うのだ。


「……そうだな、考えとく」


 そう答えた紅の声は少し震えており、鼻をすする音も聴こえてくる。

 顔を逸らせた紅を見て福兵衛は静かに微笑むと、夕食の皿を片付けに厨へ向かったのだった。



*******



 紅が居なくなってから、長い月日が流れて福兵衛は随分と都に馴染んだ。

 妖怪の世話に始まり、悪事を働くものは取り締まるなど、妖怪の印象を良くするため精力的に働いた。

 定期的に職を変え、住処を変えながらも、妖の正しい知識を広めようと努めた。

 人間相手に始めた紙芝居が思いの外好評で、今はそれを使ってどう妖怪の認知を広げるか考えているところだ。

 また、都に通りがかった高名な陰陽師に師事を仰ぎ、己の妖力の使い方や呪術についても学んだ。

 屋敷には結界を張り、霊力持ちが生きやすくなるような術も覚えた。

 紅との約束は果たせていないものの、自分の思い描く世の中へ、少しづつ歩んで行けている実感がある。

 さて、次は何をしようか。福兵衛がそう考えていた矢先の事だ。


「福兵衛居るか?」


 結界の揺れを感じたと同時に、聴き馴染みのある声が聞こえた。

 慌てて福兵衛が玄関先に駆けつければ、以前より少しだけ年老いた紅が立っている。

 紅が元気でやっているのは風の噂で聞いていたものの、いざ会うと形容し難い郷愁が込み上げて、福兵衛は一瞬言葉に詰まった。


「……嗚呼、紅よ、息災だったのか。久しいな」

「おうよ。オメーもずいぶんここに馴染んだな。都の雰囲気も良くなってる気がするぜ」

「はは、あれから何年経ったと思っている。ろくに顔も見せないで、お前は何をやっていたのだ。……まあ良い、積もる話もある事だ。とりあえず、上がれ」


 紅を招き入れようとして、紅の後に見慣れない童がいる事に気づく。

 童は紅の背後から福兵衛を伺い、目が合った瞬間ぴゃっと紅の背中へ隠れてしまった。


「その子は?」

「すまん、人見知りが激しくてな。詳しい話は中でする。あまり人目に付きたくない」


 訳ありらしい童を横目に見て、福兵衛は一つ頷く。

 居間に移動し、腰を落ち着けてからようやく紅が口を開いた。


「こいつ、霊力持ちなんだよ。親に捨てられて弱ってたところを俺が保護した。ほら、紫白。挨拶しろ」

「……」


 紫白と呼ばれた銀髪の童は、仏頂面で福兵衛を見上げ軽く頭を下げる。

 緊張しているようで、表情は強張っており、福兵衛はどう声をかけるべきかと頭を捻った。

 そして先日貰った玩具の存在を思い出す。あれなら、仲良くなるきっかけになるかもしれない。

 福兵衛はいそいそと玩具を持って来ると、そっと童の側へ寄った。


「……?」


 警戒しながらも、不思議そうにこちらを見る童。福兵衛は取り出した吹き戻しをサッと咥え、童の前で吹いてみせた。

 ピョーっと軽快な音が鳴ると同時に、童の身体がびくりと飛び上がる。

 次の瞬間、童の姿はかき消えて、そこには小さな銀色の狐がいた。


「おや、人の子ではなかったのか。これは悪いことをしたな」

「あー、すまん。オメーのとこに来たのはこれについて相談があるからなんだ」


 くいっと顎をしゃくる紅と、紅の背後から不機嫌そうにこちらを見て低く唸っている小狐を交互に見て、福兵衛はふむと頷いた。

 紅の話はこうだ。曰く、霊力持ちの小狐は紅と暮らすうちに人間に化けるようになったらしい。けれど、変化は未熟で危なっかしい。その上、狐姿でいるように伝えても嫌だと駄々をこねる。教えようにも紅は術の才能が皆無であり、教えられず。悩んだ末に福兵衛が術を扱えるという噂を聞いて、都に立ち寄ったのだという。


「そうか……お主にも苦手なものがあったのだな。変化の術なら、儂でも教えられるだろうが」


 ちらりと見た小狐の反応は、心底不満そうであった。

 紅の為にと準備した術が違った形で役に立つというのなら、手伝いたいものだが、はてさてどうしたものか。


「こら、紫白! これから術を教えてもらおうって相手にその態度はダメだろ。ちゃんとお願いしろ。んで、素直に言うこと聞くんだぞ」


 小狐は心外だと言わんばかりにそっぽを向き、紅がコラッ!っと小狐を小突く。

 しばらくした後、小狐はようやくしぶしぶと言った様子で頭を下げたのだった。



 紫白という小狐はとても賢い子供であった。 

 さっさと福兵衛の元から去りたいという理由もあるのだろうが、のみこみが早く、一度言えばすぐに理解する。

 わずか数日で人に化けるコツを掴んだ小狐は、あとは自分で練習出来るからと紅を急かし、二人はさっさと山へ帰って行った。

 去りぎわ、紅に「俺にもしもの事があったら、紫白の面倒をみてやってくれねぇか」と頼まれ、二つ返事で「勿論だ」と返したりもしたが、まさかあの言葉が紅と話す最期の言葉になるなど、この時の福兵衛は考えもしていなかった。



*******



 紅が死んだ。

 村の子供を助けるため、氾濫した川へ飛び込んだのだという。

 都の妖怪から知らせを受け、自身の存在が揺らぐ事も厭わず西の山へ向かった。

 紅に託された紫白の安否が気がかりだった。

 近辺の妖怪に訊ねながらたどり着いた木々の先にいたのは、血塗れで憔悴しきった紫白。

 人間にもなりきれず、狐に戻ることもなく、人型に狐耳と尻尾を生やした姿で、木の幹を背にうなだれている彼に、福兵衛はゆっくりと近づく。

 紫白は一瞬、福兵衛へ殺気を向けたが、見知った顔だと気づいたようで、再び視線を足元へ戻した。

 福兵衛が側に腰を下ろしても、紫白の反応は薄い。

 紫白が無反応なのを良いことに、福兵衛は紫白の血を拭い、傷の手当てをおこなった。

 何があったのかは道中の妖怪の話から予想が出来ていたが、応急処置の道具を揃えておいて正解だったなと、福兵衛は思う。

 一通りの処置を終えて、福兵衛は紫白へ問いかけた。


「都へ来るか?」

「…………」

「同じ紅に助けられた縁だ。何かあれば儂を頼ると良い。これでも、妖怪連中からの信頼は厚いんだぞ?」


 紅という言葉にぴくりと反応した紫白が、ゆるりと首を振る。口を聞く気力が、今の彼にはないようであった。

 福兵衛は紫白の側に持参して来た食料を置き、再度口を開く。


「また来る」


 都から離れたことで、福兵衛の輪郭はぼやけ始めていた。けれど、都から出ないという選択肢は今の福兵衛の中にはない。

 紅に助けられ育ったもの同士、血の繋がりはなくとも情はある。

 福兵衛は自分の一番弟子であり、兄弟のような息子のような彼を放っておくことが出来なかった。

 何より、世話好きな男の最後の頼みでもある。


 福兵衛は紫白の所へ定期的に通った。

 時に流行りの菓子を持ち、時に面白い渡来日を見せ、手を替え品を替え紫白を喜ばせようとする。気配を消して声をかけた時には、ひどく怒られたりもしたものの。

 会うたびに素っ気ない態度ではあったが、少しづつ元気になっていく紫白の様子に福兵衛は胸を撫で下ろしたものだ。

 数年程して、『もう大丈夫だから、来なくていいです』と紫白に言われてからは、ごくごく稀に顔を出す程度になったものの。

 いつでも手を貸せるように、福兵衛の居場所だけは毎回必ず伝えていた。

 あの時の行動は間違っていなかったと、数百年過ぎた今、福兵衛は改めて思う。




 すっと差し込んだ光に、福兵衛は顔を上げた。

 物思いに耽っている間に、随分と時が経っていたようだ。

 いつのまにか雨は止み、雲もまばらになっている。


「さて、向かうとするか。紅は待ちくたびれているやも知れんな」


 酒を包んだ風呂敷を抱え直して、福兵衛はようやく軒下から歩き出す。

 目的地はすぐ側の川だ。

 河川敷へ到着し、福兵衛は鉄砲水を警戒しながら川辺に近づく。そして、花束を投げ込んだ後、持参の酒を取り出し、少しかさが増した川の中に注ぎ入れた。

 紅が亡くなった日も、川上は酷い雨だったらしい。

 紅の死体は上がらず、骨すら激流に飲まれて、水中に沈み消えたのだという。

 都へ続く川だ。下流をさらえばあるいは、と都の知り合いを総動員し捜索したが、紅の遺体はおろか着物すら見つけられなかった。

 福兵衛が墓参りといいながら川へ来るのは、遺骨すら拾ってやれなかった紅へのせめてもの手向けなのだ。


『俺にもしもの事があったら、紫白の面倒をみてくれねぇか』


 いつかの言葉が、脳裏に浮かぶ。

 福兵衛は持ち出した枡に残りの酒を注ぎ、乾杯の手振りをした。


「紅よ、紫白は元気でやっているよ。最近都に越してきて、儂と一緒に住み始めたんだ。お前とよく似た瞳の幼子も連れてな。きっと、これからもっと楽しくなるぞ」


 だから、安心して眠ると良い。

 最期まで世話好きを貫いた男へ心の中でそう呼びかけ、枡いっぱいの酒を飲み干す。

 福兵衛はゆっくりと黙祷を捧げた後、川から踵を返した。

 後ろ髪を引かれても、福兵衛の居場所はもう彼の男の元ではないのだ。


「さて、帰るとしよう。……土産はやはり稲荷寿司が良いだろうな」


 福兵衛は、川辺に芽吹いた緑の中を足早に歩いていく。

 託された子と、子が連れてきた娘。縁は新たな縁を呼び、次々と広がっていく。

 賑やかな我が家を思い浮かべて、福兵衛はゆっくりと口元を緩めた。



※一方その頃の椿達。福兵衛の家にて。

********


「ふくさん、ふくさ〜ん! どこ〜?」

「椿? どうしました?」


 パタパタと廊下を駆け回っていると、通りがかりの紫白に呼び止められた。


「いや、ポストにふくさんあてのてがみがきてたから、わたそうとおもって。でも、へやにもいまにもいなくて……しはくはふくさんがどこにいったかしってる?」


 多忙な福兵衛のことだ、手紙が急ぎの内容でないとも限らない。

 早急に伝えるべきだと思い、福兵衛を探し回ってみたものの姿は見えず。

 もしかすると、外出してしまったのかもしれないなと考えながら、私は紫白へ問いかけた。


「ああ、福兵衛なら今日は所用で出かけてますよ。……全く、律儀な人だ」

「え?」


 ボソッと呟かれた言葉が聞き取れず聞き返すが、紫白は一瞬伏せた目を何事もなかったように開き、微笑を浮かべる。


「福兵衛のことだ、仕事関係は問題ないよう手を回しているはずです。その手紙も急ぎじゃないと思いますから、福兵衛の文机にでも置いて置けば良いですよ。僕が置いてきましょうか?」

「ううん、だいじょうぶ。ありがとう、しはく」


 差し出された手に断りを入れれば、紫白は少し残念そうにしたものの「居間でお茶の用意でもしておきますね」と送り出してくれた。

 私はそれに分かったと返し、もう一度福兵衛の部屋へと向かう。

 それにしても、福兵衛があらかじめ仕事を終わらせておく程の用事ってなんなんだろう?

 そんな疑問が頭を掠めたものの、深く訊くのもはばかられ、私はまあ福さんだし色んな交友関係があるよねと己を納得させたのだった。


********


※紫白さんは墓参りの概念は知っているものの、動物なので墓参りの習慣がない上(紅の遺骨もないし)、苦い記憶の残る川には行ったことがありません。

でも、福兵衛のする行為に口出しはしないし、紅を悼んでくれていることを感謝もしています。

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