番外編 「色に出でにけり」
最終話直前辺りの時系列の、忍と音次郎の話です。
静まり返った当主部屋。その中では、紙を捲る音だけが響いていた。
山積みになった書類の束の隙間からは、いつのまにか傾いてしまった陽の光が差し込んでいる。
「はあぁ〜〜、やっと終わった!」
忍は最後の報告書に目を通すと、安堵の雄叫びを上げた。そして、やや乱暴な手付きで紙束を机へ叩きつける。
「ったく! 毎日毎日、やってらんねーつーのっ!」
バサリと舞い上がる書類を横目に、忍はぐっと背中を伸ばす。床まで散らばった書類を見ても、今すぐどうこうする気は起きない。
忍は現在、多忙を極めていた。
忍者は人の命を奪う者。昨今、そんな世間の認識は変わりつつある。
それはひとえに、火災の被害を受けた都の人々を、望月家が助けたという功績が大きい。
そしてそれは、忍が動かなければなし得なかった評価であった。
嫌々覚えた暗殺の術が、まさか人助けの術に変わるなどあの頃は考えもしなかった。人生どうなるか分からないものだ、と忍は思う。
医術に明るい忍者の噂は上方の耳まで届いているらしく、ちらほらと高貴な方の治療依頼も舞い込み初めている。このままいけば、一族は安泰だろう。
ただまあ、力をつけた弊害というか、これまでも煩かった親族が更に面倒くさくなり、薬の権利がどうだの、分け前がどうだのとうるさくて堪らない。
その上、地方に散っていた遠縁の親族とやらまでが金の無心に来る始末。面会希望者の半数以上がそれなのだから、本当に頭が痛い。
更に最低なことに、母は「忍なら大丈夫!」と忍に当主の仕事の一切合切を押し付け、隠居を決め込んでしまった。今頃は父と二人、鞍馬の山の庵で楽しく余生を過ごしていることだろう。
忍は遠い目で、窓の隙間から見える遠くの山を眺めた。
「忍様、来客です」
「……来客? また例の連中か? 面会の受付は午の刻までだと言っているだろう。オレは今忙しい。金の催促なら他を当たれと言っておけ」
「いえ、それが……」
苛立ちを隠しもしない忍へ、部下が言葉を濁す。
————と、同時に聴き馴染みのある声が聞こえた。
「忍くん、久しぶり!」
バンッと開け放たれた障子から現れた人物に、忍は目を丸くする。
「え? 音くん?」
「うん、最近会えてなかったからさ、元気かなと思って。この時間なら大丈夫って聞いたんだけど……お邪魔だったかな?」
障子の風圧で舞い上がった紙へ視線を向けながら、音次郎はそう微笑んだのだった。
*******
「もー、来るなら来るって事前に連絡して欲しいっす。厄介な客だと思って追い返すところだったじゃん」
「ごめんよ、俺も急に予定が空いたものだから。ああ、この書類はここで良いのかい?」
「ありがと〜。でも正直今日はもうお腹いっぱいなんで、そっちの隅の方に積んどいてくれるとありがたいっすねー」
「はは、了解。かなりお疲れな感じだね?」
「そりゃあ、もう」
音次郎は苦笑しながら床に散らばる紙を集めると、言われた通り忍の目に付かない場所へ紙束を置いた。
忍は部下へ下がるように指示を出す。そして、部下が去った頃合いを見計らい、再び口を開いた。
「それで、わざわざこんな辺鄙な場所まで来て何の用事? まさか、疲れたオイラの顔を拝みに来ただけって訳じゃないっすよね?」
忍と音次郎の関係性はなんとも表現し難い。
仲が悪いわけではないが、特別仲が良い訳でもなく、せいぜい友達の友達というのが忍の認識だった。それも共通の友人を介さないと、会話が続かない類の。
だから、彼がわざわざ休みの合間をぬって自分に会いに来るのなら、何か特別な用事があるに違いない。そう思い、探りを入れた忍へ返されたのは、予想外の言葉だった。
「いや、用事といえばそうなんだけどさ、そんな大層な要件があるわけじゃないんだ。ただ、その……ちょっと一緒に遊びに行かない?」
「————————へ?」
「忙しいなら諦めようと思っていたんだけど、君は疲れているようだし、きっと気分転換にもなると思う。……迷惑だったかい?」
反応の遅れた忍を不審に思ったのだろう、音次郎は言い訳するように言葉を並べたてる。
迷惑だ、などとは思わない。だが、遊びに誘われるとは露ほどにも思わず、面食らってしまう。
「いや、構わないけど……。オレでいいの? 椿ちゃんとか一座の人とか……音くんは他にも仲良い奴色々いるだろうに」
「うん? どうしてそこで他の人の名前が出てくるんだい? よく分からないけど、俺は今日忍くんと遊ぼうと思って来たんだよ」
「そう、なんすか……? えっと、じゃあ椿ちゃんは?」
「椿ちゃん? 椿ちゃんは今日はいないよ? というか、婚礼前にあの過保護な紫白さんが彼女を他の男と遊ばせるわけないじゃないか」
「あはは……、それもそうっすよね」
内心動揺しているのを悟られないよう笑えば、音次郎は忍の顔色を伺うようにこちらを見た。
「忍くん、今日は本当にどうしたんだい? なんだか元気がないようだけど大丈夫?」
「だ、大丈夫っすよ! それで、どこに遊びに行くつもりなんすか?」
忍が話を本題に戻せば、音次郎はパッと顔を綻ばせた。
「温泉だよ! 砂風呂! 最近出来たばかりの風呂屋なんだけど、すごく評判が良いみたいでさ。友達と行ってきなって座長がそこの店主に口利きしてくれてね。今日の夕刻は貸し切りなんだ!」
「お、おお、そうなんすか」
"男二人で風呂って、難易度高くない?"
忍の頭にそんな不安がよぎったが、楽しそうな音次郎の前で嫌とは言えなかった。
(……というかオレは彼と友達だったのか)
どうやら、友達といっていいのか計りかねていたのは忍だけだったらしい。こういう時、幼少期にまともな友人関係を構築出来なかった弊害を感じるなと忍は思った。
「じゃあ、行こうか! 外に車夫を待たせてあるんだ」
「わ、分かったっす」
忍が音次郎に連れられるまま車に乗り込むと、車は目的地に向け軽快に走り出した。
******
ザッザッと土を被せられ、身体が土に埋もれていく。身動きはとれない。今敵の襲撃を受ければ命はないだろうなと思いながら、忍はしみじみと口を開いた。
「しっかし、まさか音くんとニ人で風呂に入る日が来るとはね〜」
風呂は無防備になる。故に、忍は信頼のおける人物としか入らない。
悲しいかな、友人と呼べる相手がこれまでいなかった忍にとって、これが初めて両親以外と共にする風呂であった。
人払いはされているし、陰が側に控えている。とはいえ、手元に武器がない状況は心許なく、なんだか落ち着かない。
忍は隣で同じように砂に埋もれ、「暖かいね」と砂風呂を満喫している音次郎へ声をかける。
「……で、わざわざこんなところまで連れてきて、何の話?」
先刻も投げかけた質問を、もう一度繰り返す。
すると、音次郎は眉を下げ、苦笑した。
「本当にたいした話じゃないんだよ。君と遊びたいなと思ったのは本当さ。ほら、俺達、けっこう長い付き合いなのに、全然友達らしいことしたことなかったじゃない?」
「……そりゃまあ、そうっすけど」
なんだか、腑に落ちない。わざわざ忍を連れ出し、人払いまでしてやりたいことが砂風呂に入ることだとは考えにくい。
歯切れの悪い音次郎の返答に、忍が無言で彼を見つめ続けていれば、音次郎は観念したとばかりに肩をすくめた。
「……あー、ごめんね。やっぱりこういう回りくどいの、忍くんにはお見通しだよね。……実はさ、椿ちゃんに頼まれたんだよ。最近君が忙しそうだから、息抜きに誘ってあげて欲しいって」
「椿ちゃんに?」
「うん、『私は紫白の手前、一人で遊びに誘う訳にもいかないから。それに、男同士の方が話しやすいこともあるだろうし』ってさ。きみ、最近彼女と顔も合わせてないんだろう? 彼女、きみに避けられてる気がするって気にしてたよ」
「椿ちゃんが、そんなことを……」
「心当たりはあるんだ?」
意識的に避けていた訳ではない。けれど、近頃福兵衛の屋敷や椿達のいる神社から忍の足が遠のいていたのは本当だ。
仕事が忙しかったから、と言い訳を口にするのは簡単だが、それが理由ではないことを忍自身良く分かっていた。
無言は肯定だ。口をつぐんだ忍の様子に、音次郎はそっかと相槌を打つ。
「……まぁ、気持ちは分からなくもないけどね。でも、失恋したからといって彼女を避けるのはやめた方がいい。何も知らない彼女が可哀想だよ」
「……そんなこと、言われなくても分かってるっすよ。って、音くん、今なんて?」
「え、だから失恋したからって彼女を避けるのは……」
「あ〜〜〜〜、バッチリ聞こえたっす。もういい、言わないで!」
音次郎こそ忍のことなどお見通しではないか。
気づかれていないと思っていた己の心をつまびらきにされ、忍は穴があったら埋まってしまいたい気持ちになった。いや、もう砂には埋まっているのだが。
忍は音次郎に顔が見られないよう真上を向き、揺らめく湯気を漠然と眺める。
「……いつから気づいてたの?」
「俺が福兵衛さんの家に居候させてもらってた頃から、かな」
「ほぼ来た時からじゃないっすか!!」
「初めはあれ?そうなのかなぁって感じだったけど、長く一緒にいれば分かるよ。椿ちゃんといる時のきみ、とても幸せそうだったもの」
「……そんなにわかりやすかった?」
そう零した忍へ音次郎はいや、と首を捻った。
「どうだろう? 俺や福兵衛さんは分かっていたけど、他の二人は……。紫白さんは本能的に牽制してただけな気がするし、椿ちゃんも……」
音次郎が少し言い難そうに言葉を濁し、忍の乾いた笑い声が微かに浴室に響く。
一番気づいて欲しい相手には気づいて貰えないのだから、世の中ままならない。
「……分かってたっすよ。初めから椿ちゃんはオレのことなんて眼中になかった。あの子の目はいつだって紫白だけを追ってたし、椿ちゃんがオレを見る目は、異性を見る目っていうより弟を見るような……そんな暖かいものだったから」
忍の初恋は、始まる前から終わっていた。
それでも、ほんの少しの淡い期待を抱いて渡した野茨の髪飾りは粉々に砕けて帰って来て——。
悲しそうに修理を頼む椿へ笑って返したものの、内心ショックを受けていたのはここだけの話だ。
「椿ちゃんを避けようとは思ってないんすよ。彼女には心から幸せになって欲しいと思ってる。癪だけど、紫白にだって。……でもさ、仲良い二人を見てるとなんだか胸がもやっとするんす。何となく顔を合わせにくくて、つい仕事に集中した。実際、仕事が忙しいのも本当だったしね」
色々と言葉を並びたてたものの、どれも言い訳に過ぎない。
つまるところ、忍は時間が欲しかったのだ。自身の中で心の整理をするための時間が。
忍は背けていた顔を音次郎へと向ける。
「もうちょっとしたら、時間を作って遊びに行くよ。椿ちゃんには心配かけてごめんって伝えておいて欲しいっす」
「……うん、分かったよ」
じんわりと温かな砂の感触に忍はそっと息を吐く。そして、気恥ずかしさを誤魔化すように音次郎へ問いかけた。
「……そういう音くんはどうなんっすか? 音くんだって椿ちゃんのこと好いてたんじゃないの?」
「うん……、ん!? 急に来るね。いや、俺は……勿論彼女のことは好きだけど、恋とかそういうのじゃないんだよ」
ごにょごにょと昔の音次郎を彷彿とさせる姿に、忍はさっきのお返しとばかりに言葉を重ねる。
「えー、本当っすか? 音くん、椿ちゃんといる時、キラキラした目してたのに? 福じいちゃん家に来た当初なんて、ずっと椿ちゃんにべったりだったくせに」
「もう、昔の話はいいだろう? 椿ちゃんは大事な友達というか、尊敬できる人というか……。いや、どれもしっくりこないな。けど、俺にとって彼女は大切な、いつだって笑っていて欲しい相手だよ」
音次郎ははにかみつつも言葉を選びながら、椿に対する気持ちを吐露する。
その口調は真剣でいて、過去を懐かしむように優しく穏やかだ。
「彼女に会わなければ今の俺はなかったし、忍くんとこうやって話すこともなかった。俺にとって彼女は闇から連れ出してくれた光みたいな存在、かな」
「……詩的な言い回しっすね。音くんらしいや。流石、売れっ子役者は言うことが違うっす!」
「ああもう、やめてくれよ! これでもけっこう恥ずかしいんだからね!」
軽口の応酬に、どちらから共なく笑い声が漏れる。
散漫とした、たわいのない会話が小気味良い。
出会った当初、音次郎とこんな話をする仲になるとは思ってもみなかった。
淡い恋心は実らずとも、椿を通じて得難い仲間達を得られた事実に変わりはない。
それは過去の忍にとって考えられないほど貴重な光り輝く宝物で、いくら苦い気持ちになろうとも、手放すことなど考えられない。
「男友達っていうのも、良いもんっすね……」
「ん? 何か言ったかい?」
「いいや、何でも。音くん、このあと美味い飯屋にでも連れてってよ」
「ああ、かまわないよ。おすすめの小料理屋を紹介しよう」
「やった、今夜は音くんの金でたらふく食べるっすよー!!」
「え、ちょっと待って! 代金は俺持ちなのかい!? 別にかまわないけど、きみのたらふくは店の在庫を空にしかねないよ??」
心の傷はきっと、時間が癒してくれる。
忍は不安からか冷汗を流し始めた男友達を横目に、忍び笑いを浮かべるとひしめく料理へ想いを馳せた。




