第四十五話「嘘と本当」
目の前の光景を受け入れられず、「ヒュッ」と口から空気が漏れる。
「ふふふふふっ、あははははっ!! やった、やった! これで皆を守れる。強く、なれるっ!」
むせ返るような血溜まりの中で、桜華は笑う。恍惚とした表情で、狂ったように。
彼女はひとしきり笑うと、糸の切れた人形の様に表情を消した。
そして、紫白に突き刺さったままの剣を、勢いよく引き抜く。
「ぐ、ぁッ……」
「紫白ッ!」
苦悶に呻きながら地面へ倒れこむ紫白へ、咄嗟に手を伸ばす。
紫白の額には脂汗が浮いているが、まだ息がある。
そうだ、まだ紫白は死んでない。生きているのだ。死なせてたまるものか。
私は持てる知識を総動員し、紫白の胸元を寛げ、今なお流れ続ける腹部の出血を止めるべく、傷口に手を乗せる。
必死に患部を圧迫していると、桜華がこちらに背を向けるのが分かった。
「ま、待ちなさいっ!」
呼び止めてどうするのかなんて、何も考えていなかった。
ただ、怒りとこのまま彼女を野放しにしてはいけないという焦燥から、口を突いて出たのだ。
桜華は私を一瞥すると、にこりと笑い、地面を蹴って宙へと消えた。
「……っ!」
追いかけたい衝動に駆られるが、今はそれよりも紫白だ。
まだ意識こそあるものの、出血は激しく、浅く荒い呼吸を繰り返している。
救急車!……は、この世界には無い。
けれど、このまま止血しているだけじゃ、どうにもならない。適切な治療が必要だ。助けを呼ばなければ。
どうしよう、誰か……誰がいる?
ああ、ダメだ。思考がまとまらない。でも、今、紫白の命を握っているのは私だ。
私は一つ、大きく深呼吸をした。
止血を続けながら、冷静に思考を巡らせる。
福兵衛は自警団の会合に行っていて、今はいない。音次郎もいつ家に戻るかはまちまちだ。
屋敷の周囲は元々人気がなく、隣人も今いるか定かじゃない。
忍は……忍ならどうだろう。彼は今し方出掛けたところだ。もしかしたら、まだ近くにいるかもしれない。
私は一縷の望みをかけて、大声で助けを叫ぶ。
「忍くん! 忍くん!! お願い助けて! 裏庭に来て!」
泣きそうになりながら、喉が枯れるほど叫び続けていると、屋根の上から物音がした。
「はいはーい、そんなに叫んで、どうしたんすか? オイラを呼ぶなんて、珍しいこともあるもんだ……って、何これ!?」
頭上からのんきな声が聞こえ、次いで黒装束に身を包んだ忍が焦ったように私達の元へ降り立つ。
「忍くん! 助けて、お願い。し、紫白が刺されて……、このままじゃ、紫白がっ、紫白が死んじゃう……っ!」
「あー、うん。よく分かんないけど、とにかくヤバいってことは分かったっす。ちょっと見せて」
退くように促され、紫白の傷口からゆっくりと手を離す。
離した途端、どろりと患部から赤黒い血が漏れ、忍が眉をひそめた。
「……これは、かなり深いね。刺されてからどのくらい?」
「五分は経ってない、と……思う」
「ん、了解。……甲、乙、丙、いるか?」
忍は頷くやいなや、部下らしき三人の黒子を呼び出す。
「「「はっ! 此処に」」」
「甲、うちの屋敷にまだ蘭学の師が滞在していたな? 急ぎ、彼を連れてこい。事は緊急を要する、これを使え」
忍は懐から羽で出来た団扇のようなものを取り出すと、それを甲と呼ばれた黒子の一人へ手渡した。
「しかし、これは家宝に近しい貴重な品……宜しいのですか?」
「かまわない。いいから、早く行け」
「承知致しました」
甲は一礼し、瞬時にその場から消える。
「乙は治療具の調達、丙はオレと共に紫白を運べ。くれぐれも揺らすなよ」
「はっ!」
「承知!」
厳しい顔つきでテキパキと指示を出す忍を唖然と眺めていると、ふいに忍がこちらを向いた。
「後はオレに任せて。椿ちゃんは血でも拭ってきたら?」
「えっ、でも……」
ここにいても戦力にならないのは分かるのだが、このまま紫白から離れても良いのだろうか。
目を離したすきに、死んでしまうのでは……そんな途方も無い不安を感じ、逡巡する。
立ち尽くす私を見て、忍は呆れたように言った。
「あのさ、変化するのも忘れるくらい動揺してるんだから、とりあえず一旦コイツから離れて、落ち着いてきなって言ってんの」
「あ……」
そう言われ手を見れば、赤黒い血に濡れた普段よりも小さな私の手。
動揺のあまり、私はいつのまにか十六歳の少女ではなく、八歳の子供姿に戻っていたらしい。
立ち尽くしていると、忍がくしゃりと私の頭を撫でた。
「血を落としたら、お茶でも一杯すすってきなよ。だーいじょうぶ! 忍者はわりと医術も得意なんっすよ。絶対、死なせたりしないから」
不安は拭えないが、力強い言葉に背中を押され、頷く。
私は最後に、もう一度だけ地に伏す紫白を見た。
大丈夫、きっと助かる……。
私はそう自分に言い聞かせ、後ろ髪を引かれながらも、全身に付着した血を拭うべく屋敷の中へと足を向けた。
******
薄暗い廊下を、慌ただしく駆ける音がする。
「椿ちゃんっ! 紫白さんが切られたって!?」
息を切らしながら現れた音次郎をぼんやりと見上げれば、彼は痛々しいものを見る様に顔を歪めた。
「……本当だったんだ」
茫然と呟く音次郎へ、福兵衛が隣に座るよう促す。
「忍くんと忍くんが連れて来た蘭学医が治療を始めてから、もう十刻以上経ったが……長引いておるようでな」
福兵衛の視線が、薄明かりの漏れる障子の向こうへと注がれ、音次郎がそちらへ顔を向ける。
紫白が忍達にこの部屋へ運び込まれてから、永久の時間を過ごしているような気分だ。
忍からは居間で待つよう勧められたが、私はとても落ち着いていられず、ずっと廊下で待機していた。
「そんなにですか……。もっと早く戻って来たかったんですけど、座長に『今は外に出るな』と強く引き留められてしまって……」
「安全を考えれば、彼奴の言うことは最もだ。だが、最悪の事態も考えて、儂が伝令を飛ばした。……すまんな」
「いえ、そんな……」
音次郎は私の方を気にするように、声のトーンを落とし、小声で続ける。
「……犯人は例の辻斬りなんですか?」
「椿ちゃんからは、恐らくそうだと聞いている。家の結界が壊されたのを感じ、急ぎ戻ったが、儂が着く頃には既に犯人は居らなんだ」
「血に濡れていただろうに……近くに目撃者とかは」
「自警団総出で捜索中だが、姿どころか気配すら捉えられん。儂がもう少し早く……いや、結界を二重三重に強めていれば、あるいは。……二人には本当に悪いことをした」
福兵衛が肩を落とす気配を感じ、私は力なく首を振った。
「……福さんの所為じゃないよ」
「しかし……」
福兵衛が言葉を続けようとした時、静かに障子戸が開き、中から忍が現れる。
「……えっ、ずっとここに居たんすか? マジで?」
「忍くん!! 紫白は!? 紫白は無事なの?」
驚いた表情を浮かべる忍に一斉に詰め寄ると、彼はどうどうと宥めるようなジェスチャーをした。
「落ち着いて。場所を変えよう、皆付いて来て」
忍は部屋の中にいる医師へ詫びを入れると、私達を居間へと促す。
ちゃぶ台を囲い、緊張と沈黙で張り詰める空気の中、忍が口を開く。
「結論から言うと、紫白の命に別状は無いっす。紫白のやつ、攻撃された時、上手く急所からずらしてたみたいでさ。肋骨に阻まれて、主要な血管は無事だった」
その言葉に、皆一応にほっと息を吐いた。
「あー……ただ、肝臓に傷がついちゃってるんすよね。馬鹿みたいに出血したのはその所為」
「そ、それって、大丈夫なの?」
不安を隠しきれず問えば、忍は「まあ、そっちは大丈夫」と疲れた様に笑う。
「妖じゃなかったらヤバかったかもしれないけど、問題ないっすよ。ただ、しばらくは絶対安静。食事も……普段通りってのは、ちょっと難しいだろうね」
忍は深く息を吐くと、皆の顔を見回し「それよりも……」と続けた。
不穏な空気に、再び緊張が走る。
「……不安にさせるようで悪いんだけど、紫白の傷、尋常じゃないくらい血の止まりが遅いんだよね」
「どういうこと……?」
「普通、深い傷でも、ある程度は自力で血を止められるものなんすよ。けど、紫白の傷口は……縫合してもまだ血が固まらない。ちょっと普通じゃ無いよ」
「そんな……っ」
青ざめた私の背を、音次郎が安心させるように撫でる。
「毒の可能性は無いのか?」
福兵衛の問いかけに、忍が首を振った。
「その線も考えたんすけど……。毒にしては、他の症状が何も無さ過ぎるんすよね。一応、オイラの方でもう少し調べてみるけど……」
悲壮な空気が流れる中、忍が努めて明るい声を上げた。
「あー、ごめんごめん。治りが悪いってだけで、紫白が死ぬわけじゃないっすから! 皆、この世の終わりみたいな顔しない!」
「でも……」
「はいはい、特に椿ちゃん。自分を責めたりしてないっすよね? そんなことするくらいなら、紫白用病人食の作り方でも勉強するといいっす」
図星すぎて、言葉に詰まる。
だが、忍の言う事は最もだ。今は私が出来る事をしなければ。
そう己を奮い立たせた。
******
西日の差し込む台所で、ことりと、蘭学医に習った粥の入った皿と水を入れた湯呑みを盆に載せる。
紫白がいつ起きても良いようそれらを運びながら、私は沈んだ気持ちで紫白の部屋へと足を向けた。
布団に横たわり、こんこんと眠り続ける紫白の寝顔は、いつにも増して青白く生気がない。
死んでいると言われれば、信じてしまいそうだ。
私は盆を机の上に下ろし、紫白の首筋へおそるおそる手を伸ばす。
とくり、とくり。命の脈動がする。
私はその脈打つものの存在に、ほっと胸を撫で下ろした。
ーー紫白が刺されたあの日から、既に三日が経つ。しかし、未だ紫白は目を覚まさないでいた。
毒を盛られたわけでも、化膿しているわけでもない。にも関わらず、紫白の傷は一向に回復の兆しを見せず、時折血を滲ませている。
忍も医師も手を尽くしてくれているが、どうにもお手上げ状態だ。
「紫白……」
じわりと、意図せず視界が歪む。
あの時、浮ついた気持ちに、冷や水を浴びせられたようだった。
あれほど、恋にうつつを抜かしたらダメだと、気をつけようと思っていたはずなのに。
あまりにも毎日が穏やかに過ぎるから、つい、気が緩んでしまっていた。
せっかく訓練したのに、一歩も動けなかった。
忍は自分を責めるなと言ってくれたが、これじゃ意味が無い。
後悔ばかりがぐるぐると頭を回る。
いっそあの時、私が切られていればーー。
そう思いかけて、かぶりを振る。
紫白はそんなこと、絶対望まない。
私は片手で目元を強くこすり、紫白の返事を期待しながら、ゆっくりと語りかける。
「……紫白が眠り始めてから、今日で三日目だよ。都はあれからどんどん物騒になってて、今は私一人じゃ出かけられない」
辻斬りの犯人は未だ捕まっていない。桜華のことは忍や福兵衛達にも説明したけれど、やはり足取りは掴めないでいた。
そればかりか、都は更なる事件の話題で持ち切りだ。
不審火騒動。何でも妖の術でしか消えない炎が、あちらこちらで出没し燃え広がっているらしい。
「そういえば、今朝は福さんや音次郎くんには会えた?」
福兵衛は今朝も早くから不審火調査に駆り出され、音次郎は被害にあった人々の心を慰めるべく、一座とともに慰安公演に出向いている。
「音次郎くんといえば、気になることを言ってたよ。紫白の傷口に、時々もやが見えるんだって」
『妖っていうより、もっと禍々しい者の残り香みたいな……。って、ごめん、こんな不安を煽るようなことを言って』
そう申し訳無さそうに告げた音次郎を、責めたり出来ない。
手を尽くしても治りの悪い傷は、人智を超える何かの仕業だと言われた方が納得できた。
けれど、それをどうにかする方法が思いつかない。
「ねえ、紫白……死んだりしないよね? 絶対また目覚めてくれるよね?」
返らない返事を待ちながら、震える声で思いの丈を告げる。
「私、紫白のことが好きだよ。こんな事になるまで、ずっと返事出来なくてごめんなさい」
紫白はピクリとも動かない。
ぐっと、再び涙が込み上げた。
私は勢いのまま、一気にまくし立てる。
「紫白が起きたら、今まで伝えられなかった分まで、ありがとうも大好きもいっぱいいっぱい伝えるよ。美味しい稲荷寿司も作るし、油揚げをたくさん使った料理も作る! 紫白が喜ぶなら、人型のまま添い寝しても良い。……だから、お願い。目を覚まして」
必死の呼びかけにも、やはり、反応はない。
「ねぇ、紫白。お願いだから……っ!!」
鼻声になりながら、紫白へ縋り付いた。
けれど、聴こえるのは、微かで弱々しい呼吸音ばかり。
どうすれば、目覚めてくれる? 何を言えば、紫白に響く?
私は悩みに悩んで、ふと過去の記憶から閃いた、ある言葉を叫んだ。
「っ……、もう、起きてくれなきゃ、紫白のこと大っ嫌いになっちゃうからねっ!」
心にもない、けれど紫白なら絶対反応するだろうこの言葉。
それを告げた瞬間、ぴくりと紫白の瞼が動いた。
「……それ、は、困りますね」
「紫白!?」
紫白は起き上がろうとして苦悶に顔を顰め、諦めたように再び布団へ身を投げ出す。
そして、私の表情を見て、わずかに目を見開いた。
紫白は片手を私の目元まで持ち上げると、指先で涙を拭う。
「どうして……、貴女が泣いてるんですか? 嫌いに、なるんじゃ……」
「っ……! そんなわけっ、ないじゃん、ばかあぁぁっ!!」
まさか本当に目覚めるとは思わず、安堵感から今まで堰き止めていたものが一気に込み上げる。
私は困惑する紫白をよそに、しばらく子供のように泣きじゃくった。
「はぁ……ぅ、ズビッ。……ごめん、うるさくして。傷に響くよね。えっと……お水、のむ?」
「ええ、じゃあ頂けますか?」
醜態を誤魔化すように私が差し出した水を紫白が受け取ろうとして、その表情が再び苦痛に歪む。
「あっ、痛い? 大丈夫……?」
少しの振動でも痛むのだろう。湯呑みから水を飲むのは難しそうだ。吸い飲みは……家のどこかにあっただろうか?
思案していると、紫白が申し訳無さそうに苦笑する。
「大丈夫……じゃ、無さそうです。すみません」
「だよね……。待ってて、すぐ吸い飲み探してくるから」
そう言い、立ち上がろうとした時、紫白がからかうように告げた。
「吸い飲みなんて無くとも、僕は貴女からの口移しでも構わないんですけどね……なんて」
「……良いよ」
「そうですよね……って、へ!?」
言われた言葉が信じられないというように、惚ける紫白を尻目に、私は湯呑みの中の水を煽る。
そして、ゆっくりと紫白の唇へ自分のそれを寄せた。
紫白の瞳が驚きに見開かれる。
きっと紫白なりに場を和ませようとした、冗談だったのだろう。
けれど、紫白がそうして欲しいというなら、今の私に断る理由なんてなかった。
「んっ……ふ」
どちらとも取れない吐息が漏れ、室内に響く。
熱に浮かされた口内で生温くなった水が、私の唇から少しづつ紫白の口内へと移動する。
紫白がそれを飲み下したことを確認し、私は最後にもう一度軽く口づけ、唇を離した。
「え……、あ……」
紫白は真っ赤な顔ではくはくと口を動かしている。
そして、ハッとした後、消え入りそうな声で告げた。
「……お、女の子が、そんな簡単に男へ唇を許しちゃいけません」
「あははっ、もう、紫白ってば私のお母さんか何か?」
心外そうに口を噤んだ紫白へ、穏やかに告げる。
「誰にでも口付けたりしないよ。紫白だからしたの。紫白のことが、好きだから」
「……え。それは、その……」
「もちろん、親愛でも友愛でもなく、恋愛的な意味でね」
「……椿っ!」
紫白は感極まったように私の名を呼び、身動いだ影響で再び呻いた。
「ああ、もう、動かないで。分かったら、ちょっと休んでて。毎回口移しするわけにもいかないから、やっぱり吸い飲み探してくる。その後、ご飯ね」
「うぅ……分かりました」
私は紫白の返事に笑顔で返し、紫白の部屋から出る。
そして、障子を背にして、ずるずると廊下へ蹲った。
今、私の顔は、火を吹きそうな程に熱い。
ーー勢いとはいえ、なんて大胆なことをしたんだ、私。告白もだけど、自分からキ、キスとか。でも、紫白が目覚めて、本当によかった……。
羞恥に苛まれながらも、紫白が生きて話している、そんな当たり前の幸せをゆっくりと噛み締める。
私はしばらくそうした後、頬の熱を冷ましながら、吸い飲みを捜索するべく立ち上がった。
台所へ足を踏み入れようとした時、急に肩へ鳩が止まる。
白鳩は焦ったように、羽をバタつかせていた。
「しーちゃん? どうしたの?」
「ぽぽ……、くくる! くくるるーーっ!」
白鳩は私の問いに対し、黒鳩の声を真似るように鳴いた。
「あなたの相方がどうかしたの? あの子、まだ私の部屋で休んでたはずだけど……」
黒鳩は私にぶつかり目を回してから、私の部屋で療養中だ。
不思議に思っていると、白鳩は黒鳩の鳴き真似をしながら、倒れるようなジェスチャーをする。
「え、まさか、新しい手紙を運んできて、倒れたとか?」
「ぽぽーーっ!!」
「嘘でしょ!? あの子、今どこにいるの? 案内して!」
全力で頷いた白鳩にそう頼めば、白鳩は宙を飛び、私を裏庭に近い廊下へと案内した。
そこには、新たな手紙を咥え、途中で力尽きぐったりと地に伏せる黒鳩の姿。
慌てて黒鳩を助け起こし、その手紙へと目を通す。
「これは……」
私はそれを読み終わると、ある覚悟を胸に秘め、手紙をくしゃりと握り締めたのだった。




