閑話「黒犬の懺悔」
クロ視点のお話です。
「クロ、お待たせ!」
あの子がボクの名前を呼ぶ、穏やかな声が好き。
「今日はクロの好きなコッペパン持ってきたよ」
差し出された甘く芳ばしい香りのパン、その優しい味が好き。
食べた後は、思い切り遊ぶ。
ボール、フリスビー、かけっこ。
息を切らしながら遊んでくれる、彼女のことが大好きだ。
ボクには親も兄弟もいない。いたのかもしれないけど、覚えていない。
けれど、みじんも寂しいと思わないのは、全部彼女のおかげだった。
ボクはいわゆる捨て犬で、寂れた神社の境内で空腹で死にかけていたところを、この子に発見された。
それ以来、彼女は毎日ごはんを持って来て、ボクと遊んでくれるのだ。
彼女は「家で飼ってあげられなくて、ごめんね」と言ったけど、ボクは少しも気にしていないので、気に病まないで欲しい。
「は〜、疲れたー。クロは元気だねえ」
そう言いながら、拝殿前の階段に座った彼女の隣にピタリと寄り添う。
彼女はボクをひと撫ですると、夕陽に染まった西の空を見上げてぽつりとこぼした。
「ずっとこうしていたいな……。なんかもう、人付き合いも将来も、悩むのに疲れた」
『悩む?』
そう尋ねたボクの声は「クゥーン……?」という鳴き声にしかならない。
けれど、彼女はボクの意を汲んでくれたのか、続きを口にする。
「友達は一応いるよ? でもさ、世の中色んな人がいるし……」
彼女はふうと溜息を吐く。
「大学にも入ったは良いけど、未だに自分のやりたいことが見つからないんだ。このまま目的もなく平々凡々と生きて、周りに流されて……大勢の中の一人になるんだろうなって思ったら、ぞっとしちゃって」
彼女はそっとボクを抱え上げると、首筋辺りに顔を埋める。
なんだかぞわぞわするが、「んー……、アニマルセラピー……」と彼女が幸せそうなので我慢した。
しばらくそうしてから、彼女はボクを降ろす。
「いっそ誰も私を知らない世界で一からやり直せたら、私も変われるのかな。異世界転生とか本当に出来れば良いのに……。もし転生するなら、最近やった乙ゲーの世界が良い。妖狐の毛並み、触ってみたいんだ!」
彼女はそう捲し立て、一瞬目を輝かせたが、
「……なんて、現実逃避しても仕方ないよね」
と再び浮かない表情へ戻る。
その口元には、自嘲するような笑みが浮かんでいた。
そんな顔をして欲しくなくて、よいしょと身体を伸ばし彼女の頬を舐めれば、彼女はくすぐったそうに笑ってくれた。
彼女が居なくなった境内で、一人考える。
ボクがいない時、あの子はいつもあんな顔をしているのだろうか。
ボクは、あの子のおかげで毎日が楽しい。
だからあの子にも毎日楽しく、幸せに過ごして欲しいと思う。
でも、どうすればいいのかな……?
方法を思いつかず、頭を悩ませる日々が続いた。
「今日も普通に遊んで終わっちゃった。あの子は楽しそうだったけど……」
溜息をついたその時、突然耳元で鈴を転がすような声がする。
「もし……そこの方」
辺りを見渡すが誰もおらず、気配もない。
ボクは警戒しながら、宙に呼びかける。
「だ、だれ?」
「私は通りがかりの神。悩める貴方に助言を与えに来たのです」
「……助言?」
「ええ、そうです。明日の朝、裏の川へ行きなさい。そうすれば、あなたの願いは叶うでしょう」
自分のことを神という、謎の声。
怪しいことこの上ないが、ここは神社だしこんなこともありえるのだろうか。
なにより、今のボクには他に良い案もなかった。
川で何が出来るのか謎だけど、試してみてもいいかもしれない。
「ありがとう、行ってみる」
そう口にすれば、ほんの一瞬、笑うように空気が揺れる気配がした。
******
「とりあえず来たけど……どうすれば?」
翌朝、神様の助言に従って川へ来たのは良いものの、やはり、ここであの子のためになる何かが出来るとは思えなかった。
目下に見える川は、先日の雨で増水し濁っており、お世辞にも綺麗とは言えない。
あの子に見せても、喜ばないだろう。
引き返そうと腰を上げた瞬間、信じられないほどの強風がボクの背を押した。
「う、わ……っ!!」
ふわりとした、浮遊感。
咄嗟に堤防へ前足を伸ばすが、間に合わない。
激しい水飛沫、そして濁流に飲まれる。
表面上は、いつもと変わらないようにみえた川。その中は、恐ろしいほど流れが早かった。耳元で轟音がこだまする。
くるしい……。
ボクは空気を求め、流れに足を取られながらも死にものぐるいで水を掻く。
そして、やっとの思いで水面へ顔を出した。
けれど、非力な子犬の力では顔を出すのがせいぜいで、どんどん下流へ流されていく。
「だ、れかっ! たす、け……っ」
水を飲みながら、必死に助けを呼ぶ。
人間でも、大人の犬でも誰でも良い。誰でもいいから、気づいて。
「クロッ!」
遠くから、大好きなあの子の声がした。
彼女は躊躇いなく川へ飛び込むと、一目散にボクめがけて泳いでくる。
彼女はボクを掬い上げ、安心させるように抱きしめた。
「もう、大丈夫だからね」
思わず鼻を擦り付ければ、彼女はほっと息を吐き、ボクを片腕に抱え直す。
そして、ざばざばと水をかき分け、あっという間に岸へ辿り着く。
「はい、クロ。先に上がって」
彼女はそう言って、堤防の上へボクを抱え上げる。
助かった……。
安堵感から、促されるまま地面に足を付けた。
この時、ボクは彼女が上がって来ると、信じて疑わなかった。
謝って、助けてくれてありがとうって伝えたら、また普段通りの日常が戻ってくるのだと。
ーーそんな未来は、終ぞ来ることはなかったけれど。
「……ん、あ、ヤバ。いッ、痛たた、足つった……!」
彼女がそう言うのと同時、川が不自然に波だった。
大きな音を立てて、高波が彼女の姿を覆う。
次の瞬間、そこに彼女の姿はなかった。
「ッ!! どこ? どこに行ったの!? お願い、返事して! 顔を出して!」
パニックになりながら、目を凝らしてあの子の姿を探す。
けれど、どこにも……見当たらない。
今すぐ助けに行きたい。でも、ボクじゃあの子を助けられない。
逡巡したのは一瞬。
ボクは残ったありったけの力を振り絞り、人手を求めて走り出す。
「誰か来て!! あの子を助けて!!」
そう全力で叫ぶ。
しかし、夕暮れ時、普段なら家路に着く者がひっきりなしに通る道路には、誰の姿もない。
こんな時に限って、どうして!?
ボクは人影を求めて、力の限り彷徨い走った。
走って、走って……時間だけが過ぎた。成果は、無い。
いや、もしかしたら、ボクが離れている間に、誰かがあの子に気づいてくれたかも知れない。もしくは、あの子が自分で岸に辿り着いているかも。
わずかな望みをかけて戻った川辺。
けれども、やはり、そこには誰の人影もなく。
「クゥーン……」
情けない声が、口を突いて漏れた。
ーーもう、彼女が生きている可能性は限りなく……。
ボクはペタリとその場に座り込む。
どうして? どこで間違ったの? ボクはただ、あの子に笑って欲しかっただけなのに。
こんなことになるなら、初めから余計なことを考えなければ良かったのかな……。
ボクが人間だったなら、目には大粒の涙が浮かんでいたことだろう。
呆然と川を眺めていると、鈴を転がした様な声が耳元で響く。
「ねぇ、貴方。あの子を助けたい? 幸せになって欲しい?」
それは、ボクをここまで導いた神の声だった。
「かみ、さま……? 神様なら……こうなること、分かってたんじゃないの? なんでっ、なんであんな助言したんだ!? 」
ボクがここへ来なければ、あの子が川へ入ることもなかった筈だ。
突然吹いた突風、川で上がる波……違和感を感じるなというほうがおかしい。神への不信感が募る。
「言い掛かりはよして下さいな。助言を聞くも聞かぬも本人次第でしょう? それよりも、質問に答えて下さい。彼女を助けたいですか?」
「当たり前でしょ!? でも、彼女はもう……あなたが殺したようなものじゃないか!」
彼女が姿を消してから、既にかなりの時間が経っていた。……生存は、絶望的だ。
「……彼女はまだ生きられます。貴方が望みさえすれば、ですが」
「本当に? あの子、助かるの……?」
「ええ。ですが早く願わないなら、彼女、本当に死んでしまいますわよ?」
不信感は拭えない。けれど、他にあの子を助ける手立てがない。ボクは藁にもすがる思いで、神に願った。
「…………お願い。あの子を助けて」
「ーーその願い、叶えましょう」
声が聞こえた途端、川の中央が眩い光を放つ。
水の底から光の玉が浮かび上がったかと思うと、空気に溶けるようにして、消えた。
あの子は、一向に水面へ上がって来ない。
「……どういうことなの? あの子、助かるんじゃなかったの?」
形の無い、けれど近くにいるはずの神へ、詰問する。
「彼女は助かりましたよ? 彼女は無事に生き返りましたわ。ここではない、彼女の望んだ、彼女が幸せになれる世界でね」
「は……?」
意味が分からない。いや、分かりたくなどなかった。
「彼女の行く末が気になるなら、私と一緒においでなさい。神の眷族……私の神使になるのです」
「は、いや、待ってよ。別の世界? 神使? わけが分からない」
「彼女に会いたくないのですか? 疑問は、こちらに来れば嫌でも分かります。まあ、生き物を辞める覚悟があるのなら、ですが」
挑発的に告げた神の言葉を反芻する。
つまり、彼女に会いたいなら、ボクも死ねということだろうか?
……良いだろう。もともと、拾ってもらった命。あの子のそばにいるために捨てるなら、本望だ。
「……わかった。ボクもあなたについていくよ」
「あら、やけにあっさり答えますのね」
「あの子がいない世界なんて、生きてても仕方ないし」
くすくすと神の笑い声が聞こえる。
「どうして笑うの?」
馬鹿にされている気がして、むっと不機嫌な口調で問う。
「いいえ、いいえ。素晴らしい主従愛だと思っただけですわ。出来れば、私にもそのくらい尽くして欲しいものです。ーーでは、主従の契りを交わしましょうか」
リィンと鈴の音がして、次いで、唄うような声が聞こえて来る。
「我が龗の名を以って、仮名を与え、縁を為す。彼の者の名は"黒雨"。汝、我が同胞と成る事を望むか?」
「……はい」
「汝の同意を以って、主従の契約を此処に為す。汝の御魂洗い清めて、我が同胞に召し上げん。……さあ、此方へ」
宙に浮かんだ細い光の糸が、素早くボクの前足にまとわりついた。
瞬間、視界がチカチカと点滅する。
温水に包まれるような感触。
ゆっくりと目を開ければ、眼前には大きな社と、その前に立つ白い衣に身を包んだ長髪の女性が見えた。
「良かった、上手くいきましたね。黒雨、これからよろしくお願い致します」
声を聞くに、彼女が件の神なのだろう。
警戒心をあらわにしていると、女神が今気づいたというように、声を上げた。
「そうですわ! その姿じゃ色々と困りますわよね。よし、なら、此方にいる時はこの姿で過ごすのです」
「え、なに」
女神が鈴の音を鳴らし、ボクの周りが煙に包まれる。数秒の間を置き、煙が消えた頃、目の前に手鏡が差し出された。
不思議に思いながら覗き込めば、そこにいたのは見知らぬ人間で。
「え、あ、どうして」
鏡の中の人間は、ボクと同じように目を白黒させている。
「私の術です。神域限定ですけれど。さあさ、驚いている暇はありませんわよ。彼女の為にも、彼女がこちらに来るまでに、貴方を立派な神使に育て上げなければ」
「え、今からあの子に会えるんじゃないの?」
「会えますわ。ですが、彼女が跳んだのは今より先の世界ですの。会いたいなら、まずは立派な神使におなりなさい」
横暴だと思ったけど、契約を結んだ手前断る訳にもいかない。
こうしてボクは、女神の元で神使として人々の縁を繋ぐ手伝いをしたり、女神の身の回りの雑務をこなす日々を送ることになる。
ーー数年後。
神の世界の時の流れは曖昧だ。
けれど、それなりに長い時間が流れたある日のことだった。
女神に呼び止められ、彼女の私室に向かう。
神の住まいと呼ぶには人間臭い部屋の中央、低い机の上に置かれた水晶の前に座らされる。
「黒雨、待たせましたね。貴方の会いたがっていた"彼女"が、もうすぐ来ますよ」
待ちわびた存在に、気分が浮上する。
今はないけれど、犬だったら尻尾をぶんぶんと振っていただろう。
しかし、そこには高揚した気分を一気に底辺へと落とす、信じられないものが映っていた。
覗き込んだ水晶の先、あの日見たような、眩く光る川辺の映像が映し出される。
そして、その幻想的な光景には不釣り合いなもの……。
川に沈んだ幼子ーーぐったりとした、まるで遺体のようなその身体が水面に浮き上がったと同時、突然現れた光の玉がその身体の中へ吸い込まれていく。
光が収束し、辺りが正常に戻る。
『ーー貴方の会いたがっていた"彼女"が、もうすぐ来ますよ』
恐ろしい想像が頭をよぎり、嫌な汗が流れた。
数分間の静寂、それを破ったのはボクの予想を裏付ける声音だった。
「……りんね、てんせい?」
「おや、は……えっと。うぇ……、むなくそわるっ」
声質の違いやたどたどしさはあれど、途切れ途切れに聞こえる声、その話し方はあの子で間違いない。
「主、これ、どういうことなの……。ちゃんと説明して!」
語気を荒げれば、女神は心底不思議そうに口を開く。
「どう、とは? 彼女が……いえ、彼女達が生きたいと願い、それを私が叶えたのです。時空を超えて縁を結ぶのは、骨が折れましたが」
「叶えたって……。あれは、あんなの……あの子じゃない」
「何故です? 確かに、身体の持ち主の魂と多少混ざってはいますが……。まあ、寿命の尽きた魂です。一部は残留思念として川へ残ったみたいですし、彼女の魂の方が強いでしょう。時期に安定しますよ」
女神は悪びれた様子もなく、あっけらかんと答える。狂っていると、思った。
「……こんなこと、許されるわけない」
「許すもなにも、本質的には輪廻転生とそう変わりません。記憶も思考も彼女なら問題ないでしょう。それとも、あの姿になった彼女は愛せませんか?」
そんなわけない。何年経とうが、あの子のことは大好きだ。それは変わらない。だけど……。
ザザッと音がして、水晶の映像が移り変わる。
水晶の中で、彼女は新たに椿と名付けられた。その様子を見ていられなくて、思わず目を逸らす。
……ボクは、ボクはなんてことをしてしまったんだろう。
ボクが生きてと願った所為で、彼女は自分の人生どころか死後の平穏さえも失い、歪な生を強要された。
こんなことになるなんて、思わなかった。
そう嘆いたって、もうあの子の人生は取り戻せないというのに。
「ーー主、ボクは神使として、あの子の為に何をすれば良いですか?」
口調を改めたボクを見て、女神が笑みを深める。
「あら、貴方にしては物分かりが良いのですね。うふふ、なら、まずはーー」
ボクが仕出かしたことの罪は重い。
ならば、ボクに出来る、精一杯の償いを。
せめて今世では、いつも笑顔でいられるよう、彼女を導く標べになろう。
狂気染みた女神には従順なふりをして、あの子に害を与えたならば、その瞬間に寝首を掻いてやる。
こうしてボクは、彼女のために行動を開始した。
******
常世に戻るあの子の消えかけの後ろ姿を、名残惜しく見つめる。
完全に居なくなったことを確認してから、あの神の待つ社へ踵を返した。
「結果はどうでしたか? 彼女に言いたいことがあったのでしょう?」
階段を上りきった先には、満面の笑みの女神。
ボクは冷めた目で彼女を見据え、口を開く。
「あなたの期待するようなことはありません」
「そうなんですの? せっかく話せるようになったのだから、てっきり、謝ったりするのだとばかり」
彼女はボクが”椿”となったあの子に負い目を感じていることを知った上で、そんなことを言う。
「謝罪は許されたいからするものです。ボクは許されたいわけじゃない」
あの子の本来送るべき人生を奪ったボクが、許される資格など、ない。
「……そう。私、皆、許されたがるものだとばかり思っていましたけれど……。黒雨は難儀な性格なのですね」
「憐れむような目はやめて下さい。……それより、あなたはあの子をどうする気なんだ。殺したと思ったら救い、力を分け与え、神域にまで呼び込むなんて、一回の神が一個人に施す範疇を越えている」
ボクは彼女の指示に従い、犬の姿であの子の前に現れては、新たな縁へと導いた。
その縁に悪意は微塵もなく、どの縁もあの子を助け、幸福に導くものばかり。
全くの無から縁を結ぶのは大変らしく、途中女神がサボって、常世時間で二年近く放置してしまった時もあったが、あの子の身に危険は及んでいない。
聞いた話では彼女の魂を転移した際、女神の加護として、強運と水術の才能まで与えたのだとか。
もろもろがバレて、女神より上位の神に叱られ、あの子と接触できない時期もあったりしたが……。
正直、最近ボクは、この女神があの子に害をなす存在なのか考えあぐねている。
裏があるのか否か。一貫しない行動はなんとも不気味だが、あの子のために尽してくれるのは素直に嬉しい。
探るように女神を見れば、彼女は曖昧に微笑む。
「私の望みはいつだって、都に住む人々の平穏と幸福、ただそれだけです」
これ以上語る気は無いと、言外に告げられた。
女神の真意は測り知れない。
けれど、ボクが何を言ったところで、もう彼女の気が変わることはないだろう。
ボクは女神を苦い思いで一瞥し、あの子へと想いを馳せる。
純粋に願いを叶えてくれる神なんて、この世にいない。願をかける存在など、もう分からない。
けれど、それでもボクはあの子の行末を願わずにはいられなかった。
ーー願わくば、どうかこの世界で、あの子が幸せに生きられますように。




