第四十二話「黒犬に導かれて」
「うん、我ながら上出来」
紫白色の帯留めに、椿の簪で綺麗にまとめ上げた髪。
鏡の中には、白地に淡い花柄の浴衣を着た十四歳の私が写っている。
時の流れは速いもので、修行を始めてから四年の月日が経った。
鍛錬のかいあって、水剣の術は実戦で使い物になる程度まで成長した。
もちろん、他の術練習もおざなりにはしていない。
この姿がその証拠だ。
実際の私はまだ七歳前後の外見なのだが、変化の術を駆使して、上手く成長したように見せられていると思う。
この浴衣も、十四歳になった私を見て、団子屋の女将さんが『私の若い頃にそっくりだよ! 良かったらこれ、持って行きな』と、譲ってくれた物だ。
ゲーム開始まで、後数ヶ月。
日々は不気味なほど穏やかに過ぎていた。
「じゃあしーちゃん、お留守番よろしくね」
「ぽ!」
白鳩が分かったというように鳴いたのを見て、私はその頭を軽く撫でると、傍らの巾着と羽織を拾い上げ、障子を開ける。
廊下には、既に身支度を整えた紫白が立っていた。
深い藍色の浴衣に身を包んだ彼は、普段より落ち着いて見える。
「ごめんね、お待たせ」
「いいえ、全然」
紫白は優しい笑みを浮かべると、次いで私の浴衣を見て眉尻を下げた。
「椿、その浴衣も似合っていますけど……本当に新調しなくて良かったんですか?」
「うん、せっかく女将さんがくれたんだもん。これで良いの」
四年経っても、紫白と私の関係は変わっていない。
時間が経てば、紫白の気持ちも離れていくかも知れない。それならそれで仕方がない。
そう思っていたけれど、彼の優しい視線は、今もなお私に向けられている。
紫白は告白の答えを先伸ばす私を、決して急かさなかった。
待たせていることに罪悪感が募る。
けれど、変わらない紫白の熱量に、どこか安堵している自分もいるのだ。
「ですが、どうせなら全部買い揃えた方が……」
最近の紫白はどういう訳か、以前にも増して贈り物を送りたがった。
今持っている巾着や羽織、下駄などは全て彼からの贈り物。
紫白は浴衣だけ他者からのお下がりだというのが不満らしい。
私はまだ何か言いたげな紫白を、玄関へと急かす。
「ほら紫白、早く行こう。忍くんと音次郎くん、あっちで待ってるかも知れないし」
「む……、そんなの待たせておけば良いじゃないですか」
「そんなこと言わないで。私、久しぶりに皆で遊ぶの、結構楽しみにしてたんだから」
渋々といった様子の紫白を引き連れ玄関を開けば、冷たい木枯しが肌を撫でた。
「うわ、寒っ」
「椿、大丈夫ですか? 上着はしっかり着て下さいね。僕のも羽織ります?」
「ううん、大丈夫」
紫白へ首を振り前方に目を向けると、家の前に人力車が止まり、その側から福兵衛が現れる。
ちょうど、福兵衛が車夫を呼んで来てくれたところらしい。
「おお、二人とも見違えたな。やはり、祭りと川床には風情が必要だ」
「風情って……今は秋ですよ? この時期の川床料理に風情も何もあったものではないでしょうに」
「何を言う。こういうものは、雰囲気が大事なのだよ。雰囲気が」
「まあまあ、紫白。福さん、お店の中は寒くないんだよね?」
私が問いかければ、福兵衛はうむと上機嫌で頷いた。
「勿論だ。鬼火の若旦那が、ちゃんと会場を温めてくれている。まあ、心配せずとも大勢集まる故、そう寒いことはあるまいよ」
「それだけ人がごった返す宴会場というのも、どうなんですか……」
紫白が辟易したように溜息を吐く。
今から向かうのは、北山にある福兵衛の馴染みの妖が経営している料理屋だ。
シーズンが終わったため空いている川床の部屋を格安で貸出しているのだとか。
それに目を付けた福兵衛がそこを貸切り、友人を呼んで宴会を開くことにしたらしい。
元々、私は留守番の予定だったのだが、ちょうどその日は北山の神社で秋祭りがあるらしく、せっかくなら皆で行こうという話になり、現在に至る。
忍と音次郎の予定が空いていたのは、本当に幸いだった。
「人混みはあれだけどさ、宴会もお祭りも楽しみだね」
「そうだなあ、儂も楽しみだ。年甲斐も無くはしゃいでしまいそうだよ」
「はぁ……。行くなら早く行きましょう」
きゃっきゃと笑い合う私と福兵衛を見て、紫白はばつが悪そうに私達を車へ促した。
三人揃って人力車へ乗り込み、揺られること数刻。
赤や黄色に彩られた木々を眺めているうち、辺りはすっかり夕闇に包まれた。
人力車から降り、縁日の連なる参道の手間で忍と音次郎を待つ。
「忍も音次郎も遅いですね」
「まあ、皆忙しいんだし、仕方ないよ」
祭囃子を聴きながら、紫白に同意し伸びをする。
頭上を薄ぼんやりと照らすのは、無数の赤提灯だ。
腕を上げたせいで、ずれた浴衣の袖を直していると、すぐ近くから聞き馴染みのある声が飛んだ。
「よっ、椿ちゃんに福じいちゃん! それに紫白。遅くなってごめんっす。なかなか抜け出せなくてさー」
ひらひらと手を振りながら現れたのは、忍だ。
急いで来たのだろう。息こそ上がっていないものの、額には玉のような汗が浮かんでいる。
「お疲れ様。お母さん、相変わらず厳しいの?」
「いや……、あれは厳しいなんてもんじゃないね。地獄の悪鬼かなんかっすよ」
げんなりと視線を外らせた忍は、以前よりもやつれて見える。
「ごめーん!」
ちょうどその時、遠くから私達に呼びかける声がして、音の方向へ顔を向ければ、人力車から駆け出して来る音次郎の姿が見えた。
「俺が最後だよね?」
音次郎は息を整えながら、小洒落た帽子を深く被り直す。
「そうそう、音くんが最後。って言いたいけど、オイラも今来たとこなんで、大丈夫っすよ。ってか、何その帽子。変装っすか?」
「なら良かった。これはまあ、一応ね。最近流行の型なんだ」
そう告げる音次郎におどおどとした昔の面影は無く、話し方、立ち居振る舞い、全てが堂々と自信に満ちていた。
変わらない事もあれば、変わる事もある。
この四年で、忍と音次郎を取り巻く環境は大きく変化した。
忍は元服を翌年に控え、当主交代の準備や勉強が忙しく、最近は実家に鮨詰め状態で、福さんの家に帰らない日も多い。
音次郎はというと、今や都で人気の若手女形役者になっていた。
あれから努力を重ね、正式な弟子として一座へ迎え入れられた彼は、今は家を出て住み込みで働いている。
休日はよく顔を見せに来てくれるのだが、やはり時折、寂しさを感じてしまう。
そんな訳で、忙しい二人と一緒に遊ぶのは本当に久しぶりなのだ。
「皆、揃ったか。なら行こう。代金は儂持ちだ、今日は存分に楽しむと良い」
「えっ、本当っすか!? やった! じゃあオイラ、らむねってのが飲みたいっす。前に音くんが美味しいって話しててさー。あ、あとそばと寿司と天ぷらに団子も!」
「はっはっは、好きなだけ食べなさい」
目元を緩め太っ腹な発言をする福兵衛を、紫白が一瞥する。
「福兵衛、甘やかしすぎです。忍ももうすぐ元服なんですし、自分の稼ぎだってあるでしょうに」
「もうすぐ大人なら、なおさら今のうちに子供を満喫しないとっすね〜」
「そうだなぁ」
忍がからから笑い、福兵衛がそれに同意し、ほけほけ微笑む。
他愛ないやり取りがなんだか懐かしくて、笑みが零れた。
音次郎が皆のやり取りを見つつ、福兵衛に礼を告げる。
「福さん、ありがとうございます。でも忍くん、宴会の料理のこと忘れていない?」
「あっ、そうだね。屋台料理は腹八分にしないと」
音次郎の発言にそれもそうだと言葉を零せば、忍は不思議そうな顔をした。
「え? このくらいじゃ、腹八分目にも満たないっすよ。川床料理と合わせて丁度良いくらいでしょ」
当人と福兵衛以外を除く皆の間に沈黙が走る。
うん。忍の胃袋は牛並みなのかもしれない。
「……縁日の方、行こっか」
「え、オイラ、なんか変なこと言った?」
私の呟きに皆が賛同し、首を傾げた忍をよそに石畳の道を進んで行く。
私は歩きながら、話題を逸らすように音次郎へ話しかけた。
「そういえば音次郎くん、すっかりお洒落になったよね。その帽子も凄く似合ってる」
「ふふ、ありがとう。椿ちゃんもその浴衣、凄く素敵だよ。俺、つい見惚れちゃった」
「うぇ、ありがとう……」
音次郎から漏れ出す色気も、俺という口調もまだ慣れない。
今の音次郎は、ゲーム中の彼に近づいていた。
なんでも、いずれ男役をするために女性の心を掴む言動を心掛けているのだとか。
それにしたって、数年でこの変わり様。
どことなく軟派男になりつつあるのは、女心について指導した彼の師の所為に違いない。
やや照れ気味に告げた私を庇うように、紫白が音次郎と私の間に割り込む。
「音次郎、椿が可愛いのは当然ですけど……」
「ふふ、やだな、紫白さん。心配しなくても、とったりしませんよ」
軽い口調で笑う音次郎を見て、紫白は「なら良いんです」と元の位置に戻った。
蕎麦屋、寿司屋、天ぷら屋、飴屋に団子屋。
忍が望んだ食事の露店に加え、射的や金魚すくい、わなげなど、前世で見た事のある店もあり、懐かしさに気分が高揚する。
少し違うのは、射的は銃ではなく弓で行われ、金魚をすくうポイは紙ではなく、網であることだろうか。
農具屋だとか、神具屋、唐辛子屋なんて見慣れない屋台もあったが、それはそれで面白い。
忍のついでに買ったラムネは昔の記憶に近しい味で美味しかったし、ひょんなことから始まった男性陣の射的対決も見応えがあった。
そんなこんなで縁日を満喫し、一息ついた辺りで、福兵衛が「時間だ」と声を上げた。
「もうっすか?」
「いや、時間なのは儂だけだ。宴会場の最終確認があるのだよ。終わったら呼びに来る故、皆はまだここに居ると良い」
福兵衛は会釈すると、そのまま人波の中に消えていった。
福兵衛を除く四人で思い残しのないよう、再び縁日を練り歩く。
そんな折、朗々とした声が辺りに響いた。
「さぁさぁ子供衆、買うたり買うたり飴の鳥じゃ、飴の鳥〜」
唄うように紡がれる客引の台詞。
それを聞き、音次郎がパッと顔を輝かせた。
「どうしたの?」
私の問いに、音次郎は嬉しそうに破顔する。
「あれは、浄瑠璃で飴売りが述べる口上なんだよ。ふふ、なんだか親近感が湧くなあ」
音次郎は軽やかな足取りで近づき、飴屋の主人へ話しかけた。
「旦那さん、飴の鳥を四つ頂けるかい?」
「あいよ! 飴の鳥を四つだな、毎度あり……ぃっ!?」
愛想よく返した飴屋の主人は、音次郎の顔を見るなり驚愕の表情を浮かべ、口をパクパクと動かす。
「えっと……旦那さん?」
人混みを歩き続けているうちに、いささか帽子が傾いていたのも原因だろう。
飴を作る手をとめた飴屋の主人に、音次郎がもう一度声をかけようと口を開いた時、事は起きた。
「お、お、音次郎!」
驚きと歓喜に震える飴屋の主人の声が、辺りに木霊す。
彼はまるで大好きなアイドルと合間見えたファンのごとく頬を上気させ、なおも大きな声で続ける。
「俺、あんたの歌舞伎いつも見てるよ! こんなところで会えるなんて、感激だぁ……っ」
「本当かい? ありがとう、旦那さんも朗々とした素敵な口上だったよ!」
咽び泣く主人に、音次郎は一瞬戸惑う素振りを見せたが、愛想よく笑みを浮かべる。
飴屋の主人は尚も、「あんたの演技は最高だ」「女顔負けの色気だ」等々、声高に音次郎を褒め称えた。
ざわり、と人々の間に騒めきが広がる。
多くの視線を感じて辺りを見渡せば、老若男女、あらゆる世代の好奇の目が私達に向けられていた。
その中で、一人の女の子が一歩こちらへと踏み出す。
「あっ、あの! 音次郎さんですよね? 私、舞台いつも観ててっ、その、大好きです! 握手して下さい!」
「え? ああ、いつもありがとう」
突然差し出された手に動じず、柔和な笑みを浮かべたままそれを握り返した音次郎に、ファンの子の黄色い悲鳴が飛ぶ。
その声を聞き付けた、他のファンの人達が一斉に色めき立った。
「やだっ、私も! 私も好きです!」
「俺だって! 音次郎さん、俺も握手して下さい」
「キャー音次郎っ、こっち向いて〜!」
どっと、大衆が音次郎を取り囲み、我先にと手を伸ばす。
その中で、一部の女性達の視線が隣に立っていた紫白に移る。
「待って、隣のお兄さんも凄い色男じゃない! お忍びの役者さんだったりするのかしら?」
あっという間に、紫白の周りにも人だかりが出来た。
「お兄さんは、何て仰るんですか?」
「……紫白、ですけど」
「紫白さんって言うんだぁ!」
きゃあきゃあと騒ぐ彼女達に、紫白は戸惑いながらも、角が立たないようにやんわり断わろうとしている。
隣では音次郎が、テンポよくファンの波をさばいていた。
「お兄さん、良ければあたし達と一緒に回りましょう?」
「こ、困ります。僕は彼女達と観て回るので」
「彼女達?」
私と忍くんを一瞥した女性は、そのままべたべたと紫白の腕に纏わり付く。
「子供は子供同士、大人は大人同士回る方が絶対楽しいわよー」
私達を馬鹿にするような言葉に、むっとする。
紫白も一瞬眉を顰めたが、すぐに平静を装い、笑顔で断りの言葉を重ねた。
笑顔が優しいせいだろうか。
女性達は動じず、そればかりか紫白の顔を見て頬を染めた。
紫白は私に向ける表情が柔らぐのに比例して、他の人間に対する当たりも随分と優しくなったと思う。
それは良い傾向なのだろう。
そう思うのに、今私の胸を占めるのは、得体の知れない嫌な感情ばかり。
以前も謎の痛みに襲われたことはあったが、今はその時よりも強く感じる。
どうにも見ていられなくて顔を逸らし、ぎゅっと拳を握り締めた。
その場に立ち尽くしていると、ふと誰かの溜息が聞こえ、次いで手を引かれる。
手の先へ視線を向ければ、忍が居た。
彼は紫白と音次郎の方へ、怒鳴るように声を掛ける。
「二人ともー! オイラ達向こうで待ってるから、落ち着いたら迎えに来るっすよ!」
「ん、了解ー!」
「えっ、ちょっと、忍!?」
片手間に告げる音次郎と焦る紫白の声を聞きながら、忍に手を引かれ、私達はその場から早足に離れた。
******
「椿ちゃん、大丈夫っすか?」
「うん。平気」
人の輪から少し離れた場所で、木々の近くに腰を下ろしひと心地着く。
忍はそれを見届け、盛大な溜息を吐いた。
「はぁーーーっ! しっかし、なんでオイラだけハブられたんっすか!? どう考えても、そこはオイラにもキャーカッコイイって言う流れっすよね? オイラだけ子供扱いとか納得いかないっす!!」
「え、そりゃあ……」
「そりゃ?」
一気に捲し立て、憤慨する忍の姿は珍しい。
うっかり、あなたが童顔だからだよと言いかけ、慌てて口を噤む。
「音次郎くんは役者さんだし、色眼鏡があるんじゃないかな……? 紫白は二人より大人に見えるだろうし」
私は当たり障りない言葉を選びながら慰めれば、忍はひとしきりぐぬぬと悔しそうに顔を歪めた後、力を抜いて呟いた。
「……椿ちゃんは優しいっすよね」
「え? いや、そんなことないでしょ」
「いやいや、そんなことあるって……それより、喉乾いてない? 待ってるだけってのも暇だし、良かったら何か買ってくるっすよ」
先程の一連の騒動のせいで、喉はすっかり乾いていた。
でも、忍だけに買いに行かせるのもどうなのか。
「なら、私も一緒に……」
「いいって、いいって! 二人とすれ違いになったらまずいしさ、椿ちゃんはここで待っててよ。何かあったら大声だして。すぐに駆けつけるっす!」
忍なりの気遣いを、断るのも忍びない。
私は分かったと頷いた。
「何が飲みたい?」
「じゃあ、冷やし飴で」
「了解っす。んじゃあ、行ってくるね!」
忍はそれだけ言うと、そそくさと屋台の並ぶ方向へ走り出す。
一人になると、辺りはより一層の静寂に包まれた。
距離があるせいで、祭り囃子も微かにしか聴こえない。
夜風が髪を梳かして、動くうちに落ちていた横髪を揺らす。
顔にかかった髪を耳へかけた時、ふと、視界の端を黒い何かが横切った。
不思議に思いそちらに視線をやれば、木々の奥からこちらを伺う黒い犬と目が合う。
「クロ……?」
見間違いかと目をこすって見るが、その姿は依然として消えない。
音次郎探しの際に見かけて以来、ずっと会えなかった、会いたかった黒い柴犬。
そのつぶらな瞳は私を捉え、巻き気味の尻尾は誘うように小刻みに揺れる。
クロがくるりと私に背を向けた。
ーーあなたは、また私の前から走り去ってしまうの?
私は焦燥感に腰を上げ、重い足を動かす。
しかし、予想に反して、クロは逃げなかった。
時折チラリとこちらを振り返っては、ゆっくりと私の前を進んで行く。
まるで、私をどこかへ案内するかのようだ。
「クロ、待ってクロ。どこに行くの?」
呼び止めるが、クロは止まらない。
捕まえようとすれば、絶妙なタイミングで避けられる。
どんどんと、人々の喧騒が遠ざかって行く。
歩いて歩いて時間の感覚が解らなくなった頃、急に何かに足を取られた。
突然の浮遊感が私を襲い、視界が暗転する。
「……え」
次の瞬間、目を開くと、そこは辺り一面の黒だった。
一寸先まで見えない、深い深い闇。
私が今目を開いていると認識できるのは、ひとえに自分の身体が見えているからだ。
発光している訳ではない。でも、そこにあるのだと分かる。
「クロ……、クロ! どこにいるの、お願い返事をしてっ!」
不安に駆られ名を呼べば、私の呼びかけに応えるように近くから「ワンッ」と声がした。
途端、目の前にクロの姿が現れる。
クロは一度私の浴衣の裾を軽く咥えて引っ張り、前方に向かって歩き出す。
「着いて来いってこと……?」
問いかけるように口にすれば、返事を返すように再びクロが鳴いた。
方角など何も分からない真っ暗闇の中、クロの後を着いて行く。
少しすると、揺らめく二つの光が見えた。
灯籠の光だ。人工的な灯りにホッとするのも束の間、両脇から灯籠に照らし出された石段を、クロが軽やかに駆け上がる。
「あっ! 待ってよ、クロ」
こんな訳の分からない場所に、一人残されては堪らない。
私は慌ててクロの後を追いかけた。
石段を登る毎、私を導くように一寸先の灯籠へ灯が燈っていく。
長い石段を駆け上がっても、不思議と息は切れなかった。
石段の先には鳥居がある。
どうやら、この石段は神社へと続いていたらしい。
クロは私が来たことを確認すると、真っ直ぐに鳥居の奥へと向かっていく。
クロに続いて恐る恐る鳥居を潜れば、鈴の音と共に透き通った声が聞こえた。
「……ああ、良かった。ちゃんと、馴染んだのですね」
それは、いつか何処かで聞いた声。
私はゆっくりと、声の主へ視線を向ける。
「お久しぶりです、椿」
ーーそこに居たのは、おっとりと微笑む、件の女神様だった。




