第四十一話「あなたの香り」
微かに鳴き始めた鈴虫の声を聞きながら、静かに廊下を歩いて行く。
手には、あの後冷やし直したスイカがある。
私は紫白の部屋の明かりがついていることを確認して、声を掛けた。
「紫白、ちょっと良い?」
「椿……? こんな夜半にどうしたんですか」
驚いた様な声がして、素早く引かれた戸から、濡れ髪の紫白が現れる。
風呂上がりなのか肌は赤らんでおり、どことなく艶っぽい。
思わぬ色気に、一瞬言葉に詰まる。
私は咄嗟に、紫白へスイカを突き出した。
「こ、これ! 音次郎くんからの貰い物。昼間、紫白居なかったから、持って来た」
「スイカ、ですか? その為にわざわざ?」
「そうだけど?」
私が首を傾げれば、紫白は困ったように眉を下げた。
「こんな時間に訪ねるのは、僕だけにして下さいね」
やんわりと頭を撫でられる。
私はその言葉の意味を理解するなり、自分の顔に血が昇るのを感じた。
つまり、アレだ。『夜に男の部屋に来るなんて、不用心だぞ』という意味合いの……。
長旅の中で、意識しないようにしていた感覚が戻ってくる。
「でも、ありがとうございます。今日はもう、貴女と会えないと思っていたので、嬉しいです。どうぞ中へ」
「い、いや。いい。私、もう帰るよ」
そんなこと言われた後で、紫白の部屋へは立ち入り辛い。
断れば、紫白は捨てられた子犬よろしく、しゅんと瞼を伏せた。
「確かに少しくらい警戒心は持って欲しかったですけど……、そう全力で断られると傷つきますね」
「う、わ、分かったよ……。なら、少しだけ」
「勿論です。貴女の睡眠の邪魔はしたくありませんし」
素面の紫白が私に変なことしないのは、分かってるんだけど、どうにも緊張してしまう。
私は恐る恐る、紫白の部屋へ足を踏み入れた。
そこは、相変わらず殺風景な部屋だった。
促されるまま座布団に座るが、落ち着かない。
紫白は私を見て、ただにこにこと笑っている。
沈黙に耐えられず、私は腰を上げた。
「紫白、髪の毛拭いてあげようか?」
「え? そんな、悪いですよ」
「良いから良いから」
私は紫白の肩から手拭いを奪い、彼の頭にそれを被せ、わしゃわしゃと拭き始める。
「ふふ、なんだか小さい子になったみたいで、くすぐったいです」
「すぐ乾くだろうから、スイカでも食べてじっとしてて」
身をよじろうとする紫白を咎めれば、彼は「分かりました」と言い、大人しくスイカに手を伸ばした。
髪を拭う音とスイカの咀嚼音だけが、わずかに部屋に響く。
「そういえば、紫白はこんな時間まで何処へ行っていたの?」
「貴女がそんなことを気にするなんて、珍しいですね。気になります?」
「気になるから訊いてるんだけど……」
からかうように言われ、つい口を尖らせる。
紫白はスイカを食べる手を止めると、私をチラリと見て、嬉しそうに笑った。
「山へ行っていました」
「山? どうしてまた……」
私は紫白の左腕へと視線を落とす。
彼の傷は、もう跡形も無く治っている。
とはいえ、山は危険だ。怪我をさせてしまった後じゃ、不安は拭えない。
「少し修行してきただけですよ。危ない事はしていません」
「庭でじゃ、ダメだったの?」
「僕の術は炎です。家が火事にでもなったら、いけませんから……」
「ああ、なるほど」
村近くの森の中でも、火事を気にしていた紫白だ。街中での訓練は、気が引けたのだろう。
「今、炎を使う対象の区別が出来るように、特訓中なんです。それがものになれば、庭でも練習出来るかと」
「対象の区別っていうと……、自分の意思で、焼くか、焼かないかを調整するってこと?」
「ええ。前回は周囲が燃えることを気にして、攻撃出来なかったので……。燃やしたい対象だけ、他と線引き出来ればな……と思いまして」
紫白は最後に、「それなら、貴女が側に居ても安全に守れるでしょう?」と自重気味に呟いた。
私も紫白も、未だ互いに負い目を感じているようだ。
「紫白、私だって、自分の身くらい守れるように特訓してるんだよ? 山でのことは、私にも非があるし、落ち込まないで」
失敗は経験にして、次こそ間違えないようにすれば良い。落ち込んでいても仕方ないのだ。
私は半ば、自分自身にも言い聞かせるように言う。
「私の力量が心配なら、今度は紫白が稽古をつけてよ」
「椿の力は心配していませんが……。貴女がそういうなら、是非」
紫白は私の話に乗り、頷いてくれた。
再び、沈黙。
紫白は素早くスイカを食べ終え、種だけになった皿が机上に置かれる。
ちょうど、紫白の髪の水気も取れた。
私は紫白の髪から手を離しながら、ふと、以前より気になっていた疑問を口にする。
「あ。ねぇ、紫白。もう一つ、気になってたことがあるんだけど」
「はい、何でしょうか?」
「右京くんが言ってた、炎を操る妖狐……あれって、どんな妖怪なの?」
紫白の挙動が止まる。
ピシリ、と部屋の空気が凍り付いた気がした。
「え、あの。紫白が悪いことするはずないし、炎を操る妖って他にも居るんだなって。紫白なら、知ってるかと……思っただけ、なんだけど」
異様な空気に慌てて言い募れば、紫白は絞り出すような声で「いえ……」と首を横に振る。
「そう……」
触れてはいけない話題だったらしい。次は何かもっと、面白い話題を振ろう。
そう思って口を噤んでいると、小さく掠れた声で、紫白が呟いた。
「……僕ですよ」
「へ?」
「右京の話していた狐は、僕のことです」
悪事を働いた狐と紫白が繋がらず、一瞬思考が停止する。
だって、紫白はいつだって優しく、良い人で……。
「僕は何人も人間を殺している。悪い、狐なんです。ずっと黙っていて、すみませんでした……」
ゲームの中の妖狐は、それは悪い風に描かれていた。
けれど、紫白がそんな事をする様には思えない。
「理由……、理由を聞かせて? どうしてそんなことをしたの?」
紫白は諦めるように、力無く頷く。
「……ええ。あれはまだ、僕が幼い頃のことでしたーー」
とつとつと語られる当時の話に、耳を傾ける。
それは、今にして思えば、霊力の暴走だったのだという。
紫白は紅さんを亡くしたショックから、怒りと憎悪に任せて力を振るってしまった。
結果、村一つが壊滅したらしい。
「あの辺りの村は昔から排他的な所でしたが、妖や霊力持ちへの風当たりが異様に強いのは、僕の所為もあるかも知れません」
私はその話を聞き、なるほどなと思った。
ずっと疑問だったのだ。
町の人と妖怪の仲は良好で、紫白は優しい妖狐。
なのに、ゲーム中の紫白が常に悪とされるのは何故なのか。
ゲーム"桜花"は、桜華の視点で進む。
村で悪とされていた妖狐が、悪役にされるのは当然だろう。
『妖狐が全ての災いの元凶である』という話も、集団心理から来る思い込みに違いない。
この分なら、桜華と良好な関係を築き、私が紫白を擁護する限り、紫白が討伐されることは無さそうだ。
文通、ますます頑張らないとな。
考えに耽り、何も言わない私を見て、紫白は怯えていると勘違いしたらしい。
「僕が怖いですか……? 嫌いに、なりましたか……?」
紫白は私の頬に手を伸ばそうとして……その手を引っ込めた。
そして、表情を隠すように俯く。
「……紫白、顔を上げて。それって、事故みたいなものでしょ? それに、どちらかといえば、悪いのは紅さんを手にかけた村の人じゃん」
紫白は何も言わない。
私は握っていた手拭いを床に落とす。
そして、目を合わせようと、下を向く紫白の顔を無理やり掴んで上を向かせた。
紫白の瞳が、驚きに見開かれる。
「紫白は反省してるし、次にそうならないよう気をつけてもいる。だから、炎を使う時に躊躇って、今は区別できるように訓練してるんでしょ?」
「それは……。だって、そうしないと、貴女まで危険に晒してしまうと思ったので」
紫白が気まずそうに、私から視線を外す。
「あの時の事は反省していますが、後悔はしていないんです。もし、今、再びあの日に戻れたとしても、僕はきっと同じ事をする」
紫白はそう言い切った後、「……ほら、やっぱり悪い狐です」と沈んだ声で告げた。
「……確かに人を殺すのは悪いことだけど、だからって、紫白を怖がったりしないよ」
無差別に人を殺す様な輩やらつゆ知らず、紫白のそれには理由がある。
殺人がいけないことだという、道徳観がある。
私が被害を被らないように、悩むような優しさもある。
私を助け、私の為に山から下りた。
人が嫌いだと言いながらも、人間社会に溶け込もうと努力している。
伝承の様に本当に悪い妖狐だったなら、あの日出会った時点で、木の虚から追い出されるなり、殺されるなりしていたはずだ。
私が知る限り、紫白はいつだって優しくて善良な狐だった。
ならば、私が紫白へ伝える言葉なんて、これしかない。
「……私は、紫白を嫌ったりしない。勝手に離れることもない」
紫白の瞳が揺れる。
「私から見た紫白は、いつだって優しかった。過去何があったのだとしても、私には今見てる紫白が全てだから」
私は紫白の手を取ると、先程彼が触ろうとして止めた、私の頬へ導く。
そして、安心させるように自分のそれを重ねた。
「確かに、人殺しはいけないことだよ。でも、私には悪い紫白が想像出来ないし、実感も湧かないの。……だから、そんな顔しないで?」
「僕……今、どんな顔してます?」
「泣きそうな顔」
私の言葉に、紫白が空いた手で自分の顔を覆う。
「見ないで下さい……。貴女が離れて行くかもと思ったら、ずっと言い出せなくて……」
「うん」
「知られるのが、怖かった。右京がした話に触れられないことに、安堵していた。……自分が情け無いです」
「そんなことないよ」
むしろ、紫白の地雷を踏み抜いたのはこちらの落ち度だし……。結果オーライ、なのだろうか?
よしよしと、宥めるように紫白の頭を撫でていると、ふいに紫白に抱きつかれた。
「紫白……?」
「……すみません。少しだけ、このままで居させて下さい」
消え入りそうな声で、「……お願いします」と囁かれれば、断る訳にもいかない。
私は静かに、紫白の背中へ手を添えた。
紫白が私を抱く腕に力がこもり、自然、鼓動が速まる。
同時に、ふわりと優しい香りが鼻腔をくすぐった。
この香りは、いつも私に安らぎを運んでくれる。
思えば、この世界に来た当初もこの暖かさの中で眠ったのだっけ。
緊張と安心感。
相反する気持ちが、交差する。
けれど、疲れのせいか緊張よりも安心感が優って、じわじわと眠気が頭を占めていく。
次第に瞼が重くなって、今にも閉じてしまいそうだ。
ああ、いけない。自室に戻らないと。また、警戒心が足りないって言われる……。
解っているのだが、どうにも離れ難い。
それに、紫白も私を離そうとしないから。
これは仕方なくだ、不可抗力なのだ。
そう言い訳をしながら、微睡みの淵に落ちていく。
その日、私は久しぶりに紫白の部屋の中で眠りについた。




