第四十話「水の剣」
「いっち、にー、さん、しっ!」
腹に力を込め起き上がり、力を緩めて背を床につける。百まで数え終わると、今度はうつ伏せになり、背筋と腕の筋肉を鍛える。その繰り返し。
背筋を終え、腕立て伏せが六十を過ぎたあたりで筋肉が悲鳴を上げた。
ごろりと、畳の上に転がる。
「あー……、もうダメ。腕つりそう」
桜華達と別れて、二週間と少し。
私と紫白は無事に福兵衛達の待つ家へと帰って来た。
礼と夢についての質問を兼ねて件の神社にも行ったのだが、あいにく女神様は現れてくれず。
疑問は残るが、私の悪夢も無くなり、概ね順調な日々を送っている。
そんな私の目下の課題は、有事の際に自分の身を守れるくらい強くなることだ。
あの山での私は、役立たずだった。
牽制こそ出来ていたものの、肝心の攻撃時には判断を揺らがせ、結果、紫白に怪我を負わせてしまった。
今思い出しても、後悔が胸を打つ。
このままでは、またいつか誰かの足手まといになる。そんなのは嫌だ。だから、今度こそ躊躇わずに攻撃出来るようになりたい。
そう思って、自分なりにどうすれば良いか考え、手始めに今まで逃げていた基礎体力トレーニングをやり始めて、今に至る。
とはいえ、簡単に筋力は向上しない。
体育会系の人達ってすごい……。
そんなことを考えながら腹筋をさすっていると、遠くから時を報せる鐘の音が聞こえた。
「う……、行かなきゃ。忍くんが待ってる」
私は何も筋トレだけしていた訳ではない。
判断が鈍っても、攻撃出来る技。そんな新しい術も考えていた。
それを、これから実践で試すのだ。
私はむくりと起き上がり、庭へと向かった。
******
縁側には、既に先客が居た。
「しーちゃん。居ないと思ったら、こんなとこで日向ぼっこしてたの」
「くるっぽー!」
しーちゃんーー白鳩の式神が私に気づき、嬉しそうに肩の上に飛び乗る。
うりうりと身体をつついてやれば、癖になる柔らかさが指に伝わった。
「あ、椿ちゃん! 待ってたっすよー」
庭の向こうで一人修行に打ち込んでいた忍が、私に向かってひらりと手を振る。
私はしーちゃんを元の場所に下ろし、縁側から庭へと降りた。
「待たせてごめんね」
「全然! で、術の練習を手伝うんだったっすか?」
「うん。術の練習っていうより、実践で使えるようになりたいんだ。だから、実際に手合わせして欲しくて」
「なるほど。それなら、オイラでも手伝えそうっすね」
「良かった。じゃあ、本気で手合わせお願い!」
私の言葉に、忍が困ったように頬を掻く。
「……言っちゃあなんだけど、オイラ強いっすよ? 手加減しなくていいの?」
「うん!」
忍が強いのは知っている。つまり、忍から一本取れるくらい強くなれば、負け無しだろう。
目標は高く持った方が良いと思うんだ。
忍は「そっかそっか」と楽しげに笑う。
「勝利条件は、三本勝負で多く相手の急所を取ったら勝ち……とかっすかね?」
「そうだね、そうしよう」
その方が、色んなことを試せそうだ。
忍は頷くと、その辺の太めの小枝を拾い、地面に軽く突き立てる。
「じゃあ、この棒が倒れたら開始ね。母ちゃんとやる時は、いつもこうしてるんすよ」
「わかった」
木の棒を挟み、互いに一定の距離を取る。
ちりんと縁側の風鈴が鳴ると同時、棒が倒れた。
途端、空を切る音がして、棒手裏剣が眼前に飛ぶ。
「水鉄砲!」
私は容赦なく振られたそれらを撃ち落とすと、己が手に力を込めた。
思い描くのは、真っ直ぐに伸びる水の剣。
硬く、鋭く、その姿を表せ。
想像を素早く形にしていく。
剣が完成する直前、耳元で声がした。
「新技っすね? 面白いけど、出すのにそんな時間がかかっちゃ、実践では命取りっすよ」
トン、と首元に指を当てられる。
「はい。一本」
え、いつのまに!?
さっきまで目の前に居たのに。
背後を振り返り、驚きに目を見開けば、忍はあははと笑った。
続く二戦目。今度は剣を形成出来たものの、途中で攻撃を受け、形が崩れてしまい……呆気なく負けた。
練習とはいえ、悔しい。
もう負けは確定だが、せめて一本くらいは取りたいと気合いを入れる。
「最後の一本行くっすよ」
忍の合図の後、再び棒が倒れる。
今度は忍が仕掛けてくるよりも早く、水の剣を形成し構えた。
「おっ! 今度は初めから使うんだ。なら、オイラも」
忍は持っていた棒手裏剣をしまうと、代わりに短刀を出してみせた。
肉弾戦に持ち込むつもりらしい。
忍は一気に私との距離を詰め、短刀を振り下ろす。
短刀の刃が剣の中にめり込み、剣が崩れかけるが、すんでのところでそれを弾き飛ばした。
「ありゃ? さっきより堅いんすね。驚いた」
「忍くんは、相変わらずキレッキレな動きだね!」
忍の胴目掛け、剣を振るう。しかし、軽く躱された。
「なら、これはどうっすか?」
忍は少し距離を取ると、私の前方の地面めがけて何事か呟く。
途端、ざぁっと、目の前を砂嵐が覆う。
「何!?」
突如発生した砂嵐に、目を開けていられない。
握っている剣が、ぐにゃりと曲がった気がした。
ーーまずい!
この術には、弱点がある。
一度威力と水量を決めれば、あとは私の手を離れていく水鉄砲や水刄と違い、水の刀はずっと私の手を離れない。
つまり、常に一定の強さで術を発動し続ける必要があるのだ。
ここに剣がある。そのイメージを保つ為に、私は視界の端に、常に自分の手元を映していた。
その視覚情報が遮られた今、術の発動はゆっくりと崩れて来ている。
感の鋭い忍は、このカラクリに気付いたのだろう。
何とか、しなくちゃ。
そう思った時だった。ピシリと足に軽い衝撃が走る。
「痛っ……。何これ」
飛んで来た何かを拾い上げ、かろうじで薄眼を開けた。
それは、試合開始の合図に使っていた木の棒だった。
「どこ見てるんすか? 集中しないと危ないよ、っと!」
横から忍の蹴りが飛ぶ。
吹き飛ばされ、咄嗟に受け身を取る。
衝撃によって、剣が派手な水飛沫を上げ、飛び散った。
手中から、完全に質量が消える。
砂嵐の中心から逃れると、砂塵の量も減るらしい。私は、何とか目を開く。
忍は黒装束を頭にも巻いており、砂嵐の中でも動けるようだ。
「それ、ずるくない?」
「実践なんだから、使えるものは何でも使わなきゃ、ダメっすよ!」
表情は見えないが、悪気無く笑う忍の様子がありありと思い浮かぶ。
彼に一太刀入れる為には、もう一度あの砂嵐の中へ入らなければならない。
視界が塞がれるあの空間で、どう立ち回ればいい?
水鉄砲や水刄はここからでも飛ばせなくはないが、威力が落ちるし、距離的に失敗する可能性が高い。
私はさっき拾い上げた棒に、視線を落とす。
「使えるものは何でも使え、か……」
私は意を決すると、木の棒を両手で握りしめる。
そして、再び術を発動させた。
木の棒を軸に、水の刃が伸びていく。
「なるほど、それなら見なくても大丈夫って事っすか。面白いや。良いよ、どこからでもかかってくるっすよ!」
短刀を構えた忍目掛けて突進する。
私は目をつぶったまま彼の懐に飛び込むと、無茶苦茶に剣を振り回した。
「え、ちょっ。うっわ!」
鈍い音と確かな手ごたえに、忍のどこかへ剣が当たったのだと分かる。
よし、一本取った!
ほっとしたのも束の間、一瞬の隙を突いて、ひやりとした感触が首筋に当たった。
ーー忍の、短刀だ。
「……参りました」
そう呟き、降参だとゆっくり両手を挙げる。
瞼を開ければ、いつの間にか砂嵐は止んでいた。
降参のポーズを取る私を見て、忍は軽やかに短刀を仕舞い、いつもの調子で笑ってみせる。
「お疲れ様。オイラの勝ちっすね!」
「うう、悔しい。一本くらいは取りたかった」
「いやー、素人の椿ちゃんに負けたら、オイラの立場がまずいっすよ。でも、最後の一本は良い線いってたんじゃないっすか?」
「本当?」
「ほんとほんと。切るんだと思ったら、打ってくるから驚いたっす。意外性があったし、機転も効いてた」
戦闘のプロに褒められるのは、悪い気がしない。
私は満更でもなく、笑みを浮かべた。
「ふふ、でもね。アレは元から打つための剣なんだよ」
「そうなんすか?」
そう。あの剣は、剣であって剣では無い。
見た目は剣。しかし、その本質は殴るための鈍器である。
私は忍にその旨を伝え、説明を続けた。
「この前、妖に襲われて、やられる前にやらなきゃって思った。でも、私は攻撃を当てられなかった。……殺しちゃうと思ったら、判断が鈍った」
攻撃は出来るようになりたい。でも、生き物を殺す覚悟がどうしても出来ない。
延々と悩んで、どうしたら良いのか分からなくなったある日、助言を求めて福兵衛の元へ行ったのだ。
福兵衛は私の話を聞くと、こう告げた。
『他者を傷つけられないことは甘さではなく、優しさだ。それはお前の長所だと、儂は思う。出来ない事を無理にしようとせず、今ある長所を存分に伸ばしなさい』
出来ないことは、無理にしなくて良い。
その言葉は、私の心を軽くしてくれた。
「躊躇わずに出来る攻撃、でも相手に舐められないもの……そう考えて、出来たのが水の剣なんだ。まあ、棒に纏わせて強度を上げるっていうのは、即席だったんだけどね」
「剣だと思わせることで、相手を牽制。攻撃は打撃にして、相手を昏倒させる……か。上手いこと考えたっすねー。でも、それで良かったんじゃないっすか?」
「そう、かな?」
一度相対した相手には、同じ牽制は出来ないし、打撃だって、私の力じゃ大した威力にはならない。我ながら苦肉の策だと思うのだが。
私が苦笑すれば、忍は励ますように私の肩を軽く叩いた。
「そうだよ。生き物なんて、殺さないに越したことないんだから。オレは、そのまんまの椿ちゃんでいて欲しい」
いつもの軽い調子ではなく、優しく、柔らかい声音。
普段と違う口調に、少しの違和感を感じたけれど、次の瞬間にはいつもの忍に戻っていた。
「それより、一回休憩にしないっすか? 喉渇いたっす」
「それもそうだね。お茶でも入れようか」
頭の後ろで手を組んだ忍に同意し、厨へ行こうとして、けたたましい鳩の鳴き声に遮られる。
「くくる! くくるるぅっ!」
突如庭に現れた黒鳩は、縁側で眠っていたしーちゃん目掛けて、一直線に飛んで行く。
黒鳩は勢いのままに、しーちゃんへと突っ込んだ。
「ぽ? ぽぽっ!?」
「ちょっと、しーちゃん!? 大丈夫?」
目を回すしーちゃんに慌てて駆け寄る。
黒鳩は私に気づくと、ぐりぐり文を押し付けてきた。
「あ、ありがとう。でも、ちょっと勢いが過ぎるから、次は気をつけてね」
「くくっ!」
黒鳩は了解したと言わんばかりに、キリリと羽で敬礼のポーズをとる。
この子、文を届けてくれるのは良いんだど、いつもいきなり現れるから、驚くんだよね……。心臓に悪いわ。
私はしーちゃんを助け起こしながら、渡された文を開いた。
「桜華ちゃん、だったっすか? まめだねぇ〜」
「本当。私、筆不精だから、申し訳なくなるよ」
桜華からの文は、届くのが早い。
反対に私は、文を書くのが得意ではなく、いつも少し日が空いてしまうのだ。
側へ来た忍に相槌を打ちながら、何度目かの文に目を通せば、そこにはこの前の返事と他愛のない近況報告が綴られていた。
「桜華ちゃん、元気そうだね。また、返事書かなくちゃ」
文を読み終え、お駄賃がわりに黒鳩へ鳩豆を渡す。
黒鳩は嬉しそうにそれを食べると、空中へと飛び上がり、やがて消えた。
仕組みは不明だが、これであの距離を行き来できるのだから、式神って凄い。
さあ、今度こそ厨へ……そう思い、廊下へ足を踏み入れると、今度は前方からお盆を持った音次郎が現れた。
お盆の上には、切り分けられたスイカがのっている。
「あ、音次郎くん。お帰りなさい! それ、どうしたの?」
「ただいま。尾上さんの奥さんがくれたんだ。良かったら、皆で食べよう」
面映そうに微笑んだ音次郎の手元から、忍がさっとスイカを抜き取り、口へと運ぶ。
「さすが、音くん。気がきくっすね! あー、美味い。のどに沁み渡るっす」
「ふふ、良かった。ほら、椿ちゃんも……、あっ、座って食べようか」
音次郎に促され、再び縁側に戻り、腰を下ろした。
礼を告げながらスイカを受け取る。
しゃくりとかじれば、ほど良い甘さとたっぷりの水分が、渇いた喉を潤してくれた。
「美味しいね」
私がそう言えば、音次郎も「うん」と笑う。
隣では、忍が凄い速さでスイカを平らげていた。
スイカを頬張っていると、私の膝の上に飛び乗ったしーちゃんが、上目遣いに見上げてくる。
「しーちゃんも欲しいの? ほら」
スイカを少し取り分け与えてやれば、しーちゃんは嬉しそうにそれを啄ばんだ。
「ふふ、かわいい」
「ぽぅ?」
音次郎がしーちゃんを触りたそうに見ていたので、触らせてあげれば、肌触りが凄いと驚いていた。
しーちゃんも気持ちよさそうだったので、またちょくちょく触ってあげて欲しい。
そんなこんなで、午後のひと時はゆっくりと過ぎてゆく。
辺りは日が暮れ始め、涼風が風鈴を揺らした。
「もうそろそろ、夏も終わりっすねぇ……」
殆ど一人でスイカを食べ尽くした忍がそう口にして、なんとなく寂しいような、切ないような沈黙が三人を包む。
夏休みが終わる時って、いつもこんな気持ちになってたっけ。
「……そういえば、紫白さんは?」
「何か、外に用事があるらしくて……」
ふいに音次郎がそう口にして、私は言葉を濁す。
旅から戻ってからというもの、紫白は遅くまで一人でどこかへ行く事が増えていた。
何をしているのか、何処へ行っているのか、私は何も知らない。
何となく、もやっとした何かが胸に積もる。
「言われてみれば、紫白の奴が椿ちゃんから離れてるのって珍しいっすよね。おかげで、邪魔されずに手合わせ出来たわけだけど」
「あはは。確かに、紫白がいたら危ないって止められてたかも」
『本気で手合わせなんて、椿が怪我をしたらどうするんですか!』
そう目くじらを立てる紫白の様子が、ありありと思い浮かぶ。
「そろそろ日暮れが早くなってくるし、あまり遅くならないと良いけど……」
「大の男だし、心配することないっすよ! まあ、そのうち帰ってくるっしょ。って訳で、そのスイカは、新鮮なうちにオイラが貰いますよーっと!」
忍は紫白の身を案じる音次郎を笑い飛ばし、取り分けられていた最後のスイカへ手を伸ばそうとする。
音次郎はそれに気づき、慌てて皿を持ち上げた。
「だ、駄目! これは紫白さんの分。それに、それ以上食べたら、絶対お腹壊すよ」
「オイラ、胃腸は強いんで、問題ないっす!」
スイカに迫る忍と、じりじり後ずさる音次郎。
忍のその食への執着は、何処から来るのだろう。
雨戸に追い詰められた音次郎が、若干涙目になっている。
可愛そうになり、私は忍の頭を軽く叩くと、音次郎から皿を受け取った。
「これは、私が責任持って紫白に渡します。だから、食べちゃダメ!」
「ちぇっ。椿ちゃんのケチ」
「ケチで結構。というか、いくらなんでも忍くんは食べ過ぎだから!」
むくれる忍を叱りつけ、私は皿の上のスイカを一瞥した。
紫白、今日は早く帰ってくると良いけど……。
ちなみにこの時、福兵衛さんは自室で仕事をしていました。
なお、福兵衛用のスイカは、先に部屋まで届け済みの模様。




