第三十六話「冷たい視線」
今回、少し長めです。
「心配かけてごめんね……」
「いいえ、全然。それより、しっかり冷やさないと」
連れられるまま川辺を後にし、現在再び小屋の中。
紫白から濡れた手拭いを受け取り、泣き腫らした目にあてる。
「ありがと……」
鼻を啜りながらそう告げれば、紫白はやんわりと微笑んだ。
泣きながらも、私の思考はクリアだった。
あの後、夢の一件を考えて、少し思い至ったことがある。
『縁を通じ、夢として何かを知らせたいのではないか』、そう言った紫白とこれまでの夢、そして、先程の"私"。
伊吹は、これまで何人も生贄として消えただろうとも言っていた。
それらを繋げて、ふと思ったのだ。
彼らはただ、忘れないで欲しかったのではないかと。
死者は誰かに思い出されなければ、存在出来ない。
忘れられることこそ本当の死であると、昔、何かの本で読んだ。
墓は、忘れないために作るもの。
けれど、伊吹だけでは作り上げるのは難しかったに違いない。
それで、私達が呼ばれたのではないだろうか?
まあ、それだとなんで毎回"私"が出てきたのかという疑問は残るのだが……その辺りは、今度、訳知り顔だった女神様に訊いてみよう。
しっかりした足音が聞こえて、見れば伊吹が炊き上がった雑穀米と漬け物を手に、こちらへ向かっていた。
「落ち着いたか? なら、飯にしよう。腹を整えたら、神社に行こうぜ!……って言いたいが、今日は辞めとくか?」
気遣わしげな視線が、私の瞼を見る。
確かに、今の私の顔は見られたものではないが、せっかくの機会を無駄にしたくない。
「ぎりぎりまで冷やしてみる。だから、連れて行って」
「よし、なら任せとけ!」
「うん、お願いね」
紫白は少し心配そうだったけれど、異論はないらしい。
目を冷やしながら、何度目かの食事に手をつけた。
変わり映えは無いが、飽きも来ない料理を食べ終わり、数刻後。辺りは陽が暮れ初めていた。
「もう少し待とうぜ。暗くなったら、出発だ」
伊吹の言葉に頷き、夜を待った。
伊吹が育てた田畑を抜け、緩やかな坂道をいくらか下った先にそれはある。
板張りのこじんまりとした家が建ち並ぶ、小さな村だ。
時折、戸の隙間から漏れる僅かな灯りが、人の気配を感じさせる。
私は息を殺しながら、伊吹の後を付いて歩く。
一人、家路を急ぐ村人とすれ違った。
緊張が走るが、彼は遠巻きに私達を見るだけで、声をかけようとはしない。
ただ、その視線は冷たく、言外に出て行けと告げていた。
今まで優しくされることに慣れすぎて、少し応えたけれど、実害が無いのなら問題ない。
今は、このまま無事に主人公と会って帰る事に集中しよう。
「目的の神社は何処に?」
「村外れだ。もうすぐ着くぜ」
堅い声で問うた紫白へ、伊吹がそう返した時だった。
かたり、と物音がして、前方から新たな人物が現れる。
顔を確認するより早く、紫白が私の手を取り、側へ引き寄せた。
「余所者……」
薄暗闇の中、ぼうっと壮年の男の顔が照らし出される。
男は手に持った灯篭を掲げ、ギョロリとこちらを見渡した。
視線が伊吹を映すと同時、血走った眼がカッと見開かれる。
「お前はまたそげな者とつるんで。これ以上厄災を持ち込むなど……恥を知れ!」
「……恥知らずなのはどっちだよ、クソ親父!」
伊吹は男を強く睨みつけると、私達に向け短く叫んだ。
「走れ!」
ここに留まれば、厄介なことになるは明白だ。
急な事につまづきながらも、地面を踏みしめその場から遠のく。
見かねた紫白が私を抱き抱え走りだしたが、抗議している余裕は無い。
紫白の肩越しにちらりと見えた男の表情は、伊吹とは似ても似つかぬ、憎悪に染まった酷く恐ろしいものだった。
「ーー出て行け、出て行け!」
父、と呼ばれた男は、砂なのか石なのか、一心不乱にこちらへ何かを投げつけている。
声が段々と遠ざかり、男の姿が見えなくなって、私はようやく口を開いた。
「さっきの人は?」
霊力持ちだとバレた訳でも無いのに、酷い嫌われようだ。
それに、私達だけでは無く、伊吹への態度も気掛かりだった。
何をしたら実の息子へ、あんな表情を向けるようになるのだろう。
「……オレの親父。そんで、ここの村長」
伊吹は複雑そうな表情で、ぶっきら棒に呟く。
「何があったの……?」
「まあ、ちょっとな。それより、さっきから村のやつらがごめんな。気分を悪くしただろ?」
「この手の山村なら普通でしょう。貴方のような人間の方が稀なんですよ」
私の言葉は、はぐらかされてしまった。
そもそも、あんな小屋に子供が一人で暮らししていることも、引っかかっていたのだ。
困ってるなら、手助けしてあげたいが……。
紫白が空いている手で、私の頬をつついた。
「椿、なんて顔してるんですか。きっと、今の僕らに出来ることなんてありませんよ?」
「そんなの、訊いてみなきゃわからないよ……って、そんなに顔に出てた?」
「ええ、それはもう」
心の中を読まれ、なんとも言えない気分になりながら、下へ降ろしてもらう。
地に足を着け前を見れば、伊吹も私を見て言った。
「紫白さんの言う通りだぜ。椿ちゃんが気にすることは何もねぇ。それより、もうすぐ神社だ。階段のぼるぞ、足元に気をつけてな」
本人にそう言われてしまえば、引き下がる他ない。
私は釈然としないながらも、「分かった」と返し、鳥居へと続く階段を登り始めた。
さあ、いよいよ、主人公とメインヒーローのお出ましだ。
******
「こっちだぜ!」
階段を上りきり、緊張に速まる鼓動を聴きながら鳥居をくぐった先には、こじんまりとした神社があった。
人気は既に無く、神主さんが住んでいると思わしき母屋と、拝殿の奥、本殿へと続く建物にだけ灯りが灯っている。
伊吹の後に続き拝殿の奥へと向かえば、そこには細身の少年が立っていた。
「おーい、右京!」
伊吹の声に、右京と呼ばれた少年が顔を上げる。
「待ったか?」
「ああ、いや、そんなには。その人達が言ってた人?」
「そうだぜ! 紫白さんと椿ちゃんだ」
伊吹が嬉しそうに駆け寄り、右京へ私達を紹介する。
次いで、こちらを振り返った。
「二人とも、こいつはオレの弟分の右京。前に話した護符を作った友達だ。無愛想だけど良いやつだから、よろしく頼む!」
「……どうも」
右京が軽く頭を下げれば、束ねた髪がさらりと流れた。
紹介されずとも、良く知っている。
口数少なく、表情は控えめ。俗に言うクールキャラ。しかし、彼の不器用な優しさに、落とされた乙女は星の数ほど。
桜花のメインヒーローこと、天宮 右京。
彼は幼少期より、桜華ちゃんに片想いしている。
何も考えずゲームを進めると必ずと言って良いほど、プレイヤーを自ルートへ引きずりこむダ○ソンみたいな奴。
そんなハイパワー吸引力を誇る彼で印象深いのは、桜の木の下で傷ついた桜華ちゃんを守るように抱えるパッケージイラストだ。
つまるところ、主人公のセコム。
だからこそ、彼と仲良くなる事は主人公へ近づく第一歩。失敗は出来ない!
そう決意し、口を開こうとした私よりも先に、紫白が動いた。
「それで、巫女は何処です?」
「巫女は疲れてる。今日はもう会えないよ」
淡々とした事務的な態度に、紫白が眉をひそめる。
「彼女が、夜ならば空いていると言ったから、僕らは今ここにいるんですが?」
「無理かもしれないとも、言っていたはずだけど?」
徐々に口調がきつくなる紫白に、内心冷や汗をかいた。
紫白! もっと温和に、優しく頼むよ! 気持ちは分からなくもないけど、イライラはよくないぞ。
「なら、いつなら会えるんですか?」
「何とも。急ぎなら、諦めて」
語気を強める紫白へ対抗するかのごとく、右京は険を含んだ物言いで続けた。
紫白と右京の視線が交錯する。
剣呑な雰囲気を察した伊吹が、場を和らげるように明るく声を上げた。
「まあまあ。待つなら、何日でも家に泊まってくれていいぜ。そのうち、桜華の手も空くだろ」
それを聞いた右京は私達へ厳しい視線を向けた後、伊吹へと向き直り、呆れたように彼を見た。
「伊吹、少しは自重しなよ。ただでさえ……」
「儀式を中断させたせいで、疎まれてるのにってか?」
「……分かってるんじゃないか」
「なら、問題無い。オレはそんなこと気にしないし、儀式を止めたことも後悔してないからな!」
明るく笑った伊吹へ、右京はなおも言い募ろうとしたが、続く言葉に遮られた。
「それより、なんか話そうぜ。せっかく会ったんだし」
「話すことなんかないよ」
取りつく島もない言いようだ。
右京は常識人で優しい人物。
ゲーム中はそんな印象だったけれど、主人公目線と部外者の立場では、また別らしい。
めげずに話し続ける伊吹は凄い。
慣れてるだけかも知れないけど、私には到底出来そうに無い。
何話せば良いか分からん。仲良くなる以前の問題だった。
そう考えていると、突然話の矛先が私達に向いた。
「この二人さ、凄い人達なんだぜ? オレらなんかより、ずっと術が上手く使えるんだよ。な?」
「えっ、うん。上手いかは分からないけど……」
そう頷いた私の隣で、紫白がぎょっと伊吹へ抗議の声を上げる。
「伊吹!? その話は……っ!」
「あ、話したらだめなんだったっか? あはは、悪い。まあ、こいつも同類だろうから大丈夫だって!」
「〜〜っ、楽観的すぎます!」
話してしまったものはどうしようもない。
右京の様子を伺えば、真っ直ぐこちらを見ていた。
「それは、本当?」
先程まで剣呑だった右京の目に、興味の色が浮ぶ。
これは、仲良くなれるチャンスかも……?
「うん、本当だよ」
「……! そう。何の術が使えるの?」
「私は水、紫白は炎が専門かな」
「そうそう! 二人の術はさ、規模も広いし本当に凄いんだぜ。しかも、霊符は使わないんだ!」
「霊符は、使わない……?」
右京が私達を見る目が、興味から一変、警戒の色へと変わる。
彼は伊吹の腕を取り、私達と距離をとった。
「伊吹、騙されてるよ。霊符を使わず術を使えるなんて、おかしい」
「はあ? でも、現に二人は術を……」
「水は分からない。けど、炎を操る妖怪の話は文献で見たことがある。数百年前、村一つ火の海に沈めた、大悪党だ」
厳しい目が、私達を射抜く。
「妖め、伊吹に近づいて何をする気だ!」
「そんな、私達は何も!」
必死に否定するが、向けられた疑いが晴れることは無い。
仲良くなれるかと思ったのに……! というか、私も紫白も忍くんだって、霊符とかいうのなしで、普通に使ってるんだけども!?
そうこうする間に、右京が懐から木製の札を取り出し、目の前に掲げた。
それは、以前福兵衛が作ってくれた御守りの板とよく似ている。
思わず数秒、右京の手元を凝視した。
右京の紡ぐ、呪文のような言葉が右から左へ抜けていく。
「彼の者の守護を以って我が糧と為さん。力よ、此処へ来たりて、我に恩恵を与え給へ」
ことの次第を見守っていた紫白が、「ああ、最悪だ。言わんこっちゃない」と舌打ちし、私をかばうように目の前へ躍り出る。
右京の言葉が完成した瞬間、彼の手元が淡く光を放った。
光は右京の手を離れ、紫白目掛けて飛んでいく。
紫白の周りを赤いオーラのような光が包み、それは再び右京の元へと帰っていった。
一瞬の出来事だった。
「……っ」
がくり、と紫白が地面に膝をつく。
急ぎ、紫白の側に駆け寄った。
「紫白、どうしたの!?」
今、何が起こったのだろうか。攻撃されたようには思えなかった。
ざっと紫白の身体を見るが、あるのは昨日の傷だけで、新たな外傷は見当たらない。
「熱っ!」
叫び声と同時、右京が持っていた札が地面に転がる。
見れば、それは轟々と真っ赤な炎に包まれていた。
「はぁ……、大丈夫です。ちょっと力が抜けただけで」
そう言い立ち上がった紫白に、右京が驚愕の目を向ける。
「な、なんで。どうして妖の癖に浄化されない!」
「浄化って……。当たり前です」
紫白は呆れた様に右京を見た。
「こ、こっちへ来るな!」
一歩踏み出した紫白へ、右京が後退りながら叫ぶ。
数秒遅れて、静まり返る境内に鈍い音が響いた。
「馬鹿やろう!」
「痛っ! 伊吹、なにするんだよ!」
背後から、伊吹が右京の頭を殴ったようだ。
右京が顔を歪めながら、しきりに頭をさする。
「おまえな。二人はオレを手伝ってくれた良いやつなんだぜ!? だいたい二人は妖じゃなくて、霊力持ちで……いや、例え妖だったとしても、いきなり術を使うなんてダメだ! 死んだらどうする気だったんだよ!」
「悪い妖なら、退治して当然じゃないか。伊吹の警戒心が足りないから、俺がこうしてるんだろ!」
ギャンギャンと揉める二人を横目に、私は"死"という言葉を拾っていた。
今の、そんなにヤバい術だったの!?
「し、紫白」
顔を青くした私を、紫白が宥める。
「ふふ、大丈夫ですよ」
「でも、今、力が抜けたっていったでしょう? 生命力を取られた……とか、そういう怖いこと、ない?」
「椿は、想像力が豊かですね」
にこにこと返されたが、こっちは本気で心配してるんだぞ!
「あはは、椿、むくれないで。本当に大丈夫ですから」
「私には、何が起きたのかわからなかったんだもの。なんでそう言い切れるの?」
紫白はまだ言い争いを続ける伊吹と右京をちらりと見ると、小声で話し出した。
「彼はまだ未熟だ。椿と違って、想像力も足りていません」
「え?」
「恐らくですが、さっきの術は対象者の力を札に封じ込めて、使役する為のものだったんです」
「じゃあ、やっぱり……!」
危ない代物ではないか、そう言おうとして紫白が首を振る。
「椿、話は最後まで聞くものですよ? 弱い妖ならひとたまりもないでしょうが、僕は強いので。術者の方が、取り込んだ力を抑えきれなかったんでしょう。あんなに燃えて……」
紫白は面白そうに、消炭となって空中へと消えていく札だったものを眺めた。
「それに、彼が対象にしたのは"妖"です。僕の本質は霊力持ち。彼が『霊符無く術を使えるのは、妖だけ』と思い込んでいた時点で、力を奪うなんてこと、はなから無理だったんですよ」
「それって逆に言えば、右京が私達を霊力持ちと認識していたら、危なかったかもってことだよね……?」
紫白ははぐらかすように、笑顔を浮かべた。
「……庇わないでって、言ったのに」
「すみません。でも、やはり、貴女を危険に晒して放っておけるほど、僕の心は強くありません。致し方無し、ですよ」
これは、本格的に私が強くならないといけないな……。
それにしても、妖や霊力者の力を無理矢理奪う術、か。
そう考えた時、ふとあの日の映像が脳裏に浮かんだ。
「あ……!」
「どうかしましたか?」
「いや、福さんがこのお守りを作ってくれた時、凄く疲れてたなって思い出して」
御守りを胸元から取り出し、手のひらに乗せる。
札も似ていたし、もしかしてあの時使っていたのはこの術?
自分の力を護符へ移すのだから、そりゃあ疲れるはずだ。
一歩間違えれば、力尽きる可能性だってある。
なのに、福兵衛は二回も自分の身を削って、これを作ってくれたのか……。
「……福さんに、申し訳ないことしちゃった」
帰ったら、御守りを返そう。力、還元されないかな?
そう思った私へ、紫白が不思議そうに告げた。
「よく分かりませんが、福兵衛は貴方の為にそれを作ったんでしょう? なら、謝られるより、喜んで貰いたいと思いますよ」
「え?……そうか、うん。そうだね。帰ったら、私、もっと福さん孝行する」
ちょうど話を終えた時、伊吹が右京を引きずりながらこちらへ歩いて来た。
そして、勢いよく頭を下げる。
「二人ともごめん! オレが考え無しだった所為で迷惑かけた。右京がこんな事するなんて、思わなかったんだぜ。本当に、悪い。……ほら、右京も謝れ!」
伊吹に小突かれ、右京も渋々ながら頭を下げた。
「……いきなり術を使ったのは、悪かった。でも、霊力持ちだろうが、君達が怪しいことに変わりはないから」
「こら、右京!」
ガツンと再び拳骨が落とされ、右京が頭を覆う。
「……暴力反対」
「おまえが、素直に謝らないからだぜ」
伊吹がまだ拳をちらつかせているのを見て、右京が嫌そうに謝罪の言葉を述べた。
「……ごめん」
「あの、紫白も一応無事だったから、もう良いよ。右京くん、私達、本当に何も悪い事する気なんてないの。ただ、巫女さんに会いに来ただけなんだ」
「何度も言わなくても分かってる。君達が善人らしいのも、伊吹から聞いた」
ぽつり、ぽつりと呟く右京の声が、宵闇に響く。
「でも、俺は信じられないし、今日は巫女にも会わせられない。だからもう、帰って」
「おまえは、またそういうこと言う!」
飛んだ拳を、ひらりとかわして右京が言った。
「君達が本当に善人なのなら、そのうち巫女に会わせてあげる。……くれぐれも、伊吹の信用を裏切らないでよね?」
紫がかった黒髪の隙間、覗く双眸は裏切れば殺すとでも言いたげに吊り上がっている。
告げられた言葉の圧に、私は黙って頷く他なかった。
******
あの後、伊吹が私達に謝り倒し、それを見た右京が不機嫌になってまた喧嘩し始めたり、大変だった。
善人ならそのうち巫女に会わせる。
それは裏を返せば、右京が認めない限り会わせないということだろう。
どうすれば、彼に認めて貰えるんだろうか?
ござへ横になって考えるが、良い案は思い浮かばない。
そうこうする間に、夜も深くなってきた。
もそりと起き上がれば、心配そうな紫白の声が飛ぶ。
「椿、こんな時間に何処へ行くんですか?」
「ちょっと、お手洗い……」
「ああ。気をつけて下さいね」
「裏手までだもん、大丈夫だよ」
苦笑気味に小屋の戸を開き、厠へと向かう。
この世界のトイレは、汲み取り式……所謂ポットン便所である。
当初は抵抗があったけれど、今は慣れたものだ。
とはいえ、夜の山のトイレというのは何かが出そうで、恐怖を掻き立てられる。
正直、ちょっと怖い。
けど、こういうこと考えると本当に妖になるって福さんが言ってたよね。
何も考えないように首を振った時、畑の方から微かに何かの音がした。全身に緊張が走る。
妖? それとも村長が、何かしに来た?
どちらにせよ、私だけで対処出来ると思えない。音の正体を確認して、急ぎ小屋へ戻ろう。
私は恐る恐る田畑へと続く小道へと近づき、木陰に身を隠しながら、そっと奥へ視線を移す。
ーー目の端に、長い桜色がちらついた。
「ひっく……、ぐすっ」
聞こえて来るのは、少女のすすり泣き。
桃色の瞳から溢れる涙は、まるで宝石のよう。
月光の下、ヒロインにしか許されない色を纏った彼女が、ゆっくりと顔を上げる。
そこへ居たのは、妖でも村長でもない。
私が長年畏怖していた人物。
先程、どうすれば会えるか悩んでいたはずの人。
このゲームの主人公、桜華。
ーー彼女の瞳が、私を捉えた。




