第三十五話「もう一人の私」
「ふっ、はぁ!」
度々聞こえる微かな掛け声に起こされ、目覚めれば、朝焼けの光が差し込んでいた。
「椿、起きたんですね。おはようございます」
「ん、おはよー」
昨夜、遅くまで語り合っていたせいで、眠気がすごい。シャキッと起きられる男性陣が羨ましい。
私は再び引っ付きそうな瞼を無理矢理開け、軽く身支度を済ませると、外の伊吹へ声をかけた。
「おはよう、伊吹くん。朝から元気だね」
「おお、おはよう。すまねぇ、起こしちまったか? まだ寝てても良いんだぜ?」
木刀を下におろし、汗を拭う伊吹の姿は中々様になっている。
私はゆるりと首を振った。
「大丈夫。いつも、このくらいに起きてるから」
「そうなのか?」
「うん」
なるべく人気の無い時間に動く為に、道中は結構早起きだったのだ。
正直、今日はまだ眠っていたいけれど、わがままは言えない。
「分かった。じゃあ、稽古は切り上げて飯にしよう。それが終わったら、畑に行こうぜ!」
「昨日言ってたやつだね?」
「そうだぜ、よろしく頼むな!」
「任せて」
水鉄砲や水刄を上手く的に当てるまでに、どれだけ時間がかかったことか。それに比べれば、水撒きくらい造作もない。
……そう、思っていた時もありました。
朝食を食べ終え、連れて来られた小屋の裏。
木々の隙間を抜けると、そこには、体育館の二倍程はありそうな、広大な田畑が広がっていた。
「マジか」
「魔鹿?」
不思議そうに聞き返した伊吹に、慌てて何でもないよと返す。
何でもなくはない、予想外の規模に思わず目を疑った。安請け合いした事を、若干後悔もした。
いや、だってさ。子供一人が耕す畑なんて、もっと小規模なものだと思うじゃん。まあ、自力で難しいから、人手を頼んだんだろうけども。
「土がえらく乾いていますね? 水田はもっと酷い、干ばつですか……」
紫白の声に視線を移せば、そこには確かに乾いて白っぽくなった土壌があった。
よく見ると、植えられている野菜の葉や、猫じゃらしのような穂も萎れ、元気が無い。
田んぼは、水が干上がりかけていた。
「このところ、日照りが続いててさ。水をやっても、やってる側から乾いてくんだぜ? 笑っちまうよ。川の水も少なくなって、用水路に入る水も充分に確保出来ないんだ」
伊吹は苦笑すると、真面目な顔で私の方を見た。
「あんたの術で、どうにか出来ないか? 一時しのぎでもかまわねえ。頼む、この通りだ」
「も、もちろん、大丈夫。任されました! だから、頭とか下げないで」
伊吹が勢いよく頭を下げたので、慌てて了承する。
元々、そうする気で来たんだから、今更やめるとは言わないよ。
「ありがとな! もうすぐ収穫できる野菜が多いんだ。あんたが水やりしてくれたら、きっと無事に食べられるぜ!」
礼を言いながら笑顔を浮かべた伊吹に、紫白が伺うように声をかけた。
「少し、良いですか?」
「ん、どうかしたか?」
「いえ、こんな規模の田畑、貴方だけのものではないでしょう? 僕達はなるべく、他者に霊力持ちだと知られたくありません。了承した手間、悪いんですが……」
続く言葉を遮るように、伊吹が言う。
「心配しなくても、大丈夫だぜ。今ここを世話してるのは、オレだけだ。皆、神様に縋るので忙しいのさ」
馬鹿にするような、怒りのこもった声色は、爽やかに笑う彼に似つかわしくない。
事情の分からない私達は何も言えないけれど、少しの手助けくらいは出来る。
「分かった。伊吹くんもこう言ってるし、良いよね、紫白?」
「そうですね。一応、人が来ないか警戒しておきます。椿は気にせず、水をあげて来て下さい」
「うん!」
私が伊吹に近付くと、彼は居住まいを正した。
「どこからやったら良い?」
「あ、ああ。じゃあ、田んぼの方から頼む」
伊吹はそう言うと、普段通りの笑みを浮かべた。彼の後に着いて、田んぼの前まで移動する。
「どのくらい水入れたら良い? 満たん?」
「そうだな。今の時期はやり過ぎても駄目なんだが、少ないと干上がるし……」
伊吹は少し考えると、稲の下、三分の一辺りを指差した。
「じゃあ、あの辺りより、気持ち多めで頼む」
「了解、じゃあ水入れるね」
田の方へ手を掲げ、なるべく大きな水球を思い浮かべる。
全体に水が行き渡るイメージで、ぐっと手に力を込めた。
「田に水を注げ!」
途端、田目掛けて、水が勢いよく流れ出す。
勢いが良すぎて転びかけたが、なんとか踏みとどまった。
術の発動は一発で決められたものの、田んぼ中に水を行き渡らせるには、まだまだ時間がかかりそうだ。
しばらく無言で水を注ぎ、ふと隣を見れば、伊吹がじっとこちらの様子を見ていた。
「あの、伊吹くん。そんなに眺めてても、多分、面白いことないよ?」
「充分面白いぜ! 珍しくて、すっげーよ。オレにはできないことだ」
「そ、そう……」
ドパドパと水が土に叩きつけられる音だけが、辺りに響く。
伊吹はなおも、穴が空くほど私の手元を見つめていた。
……やりづらい。
「ごめん、伊吹くん。まだ時間かかりそうだから……」
遠回しに一人にしてくれと言えば、伊吹が「お、そうなのか」と立ち上がる。
そして、伸びをしながら軽やかに告げた。
「ならオレ、今の間に、巫女に空いてる時間あるか聞いてくるぜ。あ、畑の方は土が湿る程度の水やりで頼むな。んじゃ、よろしく!」
颯爽と駆けていく背を見送りながら、私は今の言葉を反芻していた。
え、桜華ちゃんのアポ取り……? つまり、もう会うかも知れないの!? やばい、緊張して来た。いくら心の準備をしていても、緊張と不安は拭えない。そもそも、何から話すよ?
蛇口のように水を出しながら、悶々とした時間を過ごした。
******
「はぁ、やっと終わった……」
大量の術を使用したせいで、身体が気怠い。
身体を伸ばしていると、紫白の声がすぐ隣から飛んで来た。
「お疲れ様です」
作業が終わった事を知り、いつの間にか戻って来ていたようだ。
「うん、ありがとう」
色の変わった畑から顔を上げると、木々の奥にこちらへ走ってくる伊吹の姿が見えた。
「ごめん、遅くなった! あ、水やり、終わったのか。ありがとうな」
息を切らせながら辺りを見渡した伊吹に、「どういたしまして」と返し、先を促す。
「それで、どうだった?」
緊張しつつ訪ねれば、伊吹は少し眉を下げた。
「いやー、それがさ。やっぱ、今すぐは難しいって。でも、夜なら空いてるかも知れないらしいぜ。構わないか?」
ダメ元で夜に訪問か……。断られるより、全然良い。少なくとも、会ってくれる気みたいだし。
「私はそれで大丈夫!」
「昼間に行くより目立たないでしょうし、僕も構いませんよ」
紫白の方を見て、軽く頷く。
「よし、なら決まりね。じゃあ、夜は一緒に行かせて貰えるかな?」
「分かったぜ。案内は任せてくれよ!」
伊吹がにかっと笑い、拳を胸に当てた。
頼もしい限りだ。
後は、夜、桜華ちゃんが暇なことを祈ろう。
「そしたら、夜までに、紫白さんへの頼み事も済ませとかなきゃだな。付いて来て貰えるか?」
「ええ、良いですけど、何処まで行くんですか?」
「ちょっと、そこの川まで」
「川は……」
人目が気になる、そう言いたいのだろう紫白の言葉を察して、伊吹が苦笑した。
「大丈夫だぜ。川辺も、村人は寄りつきたがらないから」
そう言う伊吹に連れられ、川辺まで出る。
ずんずん進み、ある石の前まで移動すると、彼が止まった。
そこには昨日見た、大小様々な大きさの、歪な形をした石があった。
「これは……」
伊吹が切り出した石だったのか。とはいえ、一体何の為に?
疑問を浮かべる私たちを見て、伊吹が照れくさそうに口を開く。
「その顔やめてくれよ、恥ずかしいだろ。これでも、墓のつもりなんだ。不器用なりに、頑張って作ったんだぜ? ……不恰好なのは認めるが」
「どうして、こんな場所に?」
川辺に墓場というのは、あまり聞かない。干ばつで水の減っている今は問題なくても、大雨とかで氾濫したら流されるかも知れないし。
それに、何かを埋めている感じもしない。誰の弔いなのだろうか。
やや早口に告げられた言葉を訊き返せば、伊吹は静かに頷いた。
「この川さ、人が死んでるんだ。一人や二人じゃない。オレが知らないだけで、きっと何十人……いや、何百人も、生贄にされて」
その話に、ヒュッと息を飲む。
彼は、知っているんだ。生贄の儀式のことも、私のように死んだ子供が大勢いることも。
……って、あれ? いやいや、私はこの世界では死んでないよ。なんでそう思ったんだろ?
一瞬、自分じゃない誰かの考えが浮かんだ気がしたが、そんな訳ない。
疲れているんだと思い直して、続く独白のような伊吹の言葉に、耳を傾ける。
「苦しかったろうに、生きたかったろうに。村の平和の為に、殺された奴らがいる。……いや、オレらが殺したんだよ。なのに、村の大人達ときたら、"神への供物に墓なんて建てるな、罰が当たるぞ"って弔いもしない」
「だから、ここへ?」
今まで黙って話を聞いていた紫白が、神妙に訊ね、それに伊吹が頷いた。
「墓は、思い出す場所だ。人の死を悲しみ、悔やむ場所だ。……罪悪感から目を背けて、風習だからと思考を止めるくらいなら、生贄なんて、今すぐ辞めるべきなんだよ。じゃなきゃ、死んでいった奴らが報われないぜ」
伊吹は真っ直ぐ紫白の方を見ると、強い意志を秘めた声で言う。
「いつか、必ず。オレは、こんな馬鹿げた風習を無くす。この墓は、決意の標でもある。だから、紫白さん。格好いい墓を一つ、頼むぜ!」
「……きっと、難しいですよ。一度根付いたものは、そう簡単に消えません」
「なに、やってやるさ。絶対に!」
「そうですか。なら、頑張って下さい」
紫白は素っ気なくそう返したけれど、口元にはわずかに笑みが浮かんでいた。
言葉には出さなくても、きっと彼に期待しているのだろう。
紫白が石に手を掛けたので、今度は私が周囲を見回す役を買って出た。
村人は来なくても、昨日のように妖が襲ってくる可能性は否めないからだ。
「焔よ、岩をも溶かす灼熱の力を此処へ」
紫白は一際大きな岩を選び、墓へと加工するつもりらしい。
一瞬の赤い発光の後、石が溶ける音がする。
私はその音を聞きながら、近すぎず遠すぎない距離で、しばらく辺りを見渡していた。
二、三時間は経っただろうか、日が頭上を少し通り過ぎた頃、音が止まった。
伊吹が興奮気味に、紫白へ礼を告げている声が聞こえる。
戻って見ると、現代の四角い墓とは違い、何段か石を積み上げた古風な墓が建っていた。
時代劇とかで、見た事ある気がするぞ。
「紫白さん、やっぱすげーな。才能あるぜ。石の表面なんてつるつるだし、墓職人になれるんじゃないか?」
「墓職人はちょっと……。ああ、椿。見回りありがとうございました」
「お! じゃあ、せっかく墓が出来たことだし、皆で黙祷しようぜ」
伊吹に促されるまま、墓前にしゃがむ。
そして、各々、祈りを捧げ始めた。
隣を見れば、紫白も熱心に目を閉じている。
……紅さんのことを、思い出しているのだろうか。
私も静かに目を閉じ、過去、生贄にされた者達へ想いを馳せようとした。
ーーその時だった。
突然、意識が引っ張られるような感覚がして、ハッと目を覚ませば、見知った水の中に居た。しかし、いつもと違い、息が出来る上、動けるらしい。
「えっと……?」
まさか、私、あんな一瞬のうちに寝落ちたの? 寝不足とはいえ、流石にないわー……。
思わず自己嫌悪に浸っていると、ふと、人の気配がした。
「だ、誰?」
後ろを振り返り、目を見開く。
そこには、"私"が居た。
生贄にされたあの日と同じ着物を着た"私"が、無表情にじっとこちらを見つめている。
どうしたら、いいのだろう。
戸惑いながら、声をかけた。
「あの……?」
"私"は少しだけ目を見開くと、こちらへ近づき、私に触れそうで触れられない距離で止まる。
そして、"私"の口が微かに動いた。
ごぼり。"私"の口から、泡が漏れる。
私とは違い、"私"は声を出せないようだ。
音は聞こえない。けれど、私は何故だか、"私"の言いたい事が分かった。
『いきたい』
"生きたい"なのか、"行きたい"なのか。分からない。ただ、どちらも正しいと、直感的に思う。
"私"の表情は変わらない。
でも、この子はきっと泣いている。
気づけば、口からするりと言葉が溢れた。
「良いよ、いこう」
自然と"私"へ向かい、手を広げる。
"私"は、口元に覚えたてのような、ぎこちない笑みを浮かべると、私へ手を伸ばし、ぎゅっと抱きついた。
『ありがとう』
"私"の唇が、もう一度ゆっくり言葉を紡ぐ。
そして、"私"は、そのまま私の中へ吸い込まれるように溶けて、消えた。
もう一度目を開ければ、そこはさっきまで居た川辺だった。
伊吹と紫白はまだ黙祷を捧げており、時間もほとんど経っていないようだ。
今のは、やっぱり、白昼夢とかいうやつだったのかな……。でも、それにしてはリアルで、まだ腕の感触が残っている。
ぼんやり宙を眺めていると、顔を上げた紫白が、私を見てぎょっとした。
「つ、椿……? どうして、泣いているんですか?」
「え……?」
言われて目元に手をやれば、確かに水気を帯びていた。
自分の意思に反して流れる涙に、動揺を隠せない。
「おいおい、どうした!?」
黙祷を終え、私の様子に気づいた伊吹も慌てだす。
「わ、分からない。何でか、出て来るの。悲しくなんてないはずなのに……」
この世界に来て初めて零した涙は、勝手に溢れて、流れて、とどまることを知らない。
おろおろする二人をよそに、私は訳も分からないまま、目が腫れ、涙が枯れるまで泣き続けた。
そして、この日を境に、私が川の夢を見る事は無かった。




