第三十一話「椿の簪」
「よし、準備オッケー」
姿鏡の前でくるりと回れば、纏った上着がふわりと舞う。
鏡に映るのは、旅装束姿の十歳くらいの少女。
私は鏡に近づき、独り言ちた。
「しかし、ひっどい顔……」
近づいた鏡の先、映る私の目元には、深い隈が刻まれている。
神社参拝後も、案の定、悪夢は無くならなかった。
翌朝、皆に報告してみたところ、やはり神様らしき人の助言に従ってみては?という結論になり、あっと言う間に出立の日取りが決まり、旅に必要な物を買いに行き、現在に至る。
ちなみに、この間わずか二日。
皆……、とりわけ紫白と福兵衛の行動力には、驚かされるばかりだ。
「椿、準備は出来ましたか?」
障子越しに声がして、私は用意してもらった笠をかぶり、荷物の入った風呂敷を掴んでから声の方へと向かう。
障子を開ければ、私と同じく旅装束姿の紫白が居た。
「ごめん、遅かった?」
「いえ、僕が早く来たんです。何か、お手伝い出来ることが無いかと思って」
「ううん、大丈夫。もう出られるよ。紫白も皆のご飯の準備とか、大丈夫?」
「朝食の支度の際に、昼食以降の下拵えもしましたから、今日の分は心配要りません。明日以降は、音次郎が代わってくれますしね」
「そっか。……最近、手伝えてないし、なんか色々ごめんね?」
このところ、連日の睡眠不足で寝覚めが悪く、朝食の支度を手伝えないことが多かった。
これから更に気苦労をかけるだろうと思い、そう口にすれば、紫白は慌てたように顔の前で両手を振る。
「そんな! 気にしないで下さい。むしろ、どんどん頼ってもらって構いません!」
「うん、ありがとう。道中、頼りにしてる」
紫白が、驚いたように目を見開いた。
「どうかした?」
「……いえ、少し意外で。てっきり、何時もの様に断られるとばかり思っていたものですから。ふふ、嬉しいな……僕、頑張りますね!」
今度は私が驚く番だった。
なるほど、確かに最近は気恥ずかしくて、紫白の申し出を過剰に断っていた気がする。
彼に頼るのは、山で町へ行きたいとごねた時以来かも知れない。
逆に言えば、恥ずかしさも吹き飛ぶくらい、山へ戻る不安があるということなのだが……。
自分が殺害されかけ、また、妖だと討伐されるかも知れない場所。
そんな所へ行くのに、恐怖を持たないなんて人は、それこそゲームの勇者か主人公くらいだろう。
「では、行きましょうか」
紫白が、やんわりとこちらに手を差し出す。
私は覚悟を決めて、その手を取った。
「行くのかい?」
玄関へ向かう道中、居間の前を通りがかると、福兵衛に声を掛けられる。
「ええ、今から向かいます。早く戻れると良いのですが……」
「神の助言で成り立つ旅だ。なんとも分からぬな。儂もついて行ければ良かったのだが」
「仕方ないよ、お仕事なんでしょ?」
私の言葉に、福兵衛は眉根を下げた。
そう、今回福兵衛は原稿の締め切りが近いそうで、旅には不参加なのだ。
残る二人はというと……。
廊下を走る足音が聞こえ、音の方を振り返れば、私達に気づいた忍が近づいて来ていた。
追って、音次郎もついて来る。
「ちょっと、出掛けるなら声くらい掛けてくださいよ。水臭いっすね〜」
「ごめん、二人とも練習に集中してたみたいだから」
「そんなの、気にしなくていいのに。オイラ、これでも着いていけないの、悪いなって思ってるんすよ? 紫白だけに任せるとか、正直不安で」
ちらりと忍の胡乱げな視線が、紫白に突き刺さる。
紫白は心外だと言わんばかりに、顔をしかめた。
「こう見えても僕、山の生活は長いんです。旅についての知識もあります。つまり、安全安心安楽な旅路は、約束されたも同然。貴方に心配される謂れはありません」
「この前椿ちゃんと喧嘩してたのは、どこのどいつっすかね? ……あーあ、母ちゃんの許可さえ降りればな〜。絶対着いて行ったのに」
忍も留守番組だった。
都を離れる許可が、降りなかったのだ。
大事な跡取り息子を、あまり離れた場所へやりたくないという、親心だろう。
「ふっ、親の許可がないと動けないなんて、やはり、まだまだ子供ですね」
「はっ、そういう台詞は、紫白がもっと自立してから言うと良いっす」
紫白が薄っすらと笑えば、忍が鼻で笑う。
バチバチと目に見えない火花が飛び散るのを感じた。
案外、喧嘩するほどなんとやら、というやつなのかも知れない。
「椿ちゃん、紫白さん。家事はぼくに任せて、安心して行ってらっしゃい。もちろん、ちゃんと稽古と両立させるよ」
こちらの様子を伺いながら、遠慮がちに告げた音次郎を見て、私と紫白は笑みをこぼした。
忍も興が削がれたように、表情を崩す。
「はぁ……。紫白、しっかり椿ちゃんのこと守るんすよ? 何があるか分かんないけど、椿ちゃんもあんまり無茶しないようにね」
ひらひらと振られた手に頷き返す。
紫白は「言われなくとも」と悪態を付いていた。
「道中気をつけてな。少ないが、これも持って行きなさい」
福兵衛から差し出されたのは、小さな巾着袋で、ずっしりと重みがある。
中からはカチャリと金属が擦れる音がした。
中身を見ずとも、相当な金銭が入っているのだと予想できる。
「こんなに持っていけないよ! この服も買って貰ったのに……」
「そうですよ。僕にだって蓄えはありますから、全て賄って貰わなくても大丈夫です」
私と紫白は遠慮したものの、福兵衛は頑として譲らない。
「二人とも、儂の可愛い子供みたいなものなのだよ。助けてやりたいと思うのは、当然だろう? 良いから、受け取りなさい」
「……全く。いつぞや、子離れ云々言ってましたけど、実際子離れが必要なのは、福兵衛の方なんじゃないですか?」
「はは、そうかも知れぬな」
私は微笑んだ福兵衛を見ながらお礼を告げて、巾着袋を握りしめる。
こうして私達は三人に見送られ、西の山へと旅立ったのだった。
******
早くもギラギラと輝き出した太陽が、肌を焼く。
うだるような暑さの中、人通りの少ない街中を紫白と並び立ち歩いた。
紫白の術を使えば、山まで一瞬だと思ったのだが、人に見られると不味いので、街中では使えないらしい。
それに、噂の聞き込みもしないといけなかった。
「椿、道中気つける事、覚えていますか?」
「分かってる。人目につく場所で術は使わないし、聞き込みは必要最低限にする。あと、山に住む村人とはなるべく接触しない……だよね?」
「ええ、そうです。都に来てから、人間が皆一概に危険でないことは分かりましたけど、あの山の村人達は例外です。十二分に気をつけて下さいね」
紫白の迫力に気圧されつつ、「分かった」と呟いた。
「でも、とりあえずは誰かに話を聞いてみないとね」
数を絞るなら、西の山に近い場所で話を聞くのが一番効率的だろう。勿論、女神の話を信じれば、だが。
山の麓まで向かうと、田畑が広がっていた。
ぽつんと一人、農夫らしき人も居る。
私はその人物に狙いを定めて、笠を深く被り直しながら近づき、話を聞いた。
年老いた農夫曰く、『巫女様なあ。おらは詳しぐ知らんげんど、この先にいる行商人のやつがなんが話しでだ気がすんぞ』とのことだった。
私はその話を紫白にも聞かせながら、行商人がいるという場所へ急いだ。
真っ直ぐに田んぼ道を進んで行くと、身振り手振りで道行く人を呼び止めている、行商人らしき人影を見つけた。
その周りには、商品を囲むように、数人の女性がいる。
「紫白、多分あの商人だよ。話、聞いてみよう」
「そうですね」
行商人の近くへ行けば、彼は満面の笑みで私達に声を掛けて来た。
「そこのお兄さん達! これから山へ行くのかい? なら、道中の安全祈願に、熊避けの鈴と陰陽師直筆加護札なんてのはどうだ。今なら、お安くしとくよ!」
すると、周りにいた女性達が僅かに騒ついた。
信じられない者を見た、という視線が私達に突き刺さる。
彼女たちは、何に驚いているのだろうか?
「あ、いえ、そういうのはいらないんです。ちょっとお話を伺いたくて……」
不思議に思いながらも、そう商人に話し掛けようとした時、気の強そうな女性が一人声を上げた。
「あなた達、山に用事があるの? 悪い事は言わないから、この山には入らない方が良いわ」
続けて、やや大人しめな女性が、おっとりと言葉を投げかける。
どこか、紫白を見つめる視線は熱っぽい。
「そうですよ〜。最近、妖が凶暴化しているので、危ないです。……それより、宜しければ少しお話しません? 私達、すぐ近くの家の者なんです。お茶でも入れますよ?」
そして彼女はさり気無く紫白の腕に自身のそれを絡め、その豊満な胸を押し当てた。
「あ、あの……?」
紫白が困惑していると、二人、三人と近くに居た他の女性達も、きゃっきゃと姦しく彼へ声を掛けていく。
段々、嫌悪感を露わに眉を顰め始めた紫白を見て、首を振る。
人との接触は最低限、とはいえ揉め事を起こす方が不味い。
……それに、彼女たちも情報源なのだから、無下にしては行けない。
「私がこのおじさんと話してるから、紫白はお姉さん達と喋って来て良いよ」
「えっ、ちょと、椿!?」
「さあさあ、妹さんもこう言ってることですし〜」
「は? 彼女は、妹では……っ!」
紫白が彼女達に引きずられて行くのを無情に見送って、私は商人へ視線を戻した。
「やっぱり、男は顔なのかなあ……。俺も美男子なら、もっと大成してただろうか……」
「……いや、ちゃんと性格重視の女性も居ますよ。それに、商人さんなんだから、大事なのは顔より商才なんじゃ……?」
紫白達の方を見ながら、しみじみと呟く商人を憐れに思いそう言えば、彼はパッと顔を輝かせる。
「お嬢ちゃん、良いこと言うな〜。よし、気に入った! 特別に半額に負けてあげよう」
「あ、いや……すみません。私、それより聞きたいことがあって。おじさんは、"神の声を聞く巫女"って聞いたことありますか?」
そう問えば、彼は目を丸くした。
「お嬢ちゃん、耳が早いね。何処でそれを?」
「ある人から。でも、居る場所までは知らないんです。おじさんは知ってる?」
「……会いに行く気かい?」
「はい、用があるので」
商人は、少し考えた後に口を開く。
「この先、三つほど山を越えたところにある、川近くの村だよ。さっきはああ言ったが、ここの山越えは、正直辞めた方が良い」
「妖が出るからですか?」
「それもあるが、このところ地震や土砂崩れなんかの災害も多くてな。何年か前、村一つ土砂に潰されてる」
地震……? そんなの都では全く感じなかったが、局所的なものなんだろうか?
災害が多いのも初耳だった。以前住んでいた時は、平和だった記憶が朧気にあるのだが、数年でそんなに変わるものか。
「でも、おじさんはそんな山に入ったのに、無事だったんですよね?」
「そりゃあれだ、おじさんは強いからな! こう見えて、昔、剣をかじったこともある。後は運が良かったのさ」
「なら、私達も大丈夫……だと思います」
土砂崩れ等には気をつけるとして、純粋な武力なら問題ないだろう。
紫白は、長い間、この山で暮らしていた。
実際に戦っているところはゲーム内でしか見た事がないけれど、ラスボスに据えられるくらいだから、おそらくかなり強いはず。
ちらりと紫白の方を見れば、彼は女性達に囲まれ、道の真ん中に居た。
なんとか、家には連れ込まれずに済んだらしい。
思いの他、会話が弾んでいるようで、紫白は女性達に笑顔を向けていた。
ーーチクリ。
何故か、突然胸の奥が痛んだ。
不可解な痛みに首を傾げていると、商人が笑う。
「なんだ、あっちの兄さん、そんなに強いのか。なら、いらない心配だったかな?」
「いえ、ご心配ありがとうございます」
「まあ、お連れさんが戻って来るまで、この辺でも眺めててくれよ。うちの商品は、良いもんばっかだぞ!」
「あはは。じゃあ、そうさせてもらいますね」
促されるまま、時間を潰すべく品物を眺めていると、ある簪に目がとまる。
それは、精巧な赤い椿の花が付いた簪だった。
花の額付近には、小さな石の散りばめられた細い鎖状の装飾が連なり、さらさらと音を立てている。
手に取って空にかざせば、ガラスのように透き通った花びらが光を反射して輝き、その美しさに目を奪われた。
「それ、綺麗だろう? 割れにくい特殊な鉱石を加工して作ってあるんだが、それを作れる職人は殆どいなくてな。稀少な品だよ」
そう言われると、益々手放し難い。
だが、今持っているお金は旅の資金で、個人的に使うのは憚られた。
悩んでいると、頭上から声が落ちて来る。
「それを、頂けますか?」
「あいよー、毎度あり!」
見上げるといつから戻っていたのか、すぐ側に紫白が立っていた。
「し、紫白! いいよ、見てただけだから。……さっきのお姉さん達は?」
「巫女に関する情報を持っていなかったので、撒いて来ました。それより、椿。簪、僕に買わせて下さい。これでも、貴女に贈り物が出来る程度には稼いでるんですよ?」
「いや、でも。悪いし」
「悪いと言えば、僕の方です。貴女、僕が髪留めを壊して以来、こういうの付けていないでしょう?」
忍にもらった髪留めは、現在大切に部屋に保管してある。
貰い物は大事にする主義だし、あの時は怒ったが、もう過ぎた話だ。
紫白が気にする必要は無い。
「店主、おいくらですか?」
「千文……と言いたいところだが、五百文で良いよ。お嬢ちゃんと約束したしな」
止める間もなく、商人が軽く笑って金銭を受け取った。
そして、簪を私の前に差し出す。
私は商人と紫白の顔を交互に見て、恐縮しながら受け取る他なかった。
「椿、良ければ、簪を挿して見せてくれませんか?」
「わ、分かった」
私は周囲に商人以外の人がいない事を確認してから、笠を取る。
笠は紫白が受け取ってくれたので、有り難く両手で髪を抑えながら一纏めにし、簪を通した。
「どう、かな?」
「……思った通りです。やはり、貴女の黒髪に良く映える」
……毎度の事だが、紫白のこの笑顔は心臓に悪い。
私は、ぎこちなく御礼を告げた。
首元に風を受けながら、行商を後にする。
紫白と情報を共有したのち、山道へと入った。
去り際、商人は最後に一つだけ、忠告をしてくれた。
曰く、『川沿いを行け。死神の森には近づくな』ということだった。
「死神の森……って、紫白知ってる?」
雑草を踏分けながら問いかければ、紫白はそういえば、と口にする。
「貴女には言ってませんでしたっけ? 僕が住んでいた森一帯を、人間達はそう呼んでいるんですよ。あの場所、昔から、立ち入ると命を吸い取られるって評判なんです」
「え、怖。何それ、聞いてない」
紫白よ、そんな場所で私と永住する気だったの?
昔の彼の発言を思い出し、ぞっとした。
とんでもねえ。やはり、あの時町へ行きたいと言って正解だった。
顔を強張らせる私へ、紫白が穏やかに告げる。
「そんなに怖がらなくても、大丈夫ですよ。少なくとも、僕も貴女も殺されていない。おそらくですけど、霊力を持つ者は死なないのでは無いかと」
「そ、そうなの?」
何百年も森で生きた紫白だから、そう自信を持って言えるのだろう。
私は、数日しか過ごしてないから、自信は持てないし、めちゃくちゃ怖いよ。
頼むから、森には入らないでくれ。
そんな願いも虚しく、紫白はとんでもないことを口にした。
「今日は久しぶりに、我が家に立ち寄りましょう。明日からのことを考えても、ちゃんと眠った方が良いですし」
「ま、待って。紫白の我が家って、森にある木の虚だよね? 今日は宿とか……そういうのに泊まりたいな、なんて」
「椿、いけません。気の置けない人間が無造作に居る場所で眠るなんて、危険です。大体、こんな僻地に宿はありませんよ?」
分かってる、分かってるけどさ!
渋る私を、突然の浮遊感が襲う。
「ひぇ……!」
抵抗する暇もなく、急にひょいと抱きかかえられ、情けない声が漏れた。
「人の目も無くなりましたし、あの森までなら術で行けそうですね」
「紫白、ちょっと待って。紫白」
「大丈夫、大丈夫。舌を噛まないよう、口は閉じていて下さいね。では行きますよー、倍加俊歩!」
「待ってって、言ってるでしょおぉぉーーっ!」
山には私の叫び声が木霊し、簪の飾りがしゃらしゃらと鳴った。




