閑話「金の瞳が映すもの」後編
椿との二度目の再開、約束のクッキーを渡せば、彼女は随分と喜んでくれた。
美味しい、誰かにそう言って貰ったのも、幼いあの日以来だ。
それだけでも嬉しかったのに、彼女はぼくの悩みを解決するため、わざわざお守り代わりの石を持って来てくれた。
こんなに良くしてもらってるのに、ぼくは……。
彼女を騙していることに、だんだんと罪悪感が募っていく。
せめて、彼女の気分を損ねないよう、気をつけよう。
そう思った矢先、ふと椿の方を見れば、表情が消えていた。
何か、やらかしてしまったのか。
そう思い、焦るが、彼女はぼくの呼び名を考えていただけだと分かり、ほっと一息つく。
人の顔色を必要以上に伺い、おどおどしてしまうのはぼくの悪い癖だ。
ぼくは、自分を戒めた。
その後、椿と他愛ない話に花を咲かせていると、突然男の子が現れ、咄嗟に彼女の陰に隠れる。
聞けば、彼は椿の友人なのだという。
なら、仲良くするべきだろう。
だけど、長年染み付いた恐怖は消えなくて、ずっと怯えた態度をとってしまった。
気まずい雰囲気の中、遠くからぼくを呼ぶ女将さんの声がして、これ幸いとその場から逃げ出す。
「音次郎、休憩中に悪いねえ。急にお客から指名が入って……、どうしてもあんたを出せって言うもんだからさ」
「いえ……」
女将の言葉に曖昧に返す。
唐突に去ったぼくを、彼女達はどう思っただろうか。
悶々としながら店に戻り、指名された相手の元へと向かう。
「……茜音です。お待たせ致しました」
「茜音! 待ってたよ」
そう、嬉しそうにぼくを出迎えた相手は、最近よく来る外つ国の男性だ。
ぼくがするのは主に配膳とお酌、望まれれば箏や舞をするくらいで、先輩達のようなことはまだしていない。
ぼくが怯えているのを知って、女将がさせないように取り計らってくれているのだとか。
だから、今日もきっと大丈夫。
自分を奮い立たせながら、男の側へと向かう。
まとわりつく、熱を帯びた視線が気持ち悪い。
けれど、女性らしく振る舞うのは、芸をよりよくするため。
今この瞬間も、芸の肥やしになっているのだ。
仕草に気を配りながら、慎重に話をしていると、男がぼくを更に側へと呼び寄せた。
距離が近づき、緊張が走る。
手をあげられるわけではないと、頭では分かっている。
けれど、動機が酷く、口もうまく回らない。
会話は、昨日貰ったバターの話題へと移っていく。
男はクッキーが食べられなかったことに、落胆したらしい。
「私の分はないのかぁ……。それは、残念だ。でも、茜音は食べたんだよね……なら、こういうのはどうだい?」
次の瞬間、男に組み敷かれた。
身体に男の体重が乗り、熱い吐息がかかる。
口からは、細い悲鳴が漏れた。
これから行われる行為を想像し、生理的な嫌悪感に吐き気がする。
助けて、そんな言葉が口を突いて出かけた。
けれど、誰に助けを求めれば良いというのか。
ここは、こういう店。
助けを求めた所で、きっと誰もーー。
男の口が近づき、諦めかけたその時、轟音と共に天井が降って来て、男の上へ直撃する。
突然の強い衝撃に、意識が遠のいていく。
視線の先に、この場にいるはずのない椿の姿が見えた。
「どうして……?」
ーーどうして、きみはまた、ぼくを助けてくれるの?
そう紡がれるはずだった言葉は、声にならなかった。
二度も助けられた感謝の気持ちを彼女へ抱きながら、ぼくの意識は闇へと消えた。
******
「ーー音次郎くん。音次郎くんや、聞いておるのか?」
「えっ……は、はい! なんでしょうか?」
福兵衛さんの声に、ぼくの意識は現実に引き戻される。
「ぼーっとしていると、危ないぞ。何か考え事か?」
「あ、いえ。ちょっと、急に色々決まってしまって、頭が追いついていないだけです。……すみません」
「謝ることなどないさ。儂も、つい勢いで啖呵を切ってしまった。長年暮らした店なのだろう? あのような形で辞めてしまう事になるのは、やはり、嫌だっただろうか……?」
「まさか! むしろ、感謝してもしきれないくらいです……!」
慌てて答えれば、福兵衛は表情を緩めた。
あの日、意識を失ったぼくは、椿達が暮らす家に連れて来られた。
それから色々あって、椿にぼくが男だということがばれた。
しかし、彼女は全く軽蔑することなく、そればかりか、友達になろうと言ってのけたのには、本当に驚いた。
その後、今後どうしたいのか皆に訊かれ、悩むぼくの背中を押してくれたのも彼女だった。
諭されたぼくは、本格的に歌舞伎座へ弟子入りする事に決め、彼女とこの福兵衛さんの計らいで、店と縁を切ることに成功。
今は、福兵衛の知り合いだという一座の所へ向かっている。
「……でも、あんな大金、本当にぼくのために使って良かったんですか?」
「うん? 何も問題ないと思うが。それより、さっきから堅いぞ。気軽に話そう。ついでに、儂のことは、福ちゃんと呼んでくれて構わない」
「え、いや、さすがにそれは……」
ほけほけと笑う彼は、本当に何も気にしていないらしい。
さっき福兵衛と店に戻り、歌舞伎座へ弟子入りするため店を辞めると伝えたところ、案の定旦那は、烈火の如く怒り反対した。
『今まで養ってやったのは、誰だと思ってるんだ! 今更、辞めるなんて認められない!』
『あ、あんた……。音次郎、お客が嫌だったからそんなこと言うんだよね? 嫌がるあんたに、あんなことさせてすまなかった。もうさせないように、旦那には言い聞かせる。だから、もう一度、あたしと一緒に役者を目指そう?』
口ごもるぼくを助けるように、福兵衛が言う。
『ふむ。そうは言うが、この店は暖簾分けされた店なのだろう? 本店と違って一座も持っていないと聞いた。この店から、役者を目指すのは難しいのではないか?』
『それは……』
図星を指されたように、女将の口が止まる。
『儂なら、この子を一座に入れてやれるぞ』
笑みを浮かべた福兵衛へ、旦那が噛み付く。
『だから、どうした! こいつは絶対に辞めさせん。だいたい、あんたさっきから、何なんだ!』
『ふむ。今現在のこの子の保護者、とでも名乗ろうか。儂はこの子を辞めさせたい。亭主、どうすればこの子を手離す?』
『はぁ!? 訳の分からんことを!』
語気を荒げる旦那様の目の前へ、福兵衛が持っていた風呂敷包を差し出した。
『百両だ』
『は?』
『百両。これで、この子と手を切ってはくれぬか』
福兵衛は畳み掛けるように言葉を続け、風呂敷を解く。
中には小箱が入っていて、蓋を開け差し出されたそれを見て、旦那は顔を青くした。
次いで、揉み手をしながら、伺うように福兵衛を見る。
『こ、こんな大金、本当にいいんですかい?』
『構わぬ。それで、この子は店を辞められるのか?』
『も、勿論でさぁ。何処ぞのお偉方だとはつゆ知らず、先程はとんだご無礼を。今後はうちの店ごと、どうぞ贔屓に』
『嗚呼、気が向いたらな』
そして、ぼくの手を引き、その場を去った。
女将は悔しそうにこちらを見ていたが、旦那の決定と大金を渡されたために、口を挟めないようだった。
今思い出しても、鳥肌が立つ。
あんな大金、普通ぽんと払えるものではない。
ぼくは、恐縮しながら口を開いた。
「……あのお金は、一生かかってでも絶対に返します。本当にありがとうございました」
「気にしなくても良いと言うのに……。でもまぁ、そうかい? なら、まずは役者にならねばな。さぁ、着いたぞ」
連れて来られたのは、見覚えのある大きな一座だった。
初めてぼくが歌舞伎を見た、あの場所。
驚きながら、促されるままに楽屋へと足を進める。
「尾上殿! 久しいな」
「お、福ちゃん! いつ以来? ひっさしぶりだなー!」
陽気に笑い合い、再開を喜ぶ二人を眺めていると、ぼくの話が振られる。
「さっそくで悪いのだが、ちと頼みがあってな。今、話せるか?」
「まあ、お前さんにはいつも世話になってるし。俺が出来る事なら、手を貸そう。で、どんな話?」
「では、単刀直入に。この子を、お前の弟子にしてくれぬか?」
尾上と呼ばれた青年の視線が、ぼくへと向けられ、背筋が伸びる。
よく見れば、彼はあの日舞台に立っていた、武家娘役の男性だと気づく。
ますます、緊張感が増した。
「ふーむ。器量は良いし、年を重ねれば色気も出そうだが……。お前さん、どうして役者になりたい?」
「え……」
唐突な質問に面食らう。
けれど、答えはすでに持っていた。
ぼくは考えをまとめながら、口を開く。
「……自分を、変えたい。それに何より、あの日見た舞台ーーあなたの舞台のように、誰かの心を動かして、笑顔に出来る人間になりたいと思ったから、です」
そう告げれば、彼は目を丸くした後、面白そうに笑い出す。
「何だ、俺の舞台見てたの? なんか、恥ずかしいなー。にしても、自分を変えたい、ねぇ。はははっ、良いね、気に入った!」
「っ、じゃあ……!」
「でも、芝居の世界は、夢と情熱だけでやれるほど甘くはない。だから、いくら福ちゃんの頼みでも、はいどうぞと、簡単に弟子入りを認める訳にはいかないね」
「そう、ですよね……」
やはり、そんな簡単にはいかないのか。
肩を落としかけたぼくへ、尾上さんが言葉を続ける。
「まあ、話は最後まで聞きなさいよ。簡単には無理だが、弟子入り自体が無理だとはいってないだろ?」
「ほう?」
面白がる福兵衛を横目に、ぼくは彼の話の続きを待った。
「見定める期間を設けたい。具体的に言うと、お前には少しの間、俺のところで基本的な芸の稽古や簡単な雑務をこなしてもらう。それで素質があれば弟子入り、無ければ、悪いことは言わない、役者を目指すのはやめておけ。この条件で良ければ、来週からうちの一座においで」
「是非、お願いします!」
ぼくはその条件に、一も二もなく飛び付いた。
どのみち、弟子入り出来なければ、役者にはなれないのだから、後は頑張るだけである。
尾上さんはぼくを見て笑うと、ぽそりと呟いた。
「……あと、お前さん、人見知りの気があるだろう? いや、男が怖いのかな? どっちにしろ客商売だから、その辺も慣れないとだぞ」
なるべく顔に出さないように気をつけていたが、彼には見破られていたらしい。
驚くぼくに、尾上さんが笑う。
「伊達に人間見てきてないよ。でも、お前さんには結構期待してる。じゃあ、来週またここでな」
「はい、ありがとうございました!」
ぼくは深々と頭を下げた。
「話がまとまって何よりだ。助かったよ、尾上殿」
「まあ、まだ弟子入りは保留だけどな。お礼を言うならさ、福ちゃん、新作の脚本また書いてくれない?」
「うん? いや、今は他の仕事で手一杯なのだよ」
「そう言わずにさー」
賑やかな会話を聞きながら、ぼくは自分が夢への第一歩を踏み出したことを、静かに噛み締めた。
もし、なにも望まず生きていた昔の自分が、将来は夢を抱きながら頑張ってるなんて知ったら、酷く驚くだろうな。
これも一重に、椿ちゃんと福兵衛さんの助力があったから叶えられたこと。
あの日、彼女と出会わなければ、今のぼくは無かったかも知れない。
もし、あの時、あの店から助け出されなければ、ぼくは今頃心に深い傷を負い、更に男性不信を拗らせていたことだろう。
無償の親切は、身内からすら貰うことが難しいと、身をもって知っている。
だから、本当に彼女達には、感謝してもしきれない。
もし彼女達が何か困った時には、今度はぼくが、必ず力になろう。
そう胸に誓って、今日の報告をするべく、椿ちゃんの待つ家へと急いだ。
ーー音次郎は帰った後、さっそく椿の為に知恵を絞ることになるのだが、それはまた別の話である。
※作中の一両は、現代価格で約六〜十万円程度。福兵衛さんは約一千万円をぽんと払ったことになります。




