閑話「金の瞳が映すもの」前編
音次郎視点の話です。
長くなったので、前後編に分けました。
「こんな物作るなと、何度言えば分かるんだ!」
昔、一度だけ父が笑ってくれた、母の手記を見て作った料理が、宙に舞い、床へと落とされる。
皿を薙ぎ払った腕が、今度はぼくへ狙いを定め振り下ろされた。
乾いた音と共に、鈍い痛みが頬に走る。
再び腕を振り上げる父の顔は黒いもやに覆われ、表情は見えない。
「その顔で……そんな目で、俺を見るな!」
頬を、腹を、身体中を何度も何度も殴られる。
ーー痛い、痛いよ。やめて。
そう叫ぶ声は言葉にならず、涙もとうに枯れ果てた。
ぎしり、と足音がして、廊下に目を向ければ、障子の隙間からこちらを見る兄と目が合う。
その瞬間、兄は化け物を見たように顔を強張らせ、急ぎ足にその場を立ち去った。
父の暴行は留まるところを知らず、段々と意識が遠のいていく。
次に目覚めた時には、周りには誰もいなかった。
残されたのは、床に散らばった料理だけ。
ふと、壁掛けの鏡に目を向ければ、亡くなった母と瓜二つであるらしい顔が、真っ赤に腫れ上がっていた。
そっと頬に触れれば、ずきりと痛む。
口の中には、鉄臭い血の味が広がる。
「……痛い、なぁ」
そう呟けば、何処からか人影の様な黒いもやが現れ、ぼくのことを見下ろした。
「っ!……あっちへいってよ。見ないで」
そう叫べば、言葉を理解しているのか、もやは飛散し、空気に溶けた。
まるで、地獄のような場所。
これが、ぼくの日常だった。
******
「あいつは、お前が生まれた所為で死んだんだ!」
ぼくを殴りながら、そう、恨みがましく告げた父の姿を今でも鮮明に覚えている。
兄を産んだ時は健康そのものだった母は、ぼくを産み落すと同時に、みるみる生気を無くし、死に至ったらしい。
医者にも見せたが、原因は不明。
小さな村にその話は瞬く間に広がり、"音次郎が母の命を吸い取った"そうまことしやかに語られた噂は、成長したぼくまで届いた。
村でも有名な愛妻家だった父。
そんな父には、母を亡くしたという現実が受け入れられなかった。
それでも、初めは兄と二人、必死にぼくを育てようとしてくれたのだ。
けれど、歳を重ねるごとに母そっくりに育つぼくの容姿に、父は顔を顰めるようになった。
始めて殴られたのは、四歳の時。
ぼくがつい、口にした一言が発端だったのだと思う。
「ぼくのお母さんはどこにいるの?」
無知な子供の、純粋な疑問。
けれど、その時、父の中で何かが壊れた。
「おまえが、それを言うのか!」
そう叫び、憎悪に染まった表情で、父はぼくに手をあげた。
それからは、やることなすこと全てが父の怒りに触れて、殴られ、蹴られ、いないもののように扱われる日々。
ぼくは兄に助けを求めたけれど、兄は父の怒りを恐れてか、見て見ぬ振りをした。
助けは、望めない。
なら、自分でなんとかするしかない。
父の顔色を伺い、怒られないよう怯えながら、必死に考えて動く。
そんなことを続けていたある日、突然、ぼくの視界は一変する。
殴られていた最中、父の顔がもやで覆われたのだ。
周囲を見回せば、黒い人影の様なもや、霧状の大きなもやに、動物のように動くもや。
おどろおどろしいその光景に、ぼくは思わず叫んだ。
「黒いのがいっぱい……! 何これ、やだ! やだぁ!」
「何を、馬鹿なこと……っ! おまえ、なんだその目の色は。ばっ、化け物!」
その日、ぼくの瞳は金色に変わり、ぼくの世界もより辛いものへ変貌を遂げた。
人に見えないものが見え、瞳の色も人外じみている。
父は、「やはり、こいつは人じゃない。母の命を吸い取った化け物だ。俺は間違っていない」と鬼の首を取ったように喜び、狂ったように笑い出した。
そこからは、正に地獄だ。
暴力は留まることを知らず、兄は怯えた目でぼくを見て近寄らない。
助けを求めて外に出ても、母の噂を知る大人達は、きみ悪がってぼくに近づかない。
ぼくの女のような容姿に目をつけた村の子供達には、「女男」と虐められ、はては服を脱がされ、辱められた。
黒いもやに襲われることもあり、生傷も絶えない。
もやは怖い、けれど人間はもっと恐ろしい。
次第に、人、とくに男を見ると勝手に身体がこわばるようになった。
その態度は、ますます父を逆上させ、行為は日増しに酷くなる。
どこへ行っても気が休まらず、精神が摩耗していく。
ーーぼくは、どうして生きてるの?
問いかけても誰も答えはくれず、ただ身体中が痛んだ。
******
家の庭、誰の目にも着かない隅の方。
ここは、ぼくが唯一心を休められる場所だ。
大きな石の上に腰を下ろし、ぼんやりと空を見上げていると、白いもやが近づいて来る。
それは、ぼくの足元で止まると、子犬の様にじゃれつき始めた。
「きみは……。もう来ないでって言ったでしょう?」
追い払おうと手を伸ばせば、遊んでくれると勘違いしたのか、もやは嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「もう……」
ぼくはその様子を見て、ため息を漏らした。
黒いもやは恐ろしいが、稀に現れるこの白いもやはなんなのだろう。
少し可愛く見えるのが、また、なんとも言えない。
気を緩めていた時、かさりと落ち葉を踏みしめる音がして、誰かがこちらにやって来るのが分かった。
途端、緊張が走る。
そちらに目をやれば、そこには見知らぬ女性が立っていた。
彼女はぼくに目を向けると、嬉しそうに口を開く。
「ああ、やっぱり、すごい器量の良さ! 偶然見かけたときは驚いたけど、あたしの目に間違いはなかった」
「あの、あなたは……?」
「あたしは、あんたをうちの店へ迎えに来た者だよ。もうあんたの父君にも許可は得てる。さあ、必要な荷物をまとめておいで」
突然差し伸べられた手に困惑していると、彼女が来た方に、父の姿がちらりと見えた。
父は一瞬ぼくを見ると、足早に家の中へと戻っていく。
ーーああ、ぼくは捨てられたのか。
そう理解すると同時に、ぼくは彼女の手を取った。
これからどうなるのか、詳しいことは分からない。
けれど、ここが地獄だというならば、何処へ行ったって変わらないだろう。
どことなく心配気にぼくの周りを回る白いもやを視線で制して、別れを告げる。
そして、手早く荷物をまとめ、彼女に促されるまま歩き出す。
この日、ぼくは、生まれ育った家と決別した。
******
"店の女将"と名乗る人物に連れられるまま、活気ある人並みをかき分け、立ち並ぶ町屋の中を進んで行く。
女将はある一軒の大きな建物の前で止まると、入り口付近にいた男性に声をかけ、何やら話し込み始めた。
街に来るのは初めてだ。
物珍しさに、恐る恐る周囲を見回してみる。
奇抜な色の旗に、幾重にも吊り下げられた赤提灯、壁に飾られた人物画。
入り口前にはやぐらが置かれ、太鼓の音が小気味良く響いている。
出入りする人々は皆笑顔が絶えず、どこか興奮している様子で、普段は沢山見えるもやも、今日は何故かあまり見えない。
不思議に思って、行き交う人々をしげしげ眺めていると、話を終えた女将がぼくに問いかける。
「ここは芝居小屋さ。はじめてかい?」
こくりと頷けば、彼女は満足気に笑う。
そして、そのままぼくの手を引き、建物の中へと進んで行く。
暖簾をくぐった先、会場は熱気に包まれていた。
板張りの床に座り、ひしめく観客の視線は、緑・黒・柿色の三色の縦縞が描かれた幕へと注がれており、皆、今か今かと待ち遠しそうに何かを待っている。
「うわ、凄い人だね。流石、この辺で一番の芝居小屋。……ちょっと着くのが遅かったか。音次郎、おいで」
そう手招きされ恐々近づけば、女将は見えやすいようにと、ぼくの身体を持ち上げる。
「あ、あの! 大丈夫です。降ろして!」
「いいから、いいから。しっかり見ときなさい」
慌てて降ろして貰おうとするが、女将は笑いながらそれを断った。
もう一度降ろすよう頼もうとした時、カンカンカンカンと何かを打つ音がして幕が開いていく。
ガス灯の明かりの下、黒い着物の女性が現れ、その存在感に圧倒されるように、観客の騒めきがぴたりと止む。
物語は、武家娘とお供の男性を中心として進んでいった。
婚礼支度をしに店へ来た娘達。
しかし、番頭は彼らが店の物を盗もうとしたと思い、怒って娘の額を傷つけてしまう。
お供の者が傷に対して、莫大な慰謝料を要求し、騒動を聞きつけた男が止めるが、番頭は事を穏便に済ませるため、それを了承した。
そして、娘達が金銭を受け取り、話が終わるかと思われた時、事態が動く。
たまたま店に居合わせた侍が、「彼らは番頭を騙しており、娘は男である」と言い放ったのだ。
見破られた途端、娘は着物の片袖を脱いだ。
すると、下からは立派な刺青が顔を覗かせた。
たおやかな雰囲気と一変し、娘が男へと変貌する。
「ーー知らざぁ言って、聞かせやしょう」
堂々とした出で立ちで、朗々と読み上げられる台詞に、気づけばぼくは釘付けになった。
その後も、明かされる新たな事実達。
固唾を飲みながら、物語の続きを見つめる。
最後は、五人の男達が一人づつ名乗りを上げて、彼らを捕まえようとする奴らを相手に、大太刀周りを繰り広げた。
呆然と終わりを見届け、観客の拍手喝采に我に返る。
「どうだい、面白かったかい?」
「うん! ……すごかった、本当にすごかった!」
ぼくは目を輝かせ、この興奮を伝えようとするが、うまく言葉にならない。
本当に素晴らしいものと出会った時、人は言葉を失うようだ。
女将はぼくのその様子を見て、嬉しそうに語りかける。
「これからあんたの暮らす場所は、こんな歌舞伎役者になるための場所さ」
「え……?」
「役者は声掛け一つ、仕草一つで、人の感情を揺さぶる仕事さ。そして、誰かの世界を変えるんだ。あんたには、その素質がある。一緒に頑張らないかい?」
誰かに、そんなことを言われたのは初めてだった。
ぼくが、あの人みたいに……?
女の見た目と男の見た目を使い分け、堂々と立ち振る舞う役者の光景を思い返しながら、ぼくは考える。
嘘みたいな、夢のような話だ。
けれど、もし、そんな風に変われたなら、どれだけ素敵だろうか。
「……頑張れば、ぼくでもこんな風になれる?」
「ああ、きっと」
力強く頷かれ、ぼくは心を決めた。
ぎこちなく、だが、希望を込めて口を開く。
「よろしく、お願いします」
それから数年間、ぼくは女将とその旦那が営む料亭で雑事をこなす傍、日々芸の稽古に励んだ。
男性に対して怯えた態度を取ってしまう癖だけは中々なおらず、旦那様にはよく暴言を吐かれたが、暴力は振るわれ無かった分、あの家より随分ましな生活だった。
女方の修行のためだと、女装をさせられた時は「女男」と罵られた記憶が蘇ったが、ここでは他の男達も女装をしているため、そんな心配もない。
あの毎日を思い出せば、辛い練習も暴言も大して苦にはならなかった。
しかし、成長するにつれて、この店がただの料亭でない事は嫌でも理解してしまう。
お客に芸を振る舞う一方で、時折聞こえる嬌声と床の軋む音。
稽古をしていると、年上の先輩から「頑張っても無駄。身体を売らせるだけの店さ、ここは」と言われる日もあった。
女将は優しかったけれど、「大丈夫。皆頑張っているんだから、絶対役者になれる」の一点張りで、具体的にどうすれば役者になれるのかは、教えてくれない。
けれど、今のぼくには信じて頑張る他、出来る事など無かった。
このまま、また先の見えない地獄を過ごすことになるのだろうか?
そんな不安が胸をよぎり始めたある日、ぼくは一人の少女と出会う。
店の日用品を買い出しに行った先で、ぼくは黒いもやに追いかけられていた。
時々いるのだ、ぼくと目が合うなり、全力で襲いかかってくる類のもや。
ちらりと背後を振り返れば、鋭いかぎ爪をもった巨大な獣型のもやが、ぼくを探して辺りを見回っている。
早く逃げようと建物の角を曲がった先で、誰かにぶつかった。
謝罪の声が聞こえて、慌てて謝り返せば、ぶつかった少女は驚いたようにこちらを見ている。
「あの……?」
何か謝り方に問題があっただろうか?
それとも、ぼくが男だと気付いてーー?
『女男!』
『本当についてんの? 脱がせて確かめてやろうぜ』
辱められた記憶が、脳裏をよぎる。
けれど、彼女はきみ悪がる素振りは見せず、黒い柴犬を見ていないかと聞いて来た。
見ていないことを伝え、変わらない彼女の様子にほっとしていると、向こうから例のもやが向かって来るのが見えた。
間近に迫る脅威に、顔が引き攣る。
逃げないと、そう思うのに身体が動かない。
獣の咆哮が辺りに響き、もう駄目だと思った瞬間、少女に強く手を引かれた。
そのまま、物陰へと隠れる。
ぼくにしか見えないはずのもや。
でも、彼女は助けてくれた。
もしかして、彼女にも見えているのだろうか?
初めて自分の世界を共有できる人。
その存在がいたことに、考えるより先に口が動いた。
「……き、きみにも見えるの?」
「見えない。でも、声が聞こえて……って。え、見えるの?」
見えるわけでは無かったと分かり、少し落胆する。
けれど、聞こえる人だって初めてだった。
喜んでいると、あのもやがすぐ側へ近づいて来て、再び震え上がる。
「水よ……」
隣から少女の呟きが聞こえたかと思えば、辺りが輝き、光の膜がぼく達を包み込んだ。
黒いもやが、目の前へ迫る。
見ていられなくて、ぼくは目をきつく瞑った。
ぼく達を探すように、匂いを嗅ぎまわる音が聞こえ、だんだんとその音が遠ざかって行く。
薄目を開けると、すでにもやは居なくなっていた。
この子が、もやを退けた?
驚きと興奮。純粋な疑問。
色んな感情が溢れて、思わず彼女に詰め寄る。
彼女がたじろいだのに、ハッと我に返って、少し距離を取った。
それから、疑問をぶつけ合い、会話を重ねた。
同年代の子とこんな風に話せたことに、自分でも驚く。
いつもはおどおどしてしまって、ろくに会話が続かないのに。彼女の雰囲気のおかげだろうか?
助けてくれたお礼に、最近お客さんから頂いたバターで西洋の焼き菓子を作ろう。
きっと、女の子はそういうのが好きだ。
そう考えて訊けば、彼女は嬉しそうに了承してくれた。
なぜだか、胸が暖かい。
もう少し話していたいけれど、お使いを済ませていないことに気づき、彼女に別れを告げる。
去り際に、彼女の名前を聞いた。
『椿』
勇敢で、ぼくなんかを助けてくれた優しい子。
ぼくはそんな彼女へ、正体を偽ったことに胸を痛めた。
けれど、臆病なぼくには、女装のまま自分が男だと告げる勇気がなくて、このまま女子として関わろうと決めたのだった。
※作中の歌舞伎演目は「青砥稿花紅彩画」の「弁天娘女男白浪」より参照、一部引用。




