第二十九話「雨と紫陽花」
「よし、出来た!」
黄金色の稲荷寿司を箸でつまみ、木製の弁当箱へ最後の一つを詰め終え、私は歓声を上げた。
「うん、とっても美味しい。これなら、きっと紫白さんも喜んでくれるよ」
雀がさえずり、明るい陽の光が差し込む台所。
私の隣で、残った稲荷寿司を一つ味見した音次郎が言う。
私は笑顔を返して、さっと割烹着を脱いだ。
下からは、変化時に良く着ている、普段使いの着物が現れる。
帯の上には、紫白が選んだ帯留め。
その歪みに気づいて、手早く帯留めを整える。
「椿ちゃん、車が来たぞー!」
玄関口から、私を呼ぶ福兵衛の声がした。
「すぐ行く!」
そう叫んだ私の肩を音次郎が叩く。
「後片付けは任せて。頑張ってね!」
「うん、ありがとう!」
彼の励ましに言葉を返し、私は風呂敷で弁当箱を包むと、紫白を呼びに廊下へと急いだ。
緊張を振り切り、勢いよく紫白の部屋の障子を開く。
「紫白、ちょっと来て!」
「え、椿!?」
「紫陽花園に行くの。一緒に来て」
急な来訪に目を白黒させる紫白の腕を引き、玄関へ向かう。
「あ、紫陽花園……? なんでまた、そんな場所へ」
「良いでしょ? ……だめ?」
理由を告げずにそう言えば、紫白は言葉に詰まった。
外は危ないと再三言っていた彼のことだ、本当は反対したいのだろう。
だが、昨日の今日で、紫白も私に意見し難いらしい。
私はそれを良いことに、家の前で待っている人力車へと紫白を押し込んだ。
続いて、私も乗り込む。
そして、車を手配してくれた福兵衛へ礼を告げる。
「福さん助かったよ、ありがとう」
「このくらいのこと、礼を言われるまでも無い。健闘を祈る、楽しんでおいで」
楽しい……かは分からないが、頑張るのは確かだ。
紫陽花園までは少し遠い。
紫白の術を使えば一瞬だろうが、断られる可能性がある手前、移動手段が必要だった。
悩んで、福兵衛へ助力を求めたところ、彼は二つ返事で協力してくれた。
ちなみに、福兵衛は必要ないと言ったが、私の気がすまなかったため、お礼として福兵衛分の稲荷寿司も置いてきている。
私が頷き、福兵衛が手を振ったのを見届けてから、車夫が車を動かす。
ゆっくりと、次第に景色が流れ始めた。
紫白は困惑しながら何度もこちらを見たが、何を話すべきか悩んでいるようで、中々口を開かない。
かく言う私も、勢いで紫白を連れ出したものの、いざ話すとなると振れる話題が見つからず、気まずい沈黙が流れた。
車夫がいる手前、本題を話すのはやはり現地に到着してからが良いだろう。
他愛の無い会話って、いつもは何を話してたっけ……?
悩むほどに、分からなくなっていく。
重たい空気の中、車は粛々と目的地へ進む。
揺られ続けること数刻、ある門の前に着くと車は静かに止まった。
「……お客さん、着きましたよ。この辺に居ますので、お帰りの際はまたお声がけください」
車夫に促され、車から降りる。
道中の運賃は、福兵衛が払ってくれていた。
本当に彼は頼りになる。有難い限りだ。
紫白と連れ立ち、紫陽花園の門を潜って小道を歩く。
砂利道の傍らには、紫陽花が咲いていたであろう茂みが広がっていた。
この辺はもう見頃が過ぎているようだ。
おかげで、人気はほとんどなく、話すにはもってこいの場所と言えた。
遅咲きの紫陽花を求め、奥へと進んで行く。
この間も、沈黙が続いていた。
互いに、第一声が発せられない。
「うひゃっ!」
急に頭上から冷たい何かが降って来て、変な声が漏れてしまった。
思わず、紫白と顔を見合わせる。
すると、新たな雫がぽつりぽつりと降り注ぎ始めた。
「雨、ですね。どこか、雨宿りできる場所は……」
紫白は辺りをざっと見回し、近くに合った東屋を指差す。
「椿、あそこへ行きましょう。急いで!」
******
促されるまま東屋へ飛び込み、紫白と二人、机を挟んで向かい合い、椅子に座った。
幸いにもほとんど濡れずにすんだものの、会話は相変わらず続かない。
そっと外を見渡せば、先程まで晴れていたのが嘘の様に、バケツをひっくり返したような雨が降り注ぎ、辺りを白く染めていた。
おそらく、にわか雨だろう。
雨はまだ止みそうになく、重い空気も無くならない。
このままじゃ、だめだ。
私は風呂敷包を抱きしめながら、精一杯の勇気を振り絞って、口を開く。
「ね、ねぇ紫白。私、今日は稲荷寿司を作ってきたんだ。一緒に食べない?」
緊張で、声が裏返ってしまった。恥ずかしい。
ちらりと紫白の様子を伺えば、彼は驚いたように私を見る。
「……もう、怒ってないんですか?」
ぽつりと零されたのは、そんな一言。
そして、返答に怯えるように、紫白の顔がゆっくりと下を向き始めた。
「……怒ってない、と言ったら嘘になる」
紫白はびくりと肩を震わせたが、気にせず言葉を続ける。
「でも、このままじゃいけないと思って、今日はあなたと話をしに来たの。だから、その……とりあえず食べよう?」
そう誘えば、紫白はがばりと顔を上げ、嬉しそうに笑った。
弁当箱を開け、どうぞと勧めれば、紫白は手を合わせた後、恐る恐るそれへ手を伸ばす。
一つ、また一つと稲荷寿司が口元へ運ばれていく。
「……凄く美味しいです!」
「良かった。紫白が好きだったの思い出して、作ったんだ。初めてだったから、作り方は音次郎くんに教えてもらったんだけどね」
苦笑すれば、紫白はきょとんとした後、心底嬉しそうに微笑む。
「僕の為にわざわざ? 嬉しいです。……音次郎というのは、確か貴女が連れてきた少年のことですよね?」
「そうだよ。もう挨拶はした?」
「少しだけ。彼も霊力持ちだと、福兵衛から聞きました」
「良い子だったでしょ?」
「ええ、忍に比べれば、随分と分別を弁えた子だったように思います」
テンポ良く続く会話に、自然と空気が和らいでいく。
ああ、そうだ。この空気間。
今なら、あの日の事を訊ける気がした。
美味しそうに稲荷寿司を頬張る紫白を眺め、彼が食べ終えたのを見届けてから、私は意を決して質問を投げかける。
「……あのさ、紫白。紫白は、一昨日の晩のこと、どこまで覚えてるの?」
私の問いかけに、紫白が表情を引き締めた。
「……貴女が、音次郎を連れて帰ってきたことは覚えてます。それから、朧気ですが、貴女が居なくなるのが嫌で、止めようと声を掛けた気がします。……後は、よく覚えていません」
「……じゃあ、どうやって止めたのかも覚えてないんだね?」
「……すみません」
眉を八の字にし、頭を下げた紫白を見て、私は小さく溜息を吐く。
「……福兵衛にも『椿にあんな顔させるな』と叱られたんです。僕は一体、貴女に何をしてしまったんでしょうか?」
恐々と訊ねてきた紫白へ、私は一つ深呼吸をし、極めて冷静に事の次第を話して聞かせた。
酔った紫白を部屋まで送ったこと。
気分不良の紫白のために水を取りに行こうとして、必死に止められたこと。
出て行くのは忍のせいかと言って、髪飾りを壊され、帯留めをつけていないと怒られたこと。
その後、壁際に追い詰められ、至る所にキスをされたこと。
……それから、唇へのキス。首筋についた鬱血痕のこと。
紫白は話を聞きながら、顔色を赤くしたり、青くしたり、忙しなく表情を二転三転させていた。
「ーーってことがあったの。紫白が虫刺されか訊いた痕は、あなたがつけたものだからね? ……どういうつもりであんな行動をしたのかは分からない。でも、キス……接吻やそういう行為は、私にとっては凄く大事なものだったから、忘れられてたのが辛かった。……どうして私が怒ってたのか、少しは分かってもらえた?」
一通りの出来事を語り終え、そう言うと、紫白は顔面蒼白でゆらりと椅子から立ち上がる。
そして、移動すると、床に膝をつき、勢いよく頭を地面に擦り付けた。
「本っ当に申し訳ありません!!」
所謂、土下座スタイル。全力で叫ぶ紫白。
人気が無かったのは、幸いだった。
私は、慌ててそれを止めた。
謝って欲しい訳じゃないのだ。
「分かってくれたなら、良いから! 土下座はやめて、お願い!」
顔をあげるよう必死に促せば、紫白は渋々頭を上げたが、床に座り込んだまま動かない。
私は更に椅子へ座るよう促して、紫白を元の場所まで誘導する。
椅子に戻ると、紫白は項垂れるように頭を下げた。
「……謝罪は、本当にもういいの。それより、酔っていたとはいえ、紫白がどうしてそんなことしたのか教えて欲しい。分かる範囲で良いから」
紫白は私の方を見ると、静かに口を開く。
「おそらく、嫉妬……したんだと思います」
「嫉妬……?」
私が聞き返せば、紫白は恥ずかしそうに頬を掻いた。
「最近の貴女は福兵衛や忍と過ごす時間が増えて、僕と過ごす時間が減ったでしょう? お恥ずかしい話ですが、ずっと寂しく思っていて……」
「……それは、ごめん」
関わる人が増えれば、その分、個人と過ごす時間は減る。
だが、紫白に関しては、彼の過保護ぶりに嫌気がさし、私が意図的に避けていた所為もあるだろう。
「いいえ、謝るのは此方の方です。貴女は僕の所有物じゃない。思い通りにならないのは当然です。なのに、あの日、出かけていた貴女に、僕はかってに裏切られたような気持ちになって、きつく当たってしまいました」
「いや、それは、言い付けを破った私も悪かったんだよ。だから、お互い様だと思う」
「貴女って人は……」
紫白は、なんとも言えない潤んだ目で私を見た。
私は言葉を続ける。
「じゃあ、居なくならないでっていうのは?」
「それは、きっと……そのままの意味です。飲みの席で、ある人に、女性はいずれ好いた男と居なくなるものだと言われて……。その時の僕は、恐らく忍に貴女を取られると思って、そんな行動を取ったのだと思います」
紫白は私の表情を伺うように、ちらりとこちらを見る。
「いやいや。私、忍くんは好きだけど、そういうのじゃないから」
私が否定すれば、紫白はあからさまにホッとしたようだった。
「ええ、今なら分かります。けれど、一昨日の僕は正気じゃなかった。それに、福兵衛にも言われていたんです。僕が貴女の保護者でいる以上、いずれ離れる時が来ると」
「それは……」
福兵衛の言う通りかも知れない。
成り行きでここまで来てしまったが、紫白や皆と過ごす毎日は穏やかでとても楽しい。
けれど、皆にもそれぞれの人生があって、生き方がある以上、この先もずっと今のままとはいかないだろう。
私と紫白だって、一緒に住む約束はしたが、先のことは分からない。
考えこむ私をみながら、紫白が自重気味に笑った。
「はは、でも、何でかな。覚えていないはずなのに、聞いただけで何故自分がそうしたのか、手に取るように分かるんです。……今だって、貴女を手離したくないと、思ってる」
紫白が切なげにこちらを見つめた。
いつになく真剣で、熱っぽい視線が私を射抜く。
見つめ合うこと数秒、体感にして息が詰まるほど長い時間。
紫白は己が顔に手を当てると、何かを納得したように言葉を零した。
「……ああ、そうか。そうだったんだ。僕は、貴女が……」
「紫白?」
「すみません、椿」
「え、いや、だから謝罪は……」
必要ないと言おうとして、首を振られる。
「僕は自分の感情にまかせて貴女を傷つけ、あまつさえ、貴女が大切にしていたものを奪ってしまった。酒のせいなんて、言い訳になりません。貴女を大切に思うなら、してはならない行為でした。順番が、違う」
紫白は真剣な声色でそう言うと、机越しに私の手を取り、真摯な眼差しで告げた。
「椿、僕は貴女が好きです。保護者としてではなく、一人の男として。だから、責任を取らせてください」
凛とした声には、迷いがない。
唐突な告白。
責任……? 責任って、何だ?
そんな事が頭を過るが、答えを考える間もなく、固まった私へ、紫白が更に言葉を続ける。
「婚姻を結びましょう」
「はい!?」
「順番は違いましたが、婚姻を結べば、接吻したことも問題にならないはずです。経済力は……まだありませんが、必ず貴女を幸せにすると誓います」
「いやいやいや!」
瞬く間に進む話に、私がたじろぎながら否定すれば、紫白は追い討ちをかけるように私へ問いかけた。
「椿は僕のこと、どう思ってるんですか? 好き? それとも、嫌い?」
「嫌いじゃ……」
「嫌いじゃない、はダメですよ」
制止され、口を噤む。
ここまで過ごしてきて、沢山助けて貰った。
あの山で彼と出会っていなければ、今の私は文字通り、居なかったかもしれない。
過保護な面があり、酒癖も悪い、紫白。
そんな彼だが、嫌えるわけが無い。
けれど、出会った頃は軽々しく言えた好きという言葉が、今は口にできなかった。
たった二文字、それがこんなにも重い。
ーー私の好きは、どういう好き?
キスの真意を問うた以上、こうなる可能性も頭のどこかで考えていたはずだ。
でも、いざ直面すると、どう答えたら良いのか分からなかった。
紫白に迫られた時、そして告白を受けた今、胸は確かに高鳴っていた。
だが、女子なら誰だって、イケメンに迫られればそうなるに違いない。
それは恋心というより、アイドルに憧れるような一過性の熱ではないか?
恋愛経験の皆無の私に、憧れと恋の判別などつくはずがない。
それから、私には一番の不安があった。
キス一つで心乱れる自分がそんなものにうつつを抜かしたら、無事に生き残れるのかという不安が。
恋をすると馬鹿になると聞く、それでは駄目だ。
死なない為には、いつでも万全の体制で、敵を迎え撃てなくてはならないのだから。
悩みに悩んで、私は口を開いた。
「ごめんなさい……、今はまだ答えられない。軽々しく、言えない」
問題を先延ばしにするだけの、どっちつかずで、みっともない答えだ。
だが、これ以上に良い答えが思い浮かばなかった。
俯く私の頭上に、紫白の声が降ってくる。
「そうですか、分かりました。……なら、待ちます」
「え?」
顔を上げれば、微笑む紫白と目が合った。
「『今はまだ』ということは、そのうち答えてくれるということでしょう? 貴女に時間が必要だと言うならば、僕はいつまででも待ちましょう」
「でも、いつまで待たせるか分からないよ? 断るかもしれないし……」
本当に良いのかと私が問えば、紫白は更に嬉しげに笑みを深める。
「逆に考えれば、悩み続ける間、貴女は僕を忘れない。貴女の性格からして、その間は、絶対に僕の側から居なくなったりしないでしょう?」
「それは、そうかもだけど……」
なんとも、ポジティブな狐である。
「幸い、時間だけは沢山ありますから」
私を見ながら幸せそうに呟く紫白に、かける言葉が見つからない。
黙っていると、紫白の方から呼びかけられた。
「椿、見て。雨が止んだようですよ」
紫白が此方へ手を差し出す。
彼の視線の先には、先程見つけられなかった紫陽花が、辺り一面に咲き乱れていた。
東屋の裏手にあったそれらは、雨に晒されたせいか、一段と鮮やかな色を映している。
「綺麗……。こんな所に咲いてたんだね」
新たな悩みは増えたものの、私の心は何故か晴れやかだった。
『時間だけは沢山ある』そう言った紫白の言葉を、頭の中で反芻する。
ゲーム開始まで、あと五年。
私は彼を守りきり、無事に生き延びられるのだろうか? いや、生き延びなければならない。
彼の問いにどう答えを返すにしろ、絶対に二人でゲームの先へと行ってやる。
私はそう心に誓って、紫白の手を取り、青空の下、紫陽花の咲く小道へと踏み出した。
〈補足〉
その日の夕食は、忍くんの分のおかずの量が増えました。
本編中の会話では触れていませんが、紫白さんは忍の髪飾りを壊したことを地味に反省しています。内心複雑なのと、椿ちゃんに止められたのもあり、おおっぴらに謝ったりはしていません。
次話は音次郎視点の閑話を挟んで、音次郎編終了となります。椿ちゃんと紫白さんの関係に変化があったところで、本編は後半戦へ。もう少しお付き合い頂ければ幸いです。




