第二十七話「椿と音次郎」
「ぜんぜんねむれなかった……」
明け方、まだ薄暗い廊下を一人歩く。
あの後、紫白の下から抜け出した私は、彼をきちんと布団へ寝かせ、台所から汲んで来た水を座卓の上へと置いて、部屋を去った。
曲がりなりにも介抱するつもりで来たので、その辺りはきっちりしようと思ったのだ。
音次郎の様子も気になって見に行ったのだが、その時には彼の部屋の灯りはもう消えていた。
それで、すごすごと自室へ帰った私は、ふと姿鏡を見て、思わず叫びかけた。
私の首元には、赤い痣が刻まれていたのである。
所謂、キスマークというやつだ。
知識でしか知らなかったし、まさか自分が体験するなんて思いもよらなかった。
というか、絶妙に着物で隠れない位置へつけたな!? 明日どう隠せばいいんだ……。
おしろいで隠すのは、普段しないから変に思われるし、包帯巻いたら怪我と間違われて、心配されそう。
でも、皆にさっきのこと説明するなんて恥ずかしすぎるし、なんて言って誤魔化せば……。
明日は、音次郎の今後について話したり、髪飾りの件を忍へどう謝るかも気がかりなのに、更に問題が増えた。
悶々としながら布団へ潜るが、そんな状態で眠れるはずも無い。
そして、冒頭に戻る。
そんな訳で私は今、気分転換に水でも飲もうと台所へ向かっていた。
廊下を進んでいると、暗がりの中に光が漏れている。
それは数刻前は消えていた、音次郎の居る客間からの光だった。
もしかして、彼も私と同じで眠れなかったのかもしれない。
起きているようなら、明日どうすることになったのか、少し話を聞いてみよう。
私はキスマークを隠すように首元の着物を少し引っ張りながら、障子へと手を伸ばす。
「おとじろうくん、おきてる?」
障子を少し開け、その隙間から声を掛ければ音次郎の慌てた様な声がした。
「椿ちゃん……? こ、こんな時間にどうしたの? あ、どうぞ入って」
パタパタと此方へ駆けてくる足音が聞こえ、音次郎が障子を開く。
そして、彼は驚きに目を丸くした。
「つ、椿ちゃん……? 小さく、なってるよ」
「え?」
言われて、気づく。
やば、私、今変化の術使ってない!
慌てて変化するも、時既に遅し。
ばっちり見られている手前、今更誤魔化しようもない。
寝不足で、全然頭が回っていなかった。
音次郎と会う時は、いつも十歳の姿で会っていたというのに。
家だからという謎の安心感で、変化を解いていたのが失敗だった。
やらかした……。友達に隠し事、私もしてたわ。
言葉が思い浮かばず、笑顔のままで固まる私の額を、ダラダラと冷や汗が流れていく。
しばらくの沈黙の後、先に口を開いたのは音次郎だった。
「ふふ、凄い汗。もしかして、椿ちゃんも福兵衛さん達と同じ妖怪だったの? 大丈夫、怖がったりしないよ」
彼はそう穏やかに笑うと、私を部屋の中へ手招きしてみせた。
******
「ーーだから、他の人とはちょっと違うけど、私は妖じゃないよ」
部屋へと入り、布団に腰を下ろして話す。
音次郎の笑顔に励まされ、弁明を図ってみれば、彼は簡単に納得してくれた。
「なるほど、霊力持ち。福兵衛さんから聞いたよ……。ぼくの目も、多分それの一種じゃないかって言われたの。ふふ、ぼくたち、似てるね」
そう言った彼は、少し嬉しそうだった。
どうやら、福兵衛から既に霊力持ちについての説明を受けていたらしい。
彼の目も霊力の所為だというのは、初耳だが。
「そっか、もう聞いてたんだね。……福さんや忍くんとは、どんな話をしたの?」
明日からどうするのか、そんな話も出来たのだろうか?
私が問えば、音次郎は困った様に話し出した。
「ぼくがここへ来た経緯を少し。後は、福兵衛さんから妖や霊力持ちについて教えてもらって、忍くんには、ぼくがどうしてあの店にいたのか訊ねられた。それから、二人に明日からぼくはどうしたいのか訊かれて……」
「どう、答えたの?」
「……答えられなかったんだ。そしたら、明日の朝もう一度訊くから、今日はもう休みなさいって福兵衛さんが」
「そっか……」
福兵衛なら確かにそう言いそうだ。
きっと音次郎は、それを考えているうちに、目が覚めてしまったのだろう。
「もうすぐ朝だけど、答えはでそう……?」
私の言葉に、暗い表情で黙り込んでしまった音次郎へ、少し違うことを訊いてみる。
「音次郎くんは男の人が怖いのに、どうしてあの店で働いていたの?」
忍と同じ事を訊いているのだろうが、私は彼の経緯を聞いていない。
彼の想いを聞けば、何か助言してあげられるかも知れないと思い、そう言った。
すると、音次郎は苦笑しながら口を開く。
「色々あって……家に帰れなかったぼくを、あの店の女将さんが引き取ってくれたんだ」
「そう、なんだ……」
何があったのかは分からないけれど、引き取った子を身売りさせるとか、その女将さんも碌な人じゃないと思うんだが。
私が微妙な表情を浮かべれば、彼は自嘲するように小さく言った。
「……その後、女将さんは歌舞伎を見に連れて行ってくれた。あれは本当にすごかったな……それを見て、ぼく、歌舞伎役者になりたいと思ったんだ。あの店はあんな所だけど、役者が下積みを積む店で、女将さんは頑張れば、ぼくも一座へ迎えてもらえるって言ってた」
「でも、あんなこと続けるなんて……。音次郎くんは大丈夫なの?」
「大丈夫……じゃ、ないかも。でも、辞めたいとも思えない」
下積みのために身を売るなんて、前世の常識では考えられない。
騙されているんじゃないかと、不安な目で音次郎を見つめる。
「まずは、女形の修行からしなさいって言われてる……。役者になりたいなら、我慢するしかない」
本当は嫌だろうに、音次郎は自分自身に言い聞かせるようにそう言い切った。
けれど、その発言に反して、彼の肩は小刻みに震えている。
私は、彼になんと言ってあげれば良いのだろうか。
彼の身を助ける為、店を辞めるように言うのは簡単だ。
けれど、夢の為に嫌を飲み込んで来た彼へそれを告げるのは、彼のこれまでを否定するのと同義に思えた。
私は慰めるようにそっと音次郎の肩へ手を添え、悩みながら口を開く。
「……音次郎くんはすごいね。夢の為に、嫌なことでも頑張ってるんだね。……でも、我慢のしすぎはよくない。心が、辛くなっちゃうから。今は私しかいないし、嫌なら嫌って言って大丈夫だよ?」
しばらくの間、音次郎は考えるように黙り込み、暫くしてぽつりと言葉が落とされた。
「男に触られるのは、どうしても怖くて、嫌だ。……でも、役者になりたいから、店を辞めるのも嫌……。ほんと、我儘だよね」
音次郎はそう言って、眉尻を下げた。
嫌な事に対して、そんな風に思うのは当たり前だ。
なのに、我慢出来ない自分が悪いかのように彼は言う。
この子は良い子過ぎる。
彼はもっと我儘を言ってもいいと思うんだ。
そして、毎日笑顔で過ごして欲しい。
私はふとあることを思い出し、算段をつけて口を開いた。
「……ねえ、音次郎くん。もし、その我儘がどっちも通るならどうする?」
「え、でもそんなの無理でしょう……?」
「仮に、だよ。希望があるなら縋る?」
私の言葉に、音次郎は戸惑いがちに頷く。
「うん。もし、今の仕事をしなくても役者になれるのなら、全力で縋ると思う」
「ふふ、言ったね? なら、福さん達と話す時、横から私が何を言い出しても、黙って見ていてくれる?」
そう笑った私へ音次郎は驚いた表情を浮かべた後、おずおずと「分かった……」と呟いた。
表情は不安そうだが。
まあ、今の発言じゃそうなるだろうけど、安心して欲しい。
一応、勝算があってのことなのだ。
彼は作中、パトロンを捕まえて歌舞伎座へ弟子入りしている。
なら、無理に店で働かなくても、同じように歌舞伎座へ入れるのではないか?
そんな予想が立てられた。
なので、人脈の広そうな福さんに相談して、歌舞伎座へのこねを教えて貰おうと思うのだ。
しかし、今教えてしまうと、音次郎は気を遣って断りそうなので、あえて何を話すのかは伝えない。
私はその話題から気をそらせるように、音次郎へ声を掛けた。
「ねえ、音次郎くん。福さん達が起きてくるまで、一緒に朝ご飯でも作らない? きっと、気分転換になるよ」
「え、えぇ?」
「さあさあ、行こう!」
私はなおも不安そうな音次郎の手を引いて、朝ご飯を作るべく客間を出た。
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ほかほかのご飯に、茄子の味噌、枝豆とひじきの煮付け、それから大根の漬物。
ちゃぶ台へ並べられた熱々のそれらは、ほとんど音次郎が作ったものだ。
音次郎はお客様だし、私主体で動こうと思っていたのに、彼は「助けてもらったんだから、これくらいやらせて」と私が手伝う隙もなく、今ある材料をみてパパッと作ってしまった。
「音次郎くんって、料理も上手なんだね……」
「え、そうかな? ありがとう」
音次郎は照れたように笑う。
味見させてもらったが、彼の味付けは料亭のような繊細な味わいで、私や紫白が作るものとはまた違った美味しさだった。
私が目分量で入れる調味料も、彼はちゃんと計って入れている辺りに違いが出たのだろう。
色々な面で、女子力が負けている気がした。
私もたまには計って作るべきかなと考えていると、廊下から足音がして、次いで人影が現れる。
「おはよう。椿ちゃんも音次郎くんも早起きだな」
「おはよーっす! 良い匂いがすると思って来たら、もうご飯出来てたんすね」
席に座る福兵衛と音次郎へ挨拶を返しながら、私達も空いている席へ座った。
忍には髪飾りの件を話さないといけないが、それは皆の前でする事では無いと思い直し、口を開く。
「おはよう、二人とも。これはね、ほとんど音次郎くんが作ってくれたんだよ。凄い美味しいから、心して食べてね!」
「それは楽しみだ。ところで、紫白はどうした?」
福兵衛は箸へ手をやる前に、私へそう訊ねる。
ちなみに、忍はさっさと手を合わせ、もう食べ始めており、音次郎は悩んだようにこちらの様子を伺っていた。
「……紫白は、昨日も凄く酔ってたから、今日はまだ寝てると思う。いつも早起きしてくれてるし、眠らせてあげとこうよ」
私が首元を抑えつつそう言えば、福兵衛は「そうか。なら、儂らだけ先に食べるとしよう」と頷いて、ゆっくりと食べ始める。
私と音次郎も彼に倣って、食事を始めた。
朝食後、皆が緑茶を啜って一息ついた頃、福兵衛が世間話をするように音次郎へ問いかける。
「音次郎くんや、どうするか答えはでたかな?」
その言葉に、音次郎が姿勢を正し、私も気を引き締めた。
「……はい。店へ、帰ろうと思います。一晩泊めていただき、ありがとうございました」
「そうか……」
頭を下げた音次郎へ、福兵衛が少し残念そうに呟く。
忍はほっとした様子で、ことの成り行きを見守っていた。
忍くんには悪いが、私の出番はここからだ。
「福さん、音次郎くんのことで、お願いがあります!」
私は音次郎が頭を上げきる前に、福兵衛へ頭を下げた。
「ちょ、椿ちゃん!?」
忍が慌てたように私の名前を呼び、隣で音次郎が息を飲む気配がしたが、気にしたら負けだ。
「ふむ。頭を下げずとも良い。言ってみなさい」
私は顔を上げ、一つ頷いて口を開く。
「音次郎くんが店へ帰るのは、歌舞伎役者になりたいからなの。……福さんなら、あんな店じゃなくて、ちゃんとした一座を知っていたりしない?」
音次郎は何か言いたげだったが、私との約束を守ってくれているらしく、口を噤んでいる。
福兵衛は私の問いかけの意味を考えるように、ゆったりと顎へ手をやった。
「確かに、儂はそういう知り合いに覚えがある。紹介もしてやれるだろう。だが、彼はそれを望んでいるのか?」
そして、音次郎の方へ視線を向けた。
福兵衛は、音次郎が望まなければ何もする気が無いらしく、彼の発言を待っている。
助け船は出した。
最後にどうするか決めるのは、あくまでも音次郎自身だ。
けれど『もし、今の仕事をしなくても役者になれるのなら、全力で縋ると思う』、そう告げた彼ならば、受け取ってくれるはず。
ちらりと音次郎を見れば、彼は困惑しながらも強い瞳で前を見据えていた。
そして、私の予想を裏付けるように、音次郎が口を開く。
「もし、我儘を言っていいのなら……。その、福兵衛さんの知る一座をぼくに紹介してもらえないでしょうか? あ、勿論、ご迷惑でなければ……」
おずおずと、だが力強く述べた音次郎を見て、福兵衛が笑顔を浮かべた。
「うむ、了解した! なに、迷惑などかからぬよ。それと、以前忍くんにも言ったのだが、子供は大人に迷惑をかけてなんぼなのだ。どんどん我儘を言うと良い」
福兵衛がそう告げたのを合図に、部屋の空気が緩んで、私はほっと息を吐いたのだった。
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あの後、福兵衛はさっそく行動に移った。
困惑する音次郎を連れ、玄関へ向かう福兵衛へどうするのか問いかければ、「なに、まずは店側と話し合わなくてはな」とのこと。
彼は何かの包みを持つと、音次郎の手を引き、颯爽と外へ消えて行った。
展開の早さについていけず、呆然としていると忍から声が掛けられる。
「椿ちゃんも福さんも本当にお人好しっすよねー。そのうち悪いやつに騙されそうで、オイラ心配っす」
忍はやれやれと溜め息を吐いた。
私が髪飾りの件をはたと思いだし、謝ろうと口を開きかけた時、更に被せるように忍が言う。
「そんじゃあ、オイラも母ちゃんに定期報告しに出かけてくるんで、戸締りは頼んだっす!」
そして、彼もまた玄関の外へと消えて行った。
謝るタイミングを逃してしまった私は仕方なく、「……うん。紫白に朝ご飯持って行ってあげよう」と独り言ち、玄関の鍵を閉めた後、恐らく今日も二日酔いであろう紫白の元へ向かうのだった。
お盆の上に取り分けた朝食を乗せ、こぼさないよう気をつけながら、紫白の部屋へと赴く。
ちなみに、胃のことを考え、ご飯は卵のおじやに変えている。
私作なので、味は音次郎や紫白ほど美味しくないかも知れないが、許して欲しい。
本当は気まずいし、あまり会いたくないのだが、引き延ばすほど会いにくくなりそうなので、今は己を奮い立たせて彼の部屋へ足を進めている。
昨晩、何故あんなことをしたのかも訊いておきたかった。
紫白の部屋の前に着き、意を決して障子を開ける。
そっと部屋に入れば、彼はまだ寝息を立てていた。
お盆を座卓の上に下ろして、緊張しながら紫白へ声を掛ける。
「……紫白、朝ご飯持って来たよ。起きれそう?」
すると、彼は私の声に反応するように身動いだ後、ぼんやりと瞼を開けた。
「あれ、椿? 僕は……」
「もう朝だから、起こしに来たの」
そう告げれば、徐々に意識が覚醒したらしい。
紫白はがばりと起き上がると、居住まいを正した。
「すみません、僕、また寝過ごして……! ご迷惑をお掛けしました。朝ご飯も、ありがとうございます」
紫白は申し訳無さそうに頭を下げたものの、それだけだ。
普段通りに微笑む彼は、昨夜の事など何も気にする素振りがない。
やはり、昨夜のあれは、彼にとって大したことない出来事だったのだろうか?
意識しているのは私だけ……?
私は紫白が何を考えているのか分からず、不安に思いながらも昨夜の事を訊ねてみることにした。
「紫白、昨日のことなんだけど……」
「え、昨日ですか? すみません、僕、昨日家に帰ってからの記憶が無くて……。貴女に何か言ったような気はするんですが……もしかして、その事ですか?」
ーー覚えて、いない?
固まる私へ、紫白が更に言葉を続ける。
「本当にすみません。よかったら、僕が何を言ったのか教えて頂いても? ……あれ。椿、首元が赤くなっていますよ。虫刺されですか?」
紫白は私の首元を指しながら、「軟膏、使いますか?」などと、心配そうにこちらを見ている。
そんな紫白を見て、私の中でプツンと何かが音を立てて切れた。
「〜〜〜〜っ!! もう、知らない!」
私は障子を乱暴に開け、廊下へ飛び出す。
背後から、困惑し、呼び止めようとする紫白の声が聞こえたが、振り返ってなんてやるものか。
私は怒りのままに自室へ戻ると、気持ちをぶつけるように、気の済むまで布団を叩き続けたのだった。
〈補足〉
椿ちゃんの首の痣について、福兵衛さんは勘付いてますが、彼女が隠したそうなので、特に言及せずに流してくれています。
逆に忍くんは、気づいても「虫刺されかな?夏だもんね!」くらいの認識でした。




