第二十六話「酒は飲んでも飲まれるな!」
迫り来る紫白の気配に、固く目をつぶる。
しかし、待てども予期する衝撃は訪れない。
不思議に思って薄目を開けると、不機嫌なのは変わらず、けれど、少し泣きそうに歪んだ紫白の顔があった。
「紫白……?」
困惑を滲ませながら呼びかければ、彼の手が私の髪へと伸びる。
「……忍ですか? 彼が貴女を僕から遠ざけるのなら、こんなもの」
紫白の手が白い花の髪飾りを捉え、器用にそれを外す。
そして、振りかぶるように、その手を上げた。
「やめて、紫白! それ、貰いものだから!」
紫白の言葉の意味も、何故こんなことをするのかも分からないが、貰った髪飾りに罪は無いはずだ。
なまじ気に入っていただけに壊されたくなくて、慌てて止めれば、彼は更に顔を歪めた。
「ええ、知っています」
「だったら、壊そうとしないで」
「いいえ。貴女がそう言うから、だからこそ……」
紫白が私の制止を振り切って、腕を振り下ろす。
髪飾りが床へ叩きつけられ、パリンと乾いた音が響き、辺りに白い花が散る。
「酷い……」
呆然とその様を見届け、思わず漏れた言葉を紫白は鼻で笑った。
「酷いのはどちらですか。僕を置いて、彼と共に去るつもりなのでしょう?」
「さっきから、いったい何の話をしているの?」
「貴女が居なくなる話です。貴女は、僕が見ない間に美しく成長できるようになりました。女性は成長すると恋仲の男と去る者なのでしょう? だから、彼に奪われる。いや、これから更に成長すれば、他の男にも……」
私の声は紫白には届いていないようで、彼はうわごとのように何事かをぶつぶつと呟きながら、虚ろな瞳で私の全身を見渡した。
そして、ある一点で視線が止まる。
紫白は一際視線を鋭くし、トンと私の腹部を押した。
私の帯上を軽く撫でながら、紫白が低い声で問う。
「椿、僕が選んだ帯留めはどうしたんですか?」
怒気を孕んだ、少し苛立たしげな声色。
それは、福兵衛や忍に向けられる時こそあれ、私には初めて向けられる感情。
私は気圧されながら、おずおずと口を開く。
「今、違う服だから……貰った帯留めは、いつもの着物といっしょに、ちゃんと置いてあるよ」
「へぇ……着物を変えても、忍のものは身に着けるのに?」
言外に責められ、項垂れる。
そんなこと言ったって、今は島原へ溶け込むための変装用の着物を着ている。
装いが変われば小物もそれに合わせるものだ。
髪飾りは支障がなかったから、そのままにしていただけで、他意はない。
それに、帯留めを変えたくらいで紫白が怒るなんて、思わなかったのだ。
黙りこむ私へ紫白は何も言わず、ただ、ゆっくりと腹部から背中へ、身体の輪郭をなぞるように腕を回す。
それは会話に似合わない、優しい抱擁だった。
唐突な行動に目を白黒させていると、紫白が私の耳元へぐっと顔を近づけ、うっそりと囁く。
「……本当に、酷い人だ」
吐息が耳朶を打ち、肌が粟立つ。
紫白は更に追い討ちをかけるように、私の耳を食んだ。
堪らず、口から悲鳴が漏れる。
「ひぇ……っ」
「可愛い鳴き声ですね」
それを見た紫白は、口元へ嗜虐的な笑みを浮かべた。
私を見る目は、まるで獲物を見つけた捕食者のそれ。
紫白は、驚き、縮こまる私の様子を見て、楽しんでいるようだ。
続けざまに頬を甘噛みされ、再び小さな声を上げた。
顔に熱が集まるのを感じる。
今、私の顔はきっと、真っ赤に染まっていることだろう。
先程よりもタチが悪い。そんでもって、絵面もヤバい。
十歳女児を抱きしめて耳や頬を嚙る、二十歳前半男性。
中身はどうあれ、見た目は間違いなく犯罪だ。前世なら現行犯逮捕されるぞ。
そう気を紛らわせる他無い程、現状、私はテンパっていた。
水を取りに行こうとしただけなのに、なんでこんな事に。
恋愛経験に乏しい為、こんなロマンス小説的展開は耐えきれない。
漫画や小説を楽しむのと現実は別物なのだ。
死ぬ! 恥ずか死ぬ! というか、紫白さん具合悪いんじゃないの!?
色んな意味で辞めてくれ!と全力で押し返し、紫白の腕から逃れようともがく。
背後は壁。なら、横に逃げるしかない。
そう考えて、実行に移そうとすれば、退路を塞ぐようにドンと紫白が壁へ片手をついた。
「どうして逃げようとするんです……? 椿は僕が嫌いなんですか?」
月明かりに照らされた紫白は、輝く白銀の髪と切なげな表情が相まって、圧倒される美しさだった。
逃げるに逃げられず、紫白を見つめ返せば、彼は一拍間を置いた後こちらへ手を伸ばし、髪から頬へ手を滑らせていく。
次第に、僅かに空いていた距離も詰められ、彼の温かな唇が再び先程食んだ部分へと触れた。
「ここも……」
耳へ、頬へ。
「ここも……」
瞼へ、鼻先へ。
先程触れなかった場所にも、ひとつずつ、確かめるように触れていく。
顔の至る所へ、優しい口付けが何度も落とさた。
「貴女の全てが愛おしい。僕はこんなにも、貴女のことが好きなのに……」
そして、最後に唇へ柔らかい感触が触れる。
ーーキス、された?
そう、理解するよりも早く、紫白の顔が離れていく。
「ねぇ、椿は、どうすれば僕だけのものになりますか……?」
紫白は悩ましげに告げると、数秒思案した後、熱に浮かされたように呟く。
「……あぁ、分かった。僕のものだと、解る何かをつければ良いんだ」
「え、」
キスの衝撃からかろうじで立ち直り、現状に意識を戻そうとするが、思考は遅れ、何をする気か問おうとした時には、既に紫白の舌が首筋をなぞっていた。
くすぐったくて、身をよじろうとした次の瞬間、首筋を強く吸われる。
「……ッ!?」
ちくりと鋭い痛みが走って、思わず紫白を睨みつけるが、彼は気にした様子もなく、そればかりか満足そうな笑顔を浮かべた。
「ふふ、これで貴女は僕のもの……。だから、どうか……、居なく、ならないで……」
紫白が途切れ途切れにそう呟くと、ぐらりと身体が傾き、肩口に彼の頭が乗る。
見れば、紫白は寝息を立てていた。
「重い……」
のしかかるように全体重が私へ預けられ、このまま押し潰されるかと思った時、ポンっと煙をたてて変化の術が解かれる。
自然に術が解けてしまう程度に、紫白も限界だったらしい。
私に覆い被さるのは先程までの青年では無く、大きくてふわふわの狐だ。
紫白は狐で、元動物。
さっきのは、ただの動物的戯れあいだったのかも知れない。
キスにも深い意味は無いのかも知れない。
酒に酔った勢いでやっただけなのかも……。
そうは思うけれど、さっきの紫白は青年姿で、あれは前世から持ち越した、正真正銘、私のファーストキスだった。
二十歳も越えて、大袈裟なのかも知れない。
だけど、酔った勢いで奪われてしまうのはあまりにも辛く……。
それに、他にも戯れあいとは言い難い事もされたし……。
忍にもらった髪飾りも、壊れてしまった。
彼には、なんと謝れば良いのだろう。
そもそも、どうして紫白はこんな言動に至ったのか。
色々と思う所はあるが、気持ちを落ち着け、勤めて冷静に考えようとする。
だが、思い浮かぶのは、さっきの紫白の表情ばかり。
ーーでも、さっきの紫白、格好良かったな。
まだ温もりと感触が残っている気がして、指先で唇をなぞる。
無意識にそんな仕草をしていた自分に気づき、再び頬がカッと火照った。
「〜〜〜〜っ!」
この羞恥と複雑な感情は、どこにぶつければ良いのだろう。
狐の毛に埋もれながら、私は両手で顔を覆い、身体を打ち震わせるのだった。
紫白さん大暴走。
彼は潜在的にSの気があると思います。




