第三話「狐の青年」
雨上がりの土の匂いが、ふわりと漂ってきた。
辺りは陽が傾いて、空がオレンジ色に染まっている。
晩御飯の心配もあるが、陽が落ちきる前に少しだけ周辺の様子を観察しておきたい。
昨晩は何事も無く無事に過ごせたが、今夜も無事な保証はどこにもないのだ。
何かあった時逃げるためにも、明日からの指針を立てるためにも、状況把握が必要だ。
私は、狐に声をかけた。
「きつねさん、すこしそとにいきたいの。いっしょにきてくれる?」
狐は呼びかけに応えるように、私の隣にくっつくとキリリと前を向いた。
どうやら守ってくれるらしい、頼もしい限りだ。
「えへへ」
ゆっくり頭を撫でて、自然に頬が緩む。
初めこそ警戒していたが、暖めて、ご飯を取ってきてくれて、話を聞いてもらううちに、私はすっかりこの狐に信頼を寄せていた。
何よりかわいいのだ。
前世では、実家も1人暮らしのマンションもペット禁止だったから、動物と寝食をともにすることに憧れていた。
賢いペットとの生活ってこんな感じなのだろうか?
現状の幸せを噛み締めていると、狐がまだ行かないの?と言わんばかりにこちらを見つめてきた。
はぁー、かわいいは正義。
私はもう一度、狐の頭をぽふりと撫でた。
木の虚から外へ出ると、見渡す限りの木、木、木。
昨日は歩くのに必死で途中から足元ばかり見ていたから気づかなかったが、相当深い森のようだ。
雨上がりのせいか、冷たい空気が肌を撫でた。
服が薄いせいもあるな、きっと。
少しだけ、川の中で儀式用の着物を脱ぎ捨てたことを後悔した。
いや、あの場で脱がなきゃ沈んでたし!
だいたい分厚い着物は乾きが悪くて余計に寒かったよね! ポジティブにいこう。
思考を切り替えて、この森について考えてみる。
川の側にあるわけだから、森というより山の中なのだろうか?
それなら、現在地を知るには、高いところに行けばいいのかな。
木登りは……、ダメだ。
幼女の身体で、この高い木を登るのはリスクが高すぎる。
落ちたら死ぬ。
だいたい、中身現代っ子の私は、木登りのやり方を知らない。
山育ちの猛者ならいざしらず、コンクリートジャングルで生きた現代人。実家も、都会ではないが、田舎にもなりきれない微妙な立地だった。木登りする木もなかった。
さて、じゃあ、どうするか。
悩んだ結果、山なんだから、上の方に登って行けばいいのでは?という結論に落ち着いた。
少し坂になっている所を見つけては、少しずつ登って行く。
始めは後ろから不安げについて来ていた狐だったが、途中から私の意図を察したようで、歩きやすい道を選んで、前を歩いてくれている。
しばらく歩くと、視界が開ける場所へ出た。
上を見上げれば、山頂付近であろう場所が伺えた。
どうやら、元々そんなに高くない山だったらしい。
日暮れまでに、元の場所に戻れるかが心配だったが、この分なら、完全に陽が落ちる前に元の場所まで戻れそうだ。
周りを見渡すと、ここよりも高い山がいくつか見えた。
おそらく、幼女のもといた村は、あの辺りにあるのだろう。
下の方を見ると、まだまだ続く一面の緑……川下の方には街や村があるかもと思っていたが、さすがにそんなに簡単にはいかないらしい。
前を歩いていた狐が短く吠えたかと思うと、前方をじっと見つめた後、キュンと伺うようにこちらを見て鳴いた。
どうやら、何かを見つけたようだ。
「わたしなら、だいじょうぶだよ。いっておいで」
ここなら、視界も開けているし、これといった危険もないだろう。
駆け出す狐を眺めながら、改めて辺りを見渡す。
地面に、大きな水溜まりが出来ている。
ふと、思い立って水溜まりを覗き込むと、長い黒髪に赤い瞳の可愛い幼女が映っていた。
将来有望そうな、整った顔立ちだ。
それに、何処かで見たことがある気がする。
……どこでだっけ? 思い出せない。
本当に自分の顔なのか疑問に思って、頬をつねると、水面の幼女も頬をつねった。
痛い。
水面の幼女も痛そうに顔を歪めた。
どうやら、間違いないらしい。
生い立ちのせいか、幼女の顔は気をぬくとすぐ仏頂面になった。
死んだ表情筋を鍛えるべく、百面相をして時間を潰していたが、待てども待てども狐が帰ってこない。
薄暗い森の中は不気味だ。
生き物の気配が全く感じられず、時折吹く風が木の葉を揺する音が、より一層森を不気味に感じさせた。
正直、森に1人は心細いし、けっこう怖い。
狐を探すべく、再び木のしげる方へ足を踏み出して、何かに足を取られた。
眼前に迫る地面に、慌てて手を突こうとするが、間に合わない。
ぶつかる音と共に、鈍い痛みが頭と膝に走った。
「いたい……」
泣きたい気持ちでいっぱいだが、気持ちとは裏腹に、幼女の身体からは一滴も涙が出なかった。
これが、生け贄教育の賜物か……。
泣きたい時に涙を我慢し過ぎると、泣けない身体になるようだ。
本当に、許すまじ、村人。
恐る恐る頭を触ると、大きめのたんこぶが出来ていた。
痛いが、血は出ていないようだ。
脳震盪は怖いが、たんこぶがあるなら大丈夫だろう。
反対に膝からは血が滲んでいる。
水ですすぎたいところだが、川までは遠い。
どうすっかなー…と考えていると、転倒の音を聞きつけたらしい狐が、凄い勢いで駆けてきた。
口には昼に見た果物が咥えられている。
どうやら、夕御飯を取りにいってくれていたようだ。優しい子だ。
狐は果物を地面に置くと、心配そうに近づいて来て、膝の血を舐めた。
「うぇ!? きたないよ。なめないで、きつねさん」
傷に唾液が染みて、ピリピリと痛む。
砂も落ちきってないし、こんなものを舐めてお腹でも壊したら大変だ。
やめて欲しくて引き離そうとするが、ビクともしない。
狐はなおも膝を舐め続けている。
抵抗を続けていると、狐の眉間に皺が寄った。
怒らせてしまったのかと焦れば、どろん、と何処からともなく白い煙が現れる。
突然のことに、その光景を呆然と眺めた。
次第に煙が薄まって、先程まで狐がいたはずの場所には、見知らぬ銀髪の青年がいた。
「……だれ?」
ぽかんと彼を見つめる。
青年はにこりとひとつ笑顔を向けると、ぐっと私を押さえつけ、狐と同じように膝へ舌を這わせ始めた。
跪いて幼女の膝を舐める青年。しかも美形の出現に、私の頭はパニックになる。
暴れようにも動けなくて、私は羞恥で顔を真っ赤に染めながら必死に叫んだ。
「え、ちょ、やめ、やめてください! なんなんですか…! ほんとに、だれ!?……き、きつねさんっ!たすけてぇ〜っ!」
「はい?助けてますよ?」
「え?」
お互いにぽかんと顔を見合わせる。
「染みますか? 大丈夫、きっちり消毒しますから、少し我慢していてくださいね」
固まっていると、青年は再び顔を膝に近づけようとしたので、膝を隠すように手で覆った。
暫し考えて、口を開く。
「…あなた、きつねさんなの?」
「ええ、そうですよ?……ああ、すみません。これじゃあ分からないですよね。これなら、どうでしょう?」
青年は、私を安心させるように優しく微笑み、パチンと指を鳴らす。
すると、先程まではなかった耳と9本の尻尾が姿を現した。
どちらも、少し紫がかった白銀色で、狐の特徴と一致している。
「ほ、ほんとにきつねさんだ…。…じゃあ、やっぱり、おにいさんはきゅうび、なんですか?」
人相手だと、つい畏まってしまう。
「ええ、そうです」
「なら、どうしてわたしがきいたとき、ひとがたになってくれなかったんですか?」
正直、ずっと狐のままだったから、この世界の九尾は人には化けないのだと思って、安心していた部分もあった。
それが、まさかこんな青年だとは。
これまでのスキンシップを思い出して、なんだか居た堪れない気持ちになる。
複雑な心境が顔に出ていたのだろう、狐青年はしゅんと項垂れると、
「人型にならなかったのには、色々と訳がありまして……この姿はお嫌いですか?」
と上目遣いで訊いてきた。
正直、はぐらかされた気はするが、その様子が、狐の時と被って見えて言葉に詰まる。
頭の上の狐耳もしゅんとしていた。
青年男性に抱いていい感情なのか分からないけど、かわいいと思ってしまった。
「きらいじゃ、ないです」
そう告げると、彼は嬉しそうに顔を上げた。
連動して、さっきまで下を向いていた耳と尻尾もピンと上を向いている。
尻尾は喜びを表現するように、素早く揺れ動いていた。
「じゃあ、消毒続けますね。早く手当して、暗くなる前に戻りましょう」
耳と尻尾に気を取られていたせいで、ガードが緩んでいたようだ。
気づくと再び膝を取られていた。
「え、ちょ、やめ…っ!」
「ダメです」
狐青年は、それはもう良い笑顔で笑った。
その後、狐時の比じゃない抵抗をするが、その甲斐無く、狐青年が満足するまで舐められ続けた。
「いやだあぁ〜〜〜っ!!」
森にはしばらく、幼女の悲鳴がこだました。
ようやく、メインヒーローの登場です。
ちなみに、実際の狐は殆ど尻尾を振ったりしないそうです。
此処では、感情を分かりやすくするため、狐時の体の動きは、犬を参考にしています。
(狐は哺乳綱ネコ目イヌ科イヌ亜科の一部 ※Wikipedia調べ)




