第二十五話「もやの真相」
悲鳴をあげる音次郎、困惑する福兵衛、暗い表情の紫白に、どうするか悩む忍。
混沌とする部屋の中、私はまず、音次郎を落ち着かせるため、彼を庇うように福兵衛の前へ立ち塞がった。
「福さん、ごめんね。この子、男の人が苦手なんだ。少し離れてあげて」
「なんと、そうだったのか。それは悪いことをしたな」
さっと距離を離す福兵衛を見届け、音次郎の方へ向き直る。
「大丈夫。この人はお守りを作った人で……その、石の首飾りをくれた人だよ。怖い人じゃないの」
「そ、なの……? でも、その人達……、すごくもやが、付いてる」
「ほう! 儂らの周りにも、もやが見えるのか」
興味深そうに、再び間合いを詰めた福兵衛を押しとどめる。
彼は「すまん、すまん」と元の位置へ戻った。
そして、音次郎へ向けて言葉を掛ける。
「お前は"人間の男"が怖いのかい?」
質問を投げかけられた音次郎は、私の袖を握りしめると、恐る恐る答える。
「……は、い。でも、襲ってくるもやも……怖い、です」
「はっはっは! 正直な童だなあ。ならば、これでどうだ?」
福兵衛がそう言えば、音次郎が息を飲む音がした。
何か変わったのだろうか? 私にはさっぱり分からないのだが……。
首を傾げていると、音次郎が再び口を開いた。
「どう、やったの……? もやが消えるなんて……」
「なに、少し気配を消してみただけだ。だが、やはり、思った通りだな」
不思議そうにする音次郎へ、福兵衛は更に言葉を続ける。
「うむ。お前はいつももやが見えるのだと、椿ちゃんから聞いた。其れはな、妖怪のなりそこない……否、妖怪が生まれる前の状態というのが正しいか。ともかく、そういった類の物だろう」
急に語られたもやの真相に驚く。
もやと言われると、オーラ的な物を想像するし、妖怪の纏うオーラと言えば、妖気ってやつかと思う。
だが、妖気は霊力と同義だと前に聞いた。
霊力は私みたいに、人間も持っているから、それとはまた違うのかな……。
よく分からず、頭を抱えていると、それを見た福兵衛が困ったように笑う。
「そうだなぁ……どう説明すれば良いものか。そもそも、妖怪とはどうやって生まれるのか知っているか?」
音次郎と顔を見合わせる。
どうやってだろうか?
悩んで二人とも口を噤んでいると、これ幸いと忍が部屋に入ってきて話し出す。
「妖怪は人の恐怖や噂、そういったものが寄り集まると自然に生まれるって、うちの父ちゃんが言ってたっす!」
「おお! 忍くん、正解だ。妖怪というのは、人由来の生き物なのだ。分かったか?」
「なんとなく、分かったかも?」
私がそう言って、音次郎も頷く。
しかし、不十分だと思ったのか、福兵衛は首を捻ると更に補足で語り出した。
「例えばだな、厠へ行った時、小窓から覗かれているんじゃないかと思ったことはないか? 急に様子のおかしくなった人間に対して、何かが取り憑いていると噂が立つのを聞いたことは? "もしかすると、何かがいるんじゃないか""何かの所為で変になったに違いない"そういう疑念や恐怖といった負の感情が、儂らを産み出す。恐らくその子は、それがもやという姿で見えるのではなかろうか?」
「なるほど」
さっきよりは、具体的に分かった気がする。
つまり、本来なら何も居ないにもかかわらず、人間が"何かが居る"と考えたことで、その空想が具現化したものが妖怪……ということだろう。
福兵衛は音次郎へ向き合うと、少し声のトーンを落として言う。
「これは、内緒にして欲しいのだが、儂は妖怪だ。もやから生まれたのだから、それを纏っていても不思議ではない。軽く気配を消した事で、表面的なものが見えなくなったのだろう」
音次郎が驚いて、狼狽える。
福兵衛は安心させるように笑うと、もう一言付け加えた。
「最初の話に戻るが、お前は"人間の男"が怖いのだろう? 今目の前に居る"妖怪の男"も怖いかい?」
成る程、福兵衛はもやの話を通じて、それが言いたかったらしい。
音次郎がきょとんと、目を見開く。
先程とは違い、怯えてはいないようだった。
私と福兵衛、忍は、音次郎が口を開くまで、静かに見守ることにした。
ゲームを知る身としては、彼は間違いなく霊力持ちだし、身の内を明かしても問題ないと分かる。
妖の元になるものが見える時点で、一般人でもないし。
しかし、一つだけ懸念があった。
横目で、沈黙する紫白の方を見る。
だが、意外にも彼はこちらへ反対する素振りはなく、だんまりを決め込んでいる。
そうこうするうち、音次郎の声がぽそりと部屋に響いた。
「……怖くない、です。人間の男の人も、襲ってくるもやも怖いけど、あなた達の事は怖くない」
「そうか。なら、まあ、混み合った事情もあるのだろうが、今晩はうちでゆっくり休みなさい。儂は福兵衛という。歓迎するよ、ようこそ我が家へ」
福兵衛は私達の方をちらりと見てから、音次郎へ笑顔を向けた。
音次郎は安心したのか、先程より表情が和らいでいる。
部屋の雰囲気も軽くなり、私は気が緩んで、ふと関係ないことを考えてしまった。
紫白も、もやから生まれたのかな?
そういえば私、自分の生い立ちは話したけど、紫白が昔どうしていたのかは聞いたことないんだよね。
チラリともう一度紫白の方を見れば、彼はぼんやりと宙を見ていた。
なんだか、生気がない。大丈夫か……?
そう考えていると、私の視線に気がついたらしい紫白が、ゆっくりと私の方へ顔を向けた。
「……椿、どうかしましたか?」
「いや、その、紫白ももやから生まれたのかなって、少し気になって」
先程のこともあり、気まずさで声が小さくなってしまったが、紫白はちゃんと聞き取れたらしい。
「もや……何のことです? 僕の産みの親は、普通の狐ですが……っ、ゔぅ……」
紫白はそう言うと、眉を顰めた。
随分と体調が悪そうで、心配になって側へ寄れば、驚いたような顔をされる。何故だ。
というか、何の話か聞いてくる辺り、今までの話もろくに聞いてなかったんじゃ?
「椿ちゃんや、紫白はただの霊力を持った動物だぞ。ただ、長く生きるうち、人に妖だと言われただけなのだよ」
福兵衛から返答が飛んで来た。
妖……というよりは、紫白の過去が気になっただけなのだが、とりあえず礼を告げておく。
人にとって自分と違うもの、怖いものは、すべからく妖怪なのかもしれない。そんな風に思った。
短い会話の間にも、紫白は辛そうな表情を見せる。
今朝と似たような状況に、私は思わず訊ねた。
「大丈夫? また、お酒飲んじゃったの……?」
「……大して飲んでいませんよ」
ぽそりと呟いた紫白に、福兵衛が苦笑する。
「嘘つけ、今日は儂より飲んでおったろうに。だが、気が回らず、すまなかった。部屋まで送ろう、立てるか?」
「……大丈夫ですってば」
福兵衛が心配そうに紫白へ手を差し出すが、彼はその手を無視してそっぽを向いた。
あくまで、自分は大丈夫だと主張したいようだ。
けれど、相変わらず顔色は優れず、口調も普段より弱々しい。
二日酔い上がりの体で、更に飲酒したんだから当然の結果だろう。
福兵衛はそんな紫白を見て、困った様に眉を下げると、私の方へ声をかけた。
「……すまんな、椿ちゃん。紫白を布団へ寝かしつけて来てくれないか? この分では、今日も床で寝てしまうかも知れん。代わりと言っては何だが、この子のことは儂に任せなさい」
そうは言っても、本当にこの場から出て行っていいものか?
悩んで、音次郎の方を見れば、「ぼくなら、大丈夫だから。彼を連れて行ってあげて」と言われた。
頷いて、紫白の方へ向かう。
「紫白、部屋まで送るよ。立てる?」
「自分で戻れます……」
紫白は頑として、大丈夫だと譲らない。
私は仕方なく、言い方を変えた。
「私が紫白の部屋に行きたいの。久しぶりに毛並みを触らせてくれない?」
そうすれば、紫白は少しだけ嬉しそうに頬を緩める。
「それなら……まあ、構いませんが」
「うん、じゃあ行こっか」
******
紫白の手を引くように部屋から出る。
去り際、福兵衛と忍へ、後を頼みますと頭を下げれば、福兵衛は心得たというように親指を立て、忍も任されたとにっかり笑った。
私はありがとうと軽く会釈した後、紫白を連れて廊下へ出る。
閉じた障子の中からは、今までの経緯を話す忍の声や、音次郎を気遣う福兵衛の声が聞こえた。
音次郎も落ち着いているようだ。
結局、音次郎と今後の話も出来ていなければ、福兵衛に音次郎を連れて来た経緯も伝えていない。
本来なら私がやるべきだったのに、忍と福兵衛に丸投げしてしまった感が否めず、申し訳なく思う。
そんなことを考えながら、廊下を進んでいると、急に耳元へ吐息がかかった。
突然の背後からの奇襲に驚いて振り向けば、予想よりも近くに紫白の顔がある。
「っ! ちょっと、紫白……?」
「その姿だと、貴女がいつもより近くに見えますね」
うっそりと囁かれ、思わず後ずさる。
吐息からは、お酒の匂いがした。
「紫白、かなり酔ってるよね?」
「酔ってません」
「……酔っ払いは皆そう言うんだよ」
据わった目できっぱりと告げる紫白を、はいはいと軽くいなし、目的の部屋へ急ぐ。
途中、紫白は同じように何度か立ち止まったが、その度私が引っ張って歩いた。
目的地に着き、障子を開ける。
純和室の中にあるのは、窓際にぽつんと置かれた小さな座卓と灯りの灯っていない行灯が一つのみ。
紫白の部屋は、福兵衛の部屋とは対照的に酷く殺風景だ。
私は紫白へ大人しくしているように告げると、月明かりを頼りに襖を開け、手早く布団を引いた。
そして、ぽんぽんと軽く布団を叩き、入るように促す。
「触ってくれるんじゃないんですか……?」
「紫白が横になったらね」
そう言えば、紫白は渋々布団へ入ろうとして……口を押さえて、呻いた。
慌てて背中を摩る。
「……っ、気持ち、わる……」
「大丈夫……じゃないよね? お水持ってくるよ、待ってて」
台所へ水を入れに行く為、立ち上がろうとすれば、紫白に呼び止められた。
「や、です……。どこへ行くんですか」
「台所へ行くだけだよ。すぐ戻るから」
そう言えば、何が気に入らなかったのか、紫白は縋るように声を荒げる。
「嫌です! 何処にも、行かないで……っ!」
ぐいっと手を引かれバランスを崩して、私は布団の上へ尻餅をついた。
痛た、と腰をさすりながら立ち上がろうとすれば、頭上に影が差す。
不思議に思い見上げると、思い詰めた様な目の紫白が、私に覆い被さるように布団へ手をついた。
普段の彼なら、即座に謝って来そうなものだが、この状況は一体?
酒のせいか、いつもと雰囲気が違う。
「あの、紫白……?」
私がたじろいで、離れて、と言おうとして、更に間合いを詰められる。
ゆっくりと近づく距離に危機感を感じ、じりじりと後退していけば、背中に固いものが当たった。
振り返れば、そこは壁。
「何処を、見ているんですか?」
目の前には、やや不機嫌そうに迫り来る紫白の顔。
もはや、逃げ場はない。
ーーまさかの展開に声が出ず、私は反射的にぎゅっと固く目を閉じた。




