第二十三話「椿と茜音と桜のクッキー」
柳の横を通り過ぎて、大門の下をくぐり、人の流れに歩調を合わせながら、例の裏路地まで歩いて行く。
角を曲がれば、たなびく赤い髪が見えた。
「茜音ちゃん!」
「椿さん……!」
彼女はこちらを振り返ると、美しい顔に微笑みを浮かべる。
「ごめんね、遅かったかな?」
「う、ううん、全然! ……わ、わたしが早く来すぎただけ、気にしないで」
茜音はどもりながらも慌てて否定し、意を決したようにさっとこちらへ包みを差し出す。
「あのっ、これ!」
紙製の包みから甘い匂いが漂ってきて、私はそれが何なのか気づいた。
「あ、もしかして例のクッキー?」
そう問えば、茜音がこくんと頷く。
今食べても良いか訊けば、彼女は更に頷きを繰り返した。
許可を得て、そっと包みを開ける。
中からは、桜の花弁が載せられた美味しそうなクッキーが出て来て、思わず感嘆の声をもらす。
クッキーを口に運べば、サクリと音を立てて口の中でほろほろと崩れた。
桜の花は、塩漬けにされているのだろうか?
塩気によって引き立たった、優しい甘さとバターの風味が口一杯に広がる。
「……すごく美味しい!」
「ほんと……?」
「うん! 茜音ちゃん、お菓子作り上手なんだね」
大きく頷いて褒めれば、彼女の頬がほんのりと色付いた。
「ありがとう、そんなに喜んでもらえて、良かった……」
はにかむ様子を微笑ましく眺めて、私は懐から例の首飾りを取り出す。
「じゃあ、私からはこれ!」
「えぇ……? だ、だめだよ。お礼を渡したかったのに、わたしまで貰うなんて……」
たじろぐ彼女の手に、無理矢理首飾りを押し付ける。
「いいの。茜音ちゃんすごく可愛いし、お近づきの印!」
そう言えば、彼女は「か、可愛くなんて……」と口籠った。いかん、思わず口が滑った。
軽く咳払いをしてから、言葉を続ける。
「……って言うのは冗談。これね、茜音ちゃんの為のお守りなんだ。例のお守りを作ってくれた人が、茜音ちゃんにはこっちの方が効くって渡してくれたの。もやを退けたいって言っていたでしょう……?」
それを聞き、茜音は目を瞬かせた。
「あのお守りを作った人の? すごく嬉しいけど……、本当にいいの……?」
遠慮がちに確認する茜音へ、いいんだよと再度告げれば、彼女は心底嬉しそうな表情で首飾りを握りしめる。
「椿さん……、ほんとに、ありがとう」
「どういたしまして」
にっこりと微笑み返す。
今更だが、"椿さん"呼びに違和感を感じてしまった。
今の私は十歳ぐらい。一方彼女は、十二歳かそれより年上に見える。
成り行きで、"茜音ちゃん"と呼んでしまっていたが、むしろこちらが"茜音さん"と呼ぶべきだったのでは……?
悩んでいると、茜音の表情が段々と強張っていく。
もしかして、またこの前みたいな敵襲か!?
そう思って、急いで辺りを見渡し、耳をすますが何も聞こえない。
何がいるのか訊ねるため、茜音の方を見れば、彼女は蚊の鳴くような声で呟いた。
「あの……、その……、わたし、何か気に触ることでも……」
「へ?」
思いもよらない言葉に、驚いて気の抜けた声が漏れる。
「なんで、そう思ったの?」
さっきまで、和やかに会話していたのに、何がどうしてそういう解釈になったんだ!?
混乱していると、茜音が焦った様子で謝ってきた。
「ご、ごめんなさい! なら、いいの……わたしの勘違い。不快な思いをさせて、本当にごめんなさい」
何度も頭を下げる彼女へ、気にしていないと告げれば、茜音はおどおどしながら顔を上げた。
何が不味かったんだろう……そう考えて、ふと気付く。
もしかして、原因は、私の表情筋か……?
元々、幼女の表情筋は欠落していて、気を抜けばすぐ真顔になっていた。
見方によっては怒っているようにも見える。
これはヤバいと、表情筋のトレーニングはこまめにやっていたし、山田家の面々に気にされたこともなかったから、最近はましになったと思っていたのだが……。
私は、頬をほぐしながら弁明する。
「ごめんなさい、ちょっと考え事をしていたの。私、きっとあなたより年下だから、私も茜音さんって読んだ方がいいのかなって」
それを聞いた彼女は、目を丸くした。
「えっ、いや、そんなの……。好きに呼んでもらえれば……」
「なら、このまま茜音ちゃんって呼ばせてもらうね。だから、よかったら、あなたにも椿ちゃんって呼んで欲しいな」
相手も同じ呼び方なら、こちらも気兼ねせずに済みそうだ。
そう提案してみれば、茜音は照れたように、「じゃ、じゃあ……椿ちゃん」と口にした。
なんだか、いっきに仲良くなれたように感じて、嬉しさに頬が緩む。
今の私は、確実に笑えているに違いない。
紫白や福兵衛がしきりに敬語を嫌う理由が、何となく分かったような気がした。
路地の隅にあった大きな石の上に座り、桜のクッキーをつまみながら、ゆっくりと互いの話をする。
好きなもの、苦手なこと、どの辺に住んでいるのか……。
私ばかり食べるのもどうかと、茜音にもクッキーを勧めれば、彼女も一つ手に取って齧った。
「いつもより、上手に出来たんだ」
そう笑った彼女は、先程より随分と表情が穏やかだ。
他愛ない話に花を咲かせ、会話が弾んで来た頃、私は本題を切り出した。
「茜音ちゃんって、兄弟とかいるの?」
「……うん。兄が一人いるよ」
「そうなんだ! でも、確かに茜音ちゃんは妹っぽいかも」
そうかな?と言って、困ったように笑う茜音の横で、私は内心ガッツポーズを決めた。
ビンゴ!! やったぞ、絶対その人が音次郎だ!
茜音ちゃんと仲良くなりなたいのも本音だが、島原に来た目的は彼だ。
是非とも、居場所を突き止めたい。
私は違和感がないよう、自然を心掛けながら探りを入れる。
「お兄さんも一緒に島原へ?」
「……ううん、島原に兄は居ないよ。別々に暮らしてるんだ」
茜音は、少しだけ表情を曇らせた。
なんか、不味いこと聞いちゃったかな……。
島原で働いているなら、家族とは別々に暮らすことが普通なのかもしれない。
なら、せめて次に茜音ちゃんが音次郎へ会う時に、私も会わせてもらえないだろうか?
「そっか……、ごめん。変なこと訊いちゃったね。あの、出来たらでいいんだけど、もし、次にお兄さんと会うことがあったら、私も会わせて貰えないかな? 茜音ちゃんと仲良くさせて頂いてますって、ご挨拶したいの。……ダメ?」
流石に図々しいよなーと思いつつ、茜音の返事を待つ。
彼女は少し目を伏せた後、少し微笑んで頷いた。
「ありがとう、そんなこと言ってもらったの始めて。兄とは……、最近会っていないけど……もし会う時は、きっと椿ちゃんも誘うね」
「うん! ありがとう」
よし! 言質取った。
今はまだ、音次郎は島原には居ないようだが、ゲーム通りなら、彼も島原で暮らし始めるはず。
当面は、定期的に茜音ちゃんに会って、音次郎の動向を探ることが今後の方針かな。
音次郎と接触する目処が立ち、ほっとしていると、突然背後からすっと手が伸びてきて、手元にあったクッキーが数枚抜き取られた。
びっくりして振り返ると、そこには見覚えのある顔。
「やっほー。このクッキー、すげえ美味いっすね! オイラに隠れて美味しいもの食べるなんて、椿ちゃんも意地悪だな〜」
そう、手をひらつかせながら笑ったのは、忍だった。
「いやいや! やっほーじゃないし、私は意地悪でもない。というか、何でここに?」
今日は、家から一人で出てきたはず。
忍は部屋で作業中だったから、ばれずに抜け出せたと思っていたのだが……。
一体、いつから居た? いや、そもそもいつの間に着いて来てたの??
不思議がる私に、忍は悪びれた様子もなく、へらりと笑う。
「いや、椿ちゃんがまた出て行くのが見えたから、面白そうだなって思って。居たのは、『あ、もしかして例のクッキー?』辺りからっすね。楽しそうにしてたし、これでもオイラなりに気を使って隠れてたんすよ? でも、もうすぐクッキーが無くなりそうだったんで、仕方なく出てきたっす!」
ほぼ最初から居たんじゃん! びっくりだよ。
どこに潜んでいたのか聞けば、忍は向かいの屋根の上を指差した。
あんなバレそうな場所によく隠れてたな。全然分からなかったぞ。
今日は町人風な格好のくせに、忍者らしさが振り切れていらっしゃる。
私が呆けていると、後ろから着物の袖を引かれた。
振り向けば、怯えた様子の茜音と目が合う。
「あの……、この人は?」
「ん、オイラ? オイラは忍。この子の友達っすよ」
クッキーを頬張りながら、軽い口調で告げる忍を見て、茜音は私の後ろからそろりと顔を出し、挨拶をした。
「わたし、は、茜音……です。よろしく……」
「なんでそんなに怯えてるんすか?」
掛けられた言葉に、茜音はビクリと肩を震わせると、申し訳なさそうに言う。
「ヒッ! ごめんなさい……。男の人、苦手で」
「ふーん……?」
胡乱げな視線を寄越した忍を見るなり、茜音は再び私の後ろへ隠れてしまった。
「忍くん、ちょっと離れてあげて?」
彼女を庇えば、忍は渋々といった表情で私達から距離を取る。
「もう、大丈夫だよ。ちょっと遠ざかってもらったから」
背後を振り返って、宥めるために肩を軽くと茜音は安心したように息を吐き出した。
とはいえ、この怯えようは流石に異常だ。
大人の男性相手なら分からなくもないが、忍は今の私とそう変わらない子供の見た目をしている。
過去に何かあったのだろうか?
気になるけど、きっとデリケートな問題だ。
他人が簡単に訊いてはいけないことだろう。
暫しの沈黙。
そして、それを破るように、遠くから誰かを呼ぶ女性の声が聞こえて来る。
「女将さん……? ……あ、その、じゃあわたしはこれで!」
気まずそうな顔をした後、茜音は呼び声の方へと走って行く。
やっべ、次の約束取り付けてない。せっかく見つけた音次郎と接触する機会が!
呼び止めようとするが、茜音の姿はもう小さくなっていた。
慌てて駆け出そうとして、忍に阻まれる。
「忍くん、退いて! 茜音ちゃん見失っちゃう」
「椿ちゃん、多分あの子は今から仕事っすよ? 本当に追いかけるの?」
そう言う忍の目は、いつになく真剣だった。
でも、私だって、必死だ。
「次に会う約束、取り付けてないの! 急がないと」
「分かったっす……。なら、尾行は忍者の専売特許、オイラに任せるっすよ!」
背を向けた忍に、「お願いします!」と声をかけ、私は忍の背を追いかけた。
******
忍先導の元、茜音の背中を追いかける。
私がいるため、屋根の上を歩くのは諦めてくれた。
人混みに上手く混ざりながら、急いで跡をつけて行く。
茜音は"女将さん"と呼んでいた女性を見つけると、一言二言言葉を交わし、連れ立って急ぎ足で歩き出した。
声を掛けるタイミングが掴めず、更に暫く跡をつければ、彼女達はある一件の料亭らしき店の前で止まり、中へと入って行く。
どうやら、ここが茜音の働く店らしい。
忍はざっと周囲を見渡すと、店の横にある庭園の方を指差す。
「着いてきて」
言われるままに進めば、庭園の奥には、店へと続く雨戸があった。
それは少し開いており、容易に侵入出来そうだ。
でも、これって、不法侵入だよね。
不安が胸を過ぎるが、忍はやる気になっているし、今を逃せば茜音ちゃんとはもう会えないかも知れない。
彼女に会い次第、約束を取り付けて、すぐ引き返そう。
そう決意して、内心ドキドキしながら忍の跡に続く。
雨戸は、長い廊下へと続いていた。
時折、ぽつんぽつんとある部屋からは、誰かの吐息が洩れ聞こえて来る。
不思議に思って、耳を済まそうとすれば、何故か忍に止められた。
曰く、「あれはあの子じゃないから、聞いても時間の無駄っすよ」とのこと。
私には分からないが、忍には会話がしっかりと聞き取れていたらしい。
流石、忍者だ。
しばらく黙って歩いていれば、料理を運ぶ人が廊下へやって来て、慌てて身を潜める。
息を忍ばせていると、何処からか口論する声が聞こえた。
「あんた、やっぱりあの子に客はまだ早いんじゃないかい?」
「そんな訳あるか。アイツももう十二だぞ。蕾とはいえ、あの外見だ。いつまでも雑事をやらせるなんて、勿体無いにも程がある」
「だからって、随分と急性じゃないか。もう少し慣れるまで、待ったって……」
声の主は、壮年の男女のようだ。
女が何か意見を言うと、男はそれに対して語気を荒げた。
「黙れ!……あの方は外つ国からの上客だ。アイツが上手くやれば、我が店の安泰は保証される。いや、それ以上に、更なる財を得ることも夢ではない!」
「でも……」
「口答えをするな! あの方はお優しい。きっと、アイツもそれは優しく可愛がって貰える事だろう。この話はこれで終わりだ、わかったな?」
男がぴしゃりと告げ、それっきり静かになった。
会話が終わると同時に、人も通り過ぎていたらしい。
忍に促され、先を急ぐ。
途中、何度か人が通りかかる度に身を隠した。
そんなことを繰り返すうち、丁度良く屋根裏へと続く梯子を発見する。
「このまま廊下を進むより、屋根裏から探す方が安全っすね」
忍は、自分がしんがりを務めるからと、私へ先に登るよう促した。
「……覗かないでね?」
私は今、着物を着用している。
漫画とかでありがちな、べたな展開を予想して思わず言えば、忍は少し顔を赤らめて「言われなくても、見ないっすよ!」と強めに否定した。
そんなに、ムキにならなくてもいいのに。
梯子を無事に登り終え、辺りを見回す。
屋根裏の床は劣化の為か無数の隙間が空いており、人の話し声と共に部屋の光が漏れ出していた。
これなら、茜音ちゃんもすぐに見つかりそうだ。
誤って床を踏み抜かないよう、慎重に進む。
音は……私より忍くんの方が、よく聞き取れるみたいだし、私は穴から下を覗いてみるか。
そう考えて、光に目を寄せようとした時、強く肩を掴まれた。
「ちょっと、何?」
小さく抗議の声を上げれば、忍が「ごめんっす!」と謝った後、ある一つの穴を指差す。
「あ、もしかして、見つけたの?」
そう問えば、忍は軽く頷く。
そっとその穴へ近づき、下を覗き込むと、膳を挟んで向かい合う二人の人影があった。
一人は、先程とは違い髪を結わえた茜音。
もう一人は、客らしき英国人紳士だ。
忍と共に、微かに聞こえる声へ耳を澄ませる。
紳士は見た目によらず、流暢な日本語を話していた。
「茜音、もっと近くへ寄りなさい」
「……っ! は、い……」
「良い子だ。もう、随分と私に慣れてくれたみたいで嬉しいよ。そういえば、昨日あげたバターはどうしたんだい?」
「ぁ、クッキーを作って……、友達にあげました。とても、喜んでくれて……」
あのクッキーの材料、お客さんからの貰い物だったのか。
バターはもしかすると、私が思っているより貴重な物だったのかも知れない。
考えごとをする間にも、彼らの話は進んで行く。
「私の分はないのかぁ……。それは、残念だ。でも、茜音は食べたんだよね……なら、こういうのはどうだい?」
男はそう言うや否や、ドサリと茜音を床へ組み敷いた。
小さな悲鳴が耳を通り抜ける。
は? な、なにこれ、ヤバくない!?
困惑し、忍の方を見れば、彼にしては珍しく、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
悩んでいる間も、茜音は襲われ続けている。
「そう……例えば、君の口の中からクッキーの味を分けて貰う、とかね?」
ねっとりとした男の声に、全身が総毛立つ。
衣擦れの音がして、私は迷わず、茜音を助けるために動いた。
床を突き破るため、術を発動しようとして、忍に制される。
止めないで!と無言で忍を睨みつければ、彼は一瞬考えた後、私をさっと抱き抱え、床に手裏剣を叩きつけた。
ドンガラガッシャーン!
大きな音が鳴り響き、床が落ちる。
男はというと、私達が踏み抜いた天井を諸に受け、伸びてるようだ。
「大丈夫!?」
茜音の方を見ると、彼女は涙を流しながら茫然としていたが、私達に気づいて「どうして……?」と呟いた。
駆け寄ろうとすれば、彼女はあと少しのところで、ふっとその場に倒れこむ。
どうやら、意識を失ったらしい。
慌てて支え起こし、ざっと身体を見れば、傷は一つもついていないようで安心する。
けれど、服は男によって乱され、胸元と裾が大きくはだけていた。
覗く肌からは、予想に反してささやかな胸……いや、寧ろ不自然なほど平らな胸板があった。
違和感を感じて、足元へ視線を向ければ、そこには、白い褌に僅かに盛り上がったモノ。
ーーそう、可愛い顔には不釣り合いな、ナニかがついていた。
「今の物音は何だ!」
「あっちの部屋から聞こえてきたよ」
「あの部屋に居るのは、確か茜音じゃないか?」
「なんだって!? 大丈夫かい! 音次郎!!」
ざわざわと物音を聞きつけた従業員達の声が、近づいてくる。
「椿ちゃん、早く逃げるっすよ! こいつはオイラが抱えるから、とにかく走って!」
忍は固まる私に発破をかけると、茜音を抱えて障子窓から飛び出した。
急いで忍を追いながら、今起こったことを必死に頭の中で整理する。
赤い髪に金の瞳、平らな胸と女子にあるまじきモノ、それに最後に誰かが叫んだその名前。
それらを繋ぎ合わせて、出た結論は。
ーーつまり、茜音ちゃんが、音次郎だったってこと!?




