6 安全地帯はどこですか
その後材料を貰って店を出た瞬間、私は現実に引き戻されたかのような感覚を覚えた。ざわざわという人混みが私の思考をクリアにしていく。
私、雑貨を作れることになったんだよね?
手元には籠がある。家から持ってきたものだ。ぱかりと中を開くときちんと材料が詰まっていた。夢じゃない。
思わずにやにやと笑いそうになって口を押さえる。危ない危ない、人混みで笑いだしたらただの不審者だ。そんなのあのファルカンとかいう男と同じ……
「あれ?」
はたと気づく。そう言えば、あの男がいない。
きょろきょろと周りを見渡すが、いない。
「もしかしてはぐれた?」
私が雑貨屋であれこれしている間にいなくなっていたようだ。今私は完全に一人である。
私は立ち止まって少し考える。
これは────普通にラッキーなのでは?
このまま真っ直ぐ帰れば何事もなく万事解決だし、そもそも街に降りる予定なんてなかったのだ。予想外に良い話に巡り会えたとはいえ、あの男に連れ出されたことが良かったなんて言えない。私が異世界人だとバレて困るのはロイなのに。
あれ? だとしたら働いていいのかな、私?
今更ながらちょっと冷や汗が出てきた。
「いや、そうは言っても雑貨作るだけなら家でもできるし……」
大丈夫大丈夫、とあまり大丈夫ではなさそうな考えを正当化しながら、歩いていた矢先のことだった。
「……あれ?」
ここは──どこだろう。
人混みを避けて歩いていたらいつの間にか裏路地と呼ばれるような場所に入り込んでしまったみたいで、そこには静寂と暗さとうっすらと漂う腐臭が立ち込めていた。
入り込んでしまったとは言っても多分道を一本か二本外れただけなのに、王都っていうのは分からない……というかそもそも道が複雑すぎる。
京都みたいな街並みということは、どこを見ても景色がほとんど変わらないということだ。方向音痴には致命的である。そういえば修学旅行のときも迷った。
田舎の分かりやすさを見習ってほしい。これじゃまるで迷路じゃないか。
とりあえず来た道を戻ろうと踵を返したところで────私は自分の運の悪さを痛感した。
ヤクザ? チンピラ? 不良? どれとも遭遇したことのない私には全く区別がつかないけれど、とにかくそういう人達が歩いてきた。私が今しがた通ろうとした細い道から、三人組で。
喉が喘ぐような吐息をもらす。三人のうちの一人と目が合った。合ってしまった。
「あ? なんだお前」
まずい、と本能が警鐘を鳴らす。
三人組の男が瞬く間に寄ってきて、私の目の前に立つ。視線が高い。声が低い。それだけ取ればロイと同じはずなのに、ロイとは似ても似つかない。彼らは私の心の底までくいこむような獰猛さを秘めていた。
三人のうち一番目つきの悪い黒髪の人が私の顔を覗き込んで睨む。
「見ねー顔だな、あ? こんなとこに女一人で何の用だよ」
「おいおい何いらついてんだよお前、たかが小娘一人に……ははっ、震えてんじゃねえか、なあ?」
染めたような色の金髪の男が笑いながら私の肩にぽんっと手を置いて、びくりと盛大に身体が震えた。彼らの後ろには茶髪で一番若そうに見える男がいる。にやにやと、笑っている。
わけもなく涙が零れそうになって唇を噛んだ。耐えろ、泣いては駄目だ。泣いても目の前の男達にいい口実を与えるだけだ。口実ってなんの口実だろう。恐怖に染まった頭ではそれももう分からないけれど、でも、駄目なのだ。泣くなんて、この人達の前で泣くなんて、そんな弱さが何かしてくれるわけではない。
ぐっと唇を噛み締め下を向いたとき、腕に掛けていた籠にぐんと重みがのった。
「つーか何これ? なんの材料?」
「知らねえよ。女の買うもんなんざ。女なんてのは俺らがあくせく働いてるときにへらへら笑ってるだけなんだからよ。それもどうせどうでもいいもんだろ」
「おっ、気が合いますねー先輩。俺もそう思いますわ」
がっと重みが強くなる。籠が彼らのうちの一人にひっつかまれていた。茶髪の男だ。さっと自分の顔が青ざめるのを感じた。
駄目だ、それだけは駄目だ。
せっかくここで初めての、しかも大好きな仕事ができそうなのに、それをめちゃくちゃにされるなんて──それは、私にとって体を引き裂かれるに等しい痛みだ。
「おい、離せよ」
にやにやした男に言われて首を横に振る。
「だめ、です」
「はあ? 先輩がゆーこー活用してやるって言ってくださってんだよ。離せよ!」
蚊の鳴くような声は遮られてどんと突き飛ばされ、呆気なく私は地面に倒れ込んだ。怒鳴るような大声に恐怖が増大し、身をすくめる。彼らの腕に抱え込まれた籠がゆらゆらと揺れて見える。
「女って奴はこれだからなあ……こんなちまちましたやつ持っててなんになんだよ、あ!? 稼げる体あるんだからそれ使えよ!!」
ぐわんぐわんと視界が揺れているのは胸倉を掴まれているからだ。恐怖が、脳裏に閃く。
『この前も言ったことだろうが! そのちっぽけな脳みそに詰め込むことくらいできんだろ!』
蘇った低い声が脳を揺らして、心臓がぐるりと回る心地がする。突発的に呼吸が浅くなった。
知っている。この次に何が起こるのかを知っている。逃げたいと感情が叫ぶのに、理性はお前が悪いと告げてくる。
「確かに? こいつまあまあ可愛いし、上手くやればたっぷり稼げんだろ」
けらけらと笑う声。どうして笑っているのだろう。どうしてこんなに恐ろしいことをしながら、笑っているのだろう。
怖い。悲しい。嫌だ。怖い。怖い、怖い、怖い。
「じゃあこれはもう要らないっすよね、先輩」
排水を流す穴の上に、男が籠を掲げている。
その瞬間、私の中の何かが爆ぜた。
やめて────!
そのとき私はほとんど考えてなんていなかった。ただただ怖くて、恐ろしさと悲しさと悔しさとがないまぜになって、自分が何をしているのかなんて意識することも出来なかった。
ぼろぼろと涙が溢れて、勢いでどんっと彼らを突き飛ばす。突然の反撃に驚いたのかよろめいた彼らの前で感情が爆発した。
両手を掲げて特大のマッチを擦る動作を行う。瞬間、彼らの目の前に突然炎が吹き出した。
「うわっ!?」
髪の毛を焦がす勢いのそれに思わず籠を足元に落とし、蹴飛ばしてしまった男が、驚愕の表情で見つめてくる。籠は偶然にも私の足元に滑り込んできた。
「何すんだてめえ!」
耳朶を打つ響きが恐怖を呼び起こし、咄嗟に調節ねじを捻った。瞬く間に火は炎になり、大きくなり、青く染まっていく。
「お前──王族っ!?」
男のうちの一人が叫ぶ。恐怖に染まった脳でもしっかり捉えられるほど大きな声だったけれど、認識はしても考えることなんて出来なかった。
罵られた記憶が蘇る。怒鳴られた記憶が閃いては消える。
『愚図が、言われたことくらい出来て当たり前だろうが!』
『簡単なことだろ? なあ……言うの何回目だと思ってんだよ!』
怖い、痛い、苦しい。
振り上げられた手が、がなりたてる声が、私の思考を奪っていく。
どうして私はこんなことをしているのだっけ? どうして、こんなに大きな炎を作っているのだっけ?
思考を全て剥ぎ取る大声が頭の中で一層大きく響いて、私の心は呆気なく支えを失った。
彼らをここから消せば、この嫌な記憶も消えるのだろうか?
ぼんやりと考えて、そのまま大きく膨れ上がった青い玉を彼らの頭上に落とそうとしたとき、
「やめろ、ハル!」
聞きなれた声に私ははっと目を見開いた。唐突に視界が真っ黒に染まり、私の想像力は束の間の眠りにつく。熱を感じなくなり、どうやら炎が消えたらしいと肌で感じる。
「息をしろよ、頼むから……!」
焦りと混乱に満ちた声に私の意識は冷静さを取り戻す。はっと吸い込んだ空気が喉を突いて少しえずいた。
今の今まで息を止めていたのだということに気づいて、急に空恐ろしくなった。いつの間にか目を覆っていた彼の手は外れていて、目の前の青ざめた男達の顔が良く見える。私にひどく怯えた視線を向けているさまがありありと、嫌なくらいに。
「一体全体なんだってんだ、ああ!?」
「なんだよお前、何したんだよ! 今のっ!」
「…………化け物」
「ああ? ごちゃごちゃうるせえな。どうせお前らが先に人でなしなことしてたんだろうがよ。こいつが誰彼構わず攻撃するような奴じゃねえことくらい俺が一番よく知ってんだよ!」
怒鳴り声に体をすくめて、私は彼の腕にすがりついた。私を怖がらせているのは彼だけれど、私の心を落ち着かせているのもまた彼の温度だった。その矛盾が処理しきれなくて溢れた涙がロイの袖を濡らした。
「こいつは精霊とのハーフだ……お前ら、精霊の怒りでも買いたいのか? 好き者だな」
私にとっては理解不能な一言に男達は一斉に青ざめ、気づいたときにはもういなかった。元々あった静けさだけがそこを満たしていた。
「……帰るぞ」
低い声で言われて肩が震える。籠を拾った瞬間、景色がぐにゃりと歪んで頭が軋むように痛んだ。
「っ……!」
頭を押さえた瞬間、目の前にあったのはあの茜色の家だった。どうやら帰ってきたらしい。転移魔法というのだっけか。
座り込んでしまった私に影がさす。ぼんやりと見上げるとものすごい形相のロイと目が合った。
今までのロイは目つきが少し悪くてもそこに恐ろしさなんて感じなかった。けれど今は、今まで出会った誰よりも怖い。
顔がその人の全てじゃないのは、感情は顔の造形に関係がないからだ。優しい感情も悲しい感情も、時として顔の造形を突き抜けてその人の全身から滲み出る。
今、彼は酷く怒っているのだと分かった。それが何より恐ろしい。
「……お前、どうして街に出た」
「それ、は……」
口ごもってしまったのはただ恐ろしかったからなのだけれど、彼はそれを理由が言いにくいからだとでも思ったのかもしれない。凄まじい勢いで怒鳴りはじめた。
「お前は異世界人だとバレたら大変なことになるんだよ! 不安にさせると思って言ってなかったけどな、お前の魔力は王族並みだ! そういう奴は普通王城に行って王に尽くすのが必然なんだ、必須なんだ! お前、あの場に誰か王城で働いてる奴でもいたらどうするつもりだった! 最悪拉致されてたかもしれないんだぞ!」
言葉の猛攻が私を責め立てる。私が悪いのだと、それ見たことかと理性が怒鳴る。びくりと肩が震えた。全身から力が抜ける。
ああ、やめて。怒鳴らないで。お願いだから、怒鳴らないで。怒らないで。
もう嫌だ。
「おい、聞いてるのか! お前が街に出るのはもう少しお前の魔力と技術の精度を磨いてからじゃねえと……って、おい、どうした」
彼の綺麗な声が少し困惑の混じった怒りを伝えてくる。私はうずくまったまま小さく繰り返した。小さく、でも、確かに繰り返した。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「……」
彼が膝をつく音が聞こえる。私はうずくまってるのか跪いて平伏しているのか自分でも分からない姿勢のまま体を震わせた。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。怒らないで、怒鳴らないで。私が悪かったから。
心の中でそればかりを呟く。
「……悪かった。顔上げろよ、俺はお前にそんなことさせたいんじゃねえよ」
困り果てた声が聞こえた気がして、私はひくりと謝るのを辞めた。私が謝ることでロイが困っているのなら、私はどうすればいいんだろう。
「……ごめんなさい」
顔を俯かせたまま頭を上げる。
「だから……!」
ロイの怒りが膨らんだ気配にびくりとまた蹲りかけて、そんな私をロイが慌てて止めた。
「やめろ! 分かった! お前が反省してんのは分かったから!」
その瞬間再び肩を震わせてしまう。ロイはハッと息を呑んだ。そのまましばらく黙り込んだと思ったら、唐突に硬い声が降ってくる。
「……もしかしてお前、怒鳴られんのが怖いのか」
ゆっくりと顔を上げた。
ぼんやりロイの顔を見て、あれ、と思う。いつものロイだ。あの優しい視線が気づかわしげに私を見ている。
おかしいな。私を怒る人の顔はもっと恐ろしくて、もっと濁っていて、こんなに、柔らかくない。
「お、怒って、ないの?」
「怒ってない。もう怒ってない……お前は怒鳴られんのが嫌なんだな」
「嫌って、いうか……ど、怒鳴ったあとは、頭を、叩くでしょ?」
「は……? 誰の話だ、それ」
訝しげに問われて首を捻りながらしどろもどろに答えた。
「お、お父さん───」
私の父は私を怒鳴ったあとに何度も私の頭を叩いてくることがあった。怒鳴り散らして終わることもあったけれど叩かれることも結構あった。だからそれが普通だと思っていたのに、違うのだろうか。
怒鳴られるのは怖い。怒鳴られたら、その次は痛みが来るから。
それは普通の感覚じゃないのだろうか。
ロイの目が見開かれた。
「……そうか」
ひどく静かな声になって、彼はうなだれるようにして黙ってしまった。そのまま数分がすぎ、私がおろおろとし始めたとき、
「悪かった」
ふわりと私の肩を何かが包んだ。
「お前に怒鳴ることはもうしない。一方的に責めたのも悪かった。お前の言い分をきちんと聞いてなかった」
背中をさすっている彼の暖かさが布越しに伝わってくる──抱きしめられているのだ。頭も抱え込まれてぽんぽんと撫でられて、私は安堵からほっと息を吐いた。今までの緊張が一気に溶けて心臓が音を早め始めた。
「お前の家庭の事情はどうだか知らねえしお前の世界も知らねえけど、子供を殴っていい親なんていねえよ。そんなのどんな世界でも共通だろ。それは普通じゃねえんだよ。怒鳴ったからって殴ることはねえ。俺は絶対にそんなことしない。約束する」
「い、痛くないってこと?」
「そうだ。そういうもんだ。お前を怒ることはあっても怪我させることはねえ。絶対だ」
絶対。殴らない。
たった二つの単語を断言されただけなのに心がふっと軽くなった。彼は私の背を撫でさすりながら、ゆっくりと問うた。
「お前、なんで街に出たんだ」
「あ……えっと、ファ、ファルカン? とかいう人に、連れ出されて……」
「……あいつか」
はあ、と長いため息をつく。どうやら本当に知り合いらしい。初日に言っていた同居人だろうか。朝に当のファルカンに言われても気づかなかったことが悔やまれる。あんなにはっきり「同居人」だと言われたのに。
ロイが自分の額をぐりぐりと押して唸った。
「そりゃ悪かった。お前の責任サラサラねえのに怒鳴ったりして。むしろ俺のせいだってのに」
「いや、そんなこと……」
「あるんだよ。あいつのことを教えてなかった俺が悪い。あと寝起きが悪すぎる俺が悪い」
結局悪いのはロイになってしまう。困り果てて口を噤んだ私をロイは笑って慰めた。
「お前が気に病んでどうすんだよ、笑ってろ」
「む、無理……」
「じゃあ寝てろ。お前ちゃんと寝てねえだろ。朝っぱらから連れ出されてあんだけの魔法使ったんだ。無理すんな」
魔力は消費量によっては体力回復のために睡眠が必要になる。確かにちょっと眠い。
ぽんぽんと頭を優しく撫でる手はもしかしなくても私を落ち着かせるためだ。
どうしようもない嬉しさがこみ上げた。私の母はこんなふうに私を助けてくれたことはなかったのに。
「……ロイ、私ベッドまで行くから……」
「うっせえな、いいから寝てろ」
業を煮やしたのか手を額の傍にかざしたロイは魔法を発動した。瞬く間に瞼が落ちる。
ああ、ずるい。
そう思ったけれど、強くなった睡魔には勝てなかった。そのまま意識が深く沈んで、体から力が抜けていった。