憤怒のルビー
7つの罪を集めよ。
罪は宝石となり、頂の冠を飾り光り輝く。
冠が完成し、輪が完成する時。
世界はあなたのものになる。
その子達は冠を持っていた。
飾り一つない質素な冠を完成させることが、その子達の運命。
ある子は七つの大罪を集めよ。
ある子は七つの美徳を集めよ。
ある子は四大元素を集めよ。
ある子は十干を集めよ。
いつから始まったのか、以前にもあったのか、誰にも分からない。
何度も生まれ変わって、冠を完成させるために集め続けるのがその子達の運命。
冠が完成すれば、世界はその子のものになる。
「なにそれ?」
「そういう運命なんだ、僕は」
「小説のネタ?夢?それとも締切間近で頭くるくるぱー?」
真っ白な原稿を前にした男に、女は呆れた顔で笑っていた。
旧いアパートのぼろい一室に、珈琲と煙草の煙が混じって漂っている。女は嫌な顔ひとつせず、頬杖をついて男の話を聞いていた。
売れない小説家もどきの男に惚れたと言い、この狭い部屋で寝食を共にするようになってはや5年。未だに本の1冊さえ作るに至らない甲斐性なしのペンダコが好きと、彼女は男の指をなぞりながら言うのだ。
「本当のことだよ。僕はそういう運命で、7つの大罪を集めないといけない。大罪は宝石になって、僕の冠を飾るんだ」
「冠って、あのわっかのこと?」
女が目線を向けた場所には、棚の隅で埃被った錆色の輪があった。たしかにそれは冠のような形をしているが、錆きった赤茶色に美しさの欠片もない。とても王の頭を飾るものには見えず、ゴミ捨て場に転がっている方がお似合いだ。
「うん、あれが僕の冠。僕の場合は7つの大罪。憤怒、嫉妬、暴食、色欲、傲慢、強欲、怠惰。冠が完成すれば輪が完成して、世界は僕のものになるんだ。それまで何度も死んで産まれて繰り返すんだよ」
「わかった、次回作はファンタジーね」
「…信じてないね」
「冠の輪なんかより、あたしにはもっと大事な輪があるの」
女は指をさすり笑いながら時計を見上げる。そろそろ夕飯時だと呟きつつ、彼女のテリトリーである台所へ向かった。その後ろ姿を見つつ、本当なんだけどな…とつぶやく男は煙草を灰皿に押し付けた。そう言いつつも、その後ろ姿を見つめる顔は微笑みを浮かべ、聞き流しつつも聞いてくれる彼女の声の心地よさに目をつぶる。
「でー?世界を手に入れてどーすんの?」
冷蔵庫を覗きながら聞こえるくぐもった声に、ペンダコの刻まれた指でペンをまわしながら、男はうーんと唸った。360度回転を数度繰り返してから、首をかしげつつ声に出す。
「お金もちとか?」
「ちっちゃ!世界征服とかばーんとしないの?」
「管理めんどくさそうだよ…この部屋の掃除でも大変なのに」
「いつも掃除してるのはあたしでしょ!」
呆れた声はドアを閉める音にかき消され、ラップでくるまれたキャベツが彼女の手に見える。ごろごろじゃがいもに、ちびちび人参、まるまるたまねぎに、ころっとコンソメの素。今日は彼女の得意料理のポトフだ。
彼女の腰回りのサイズに皺がよった緑のエプロンをつけ、後ろで結ぶ仕草も見なれたもの。
「僕××ちゃんのポトフ好きだな。ジャガイモ崩れるくらいほろほろで」
「本当は綺麗な形の方がいいんだろうけど、あたし崩れて味が染みてるのが好きなんだよね」
「僕もー」
世界征服などより、この小さな部屋の小さな日常が、男と女にとっての幸福である。世界を掌握だの、七つの大罪だの、そんな大それたことなど無縁の人生。それが売れない小説家の男と、男と暮らす女の人生だ。
とんとんとん、包丁がまな板を叩く音がこれまた心地よい。
「いっそ神様になって世界を作り直すとか?」
「ゲームで十分でしょそんなの。…あ、ベーコン切れてる。ちょっと買いにいってくる!」
「ベーコンくらいなくてもいいよ?」
「あたしがだめなの!あの塩味と脂が美味しいポトフへの道なんだから!」
エプロンをつけたまま、玄関にぶら下げた買い物袋を手にとり、さっと履けるサンダルに足を通す。
「夕飯までに、ちょっとぐらい原稿進めなさいよ!」
「へいへーい」
扉を開く彼女を背中で見送り、いつものペンを原稿に滑らせる。
自分の冠と、自分の運命は事実だ。他人からすれば証拠などなにもない夢物語だが、自分には不思議な確信があった。それは妄想なのかもしれない。けれど自分は信じている。
7つの宝石を集め、冠を飾り輪が完成した時。世界は僕のものになる、と。
もっとも、7つの大罪を集める方法も、宝石がどんなものなのかも、男は知らない。根拠のない確信はあるが、逆にそれ以外はなにもない。漠然と、自分の運命だけを知っている。
「小説のネタになるかな…」
ぶつぶつと一人呟きながら、暮れていく空の茜色に染まる部屋の中、白い原稿を黒い文字で埋めていく。
今度こそ連載にこぎつけて、彼女にちょっとくらい良い物を食べさせたい、などと煩悩混じりに筆が進む。
キィィィィィィィィ!!!!
けたたましい女の叫び声のような音に、続いて重たい物がぶつかる衝撃音が耳に入る。
「なんだ…?」
窓から外を覗くと、電灯がまだつかない夕暮れの道路の脇で、車が横転していた。今しがた方向を誤ったばかりのそれは、地面にブ残したレーキ痕から摩擦の熱で煙があがっている。土煙を巻き上げたアスファルトに、割れた窓ガラスが散らばりキラキラと夕日に反射していた。
周りに人だかりができ、よくは聞き取れないが警察と救急車を呼んでいるらしい。運転手はどうなったのかは、ここからでは良く見えない。物騒だなぁ、と思い窓を閉めかけた瞬間、それは見えてしまった。
地面に四肢を放りなげた、緑のエプロンの人が。
「嘘だ」
漏れた声は喉をひきつらせて、事実を否定したい思いの言葉がナイフのように脳に刺さる。靴も履かずに靴下のまま玄関を飛び出し、隣近所のおばさまが驚いた顔をしているのも無視して賭けた。
周りに群がる人達を押しのけ、茜色の空に混ざる赤いサイレンと白い車体が見えた。担架からわずかに覗くエプロンに、担架に覆いかぶさったシート。
彼女は赤いエプロンをしていただろうか?あれはなんだ、きっと夕日が赤く見せているんだそうに違いない彼女であるわけがない違うだって彼女はただ買い物しに行っただけでまだ今夜の夕飯も作りかけで―。
「ご家族の方ですか?」
急に耳に飛び込んできた言葉にばっと顔を上げれば、深刻そうな顔をした救急隊員がこちらを見下ろしていた。何度もきっと声をかけていたのだろうが、気付かずいつの間にかしゃがみこんでいたらしい。見下ろした地面に面した白い靴下は、彼女がいつも洗濯してくれているのに、茶色く汚れている。ああ、また怒られてしまう。
「ぁ…はい……あ、いえ、同居、だけで…」
そう言葉にした唇は、そこで止まった。担架から手が見えたから。
―冠の輪なんかより、あたしにはもっと大事な輪があるの-
渡したばかりの指輪が薬指で光っているのが見えてしまったから。
なぜ、自分は一緒についていかなかったんだろう。
なぜ、自分が代わりに買いにいかなかったんだろう。
なぜ、自分は背中で見送ったんだろう。
なぜ、彼女だったんだろう。
なぜ、なぜ、なぜ…。
荒れ狂うのは怒りの焔。どこへも行けず、閉鎖された心の中で燃え続ける恨みの熱。消えず彷徨う心の濁流は、決して止まることを許さず自分の心をなお飲みこみ燃やしつくし、それでも終わってくれはしない。
それは「憤怒」。茜色に染まる世界に赤色が包み込んだ燃えるような色。
憤怒のルビーが、冠を飾った。