毒剣 胡蝶蘭 19
御用猫は、普段の肉体と、生活を取り戻していた。結局、今回の事件も、表沙汰になる事は無く、ただ、一人の女生徒が、馬車の事故に巻き込まれ死亡した、とだけ、生徒達には通達され、それについて注意喚起されるにとどまっていたのだ。
しかし、御用猫は、その後の経緯を知らされていない。いや、アドルパスが、何事かは言っていたような気もするのだが、今の彼は、そういった事に、全く興味を示そうとせず、ただ、その日その日を、無為に過ごしていたのだ。
「ねえ……ちゃんと、聞いてる? 」
「まぁ、なんとなく」
呆れた、と溜め息を零すのは「剣姫」アルタソマイダスである。彼女は、どうにも覇気の無い御用猫を、義娘を遣いに連れ出すと、自分の館に呼び寄せたのだ。
今はこうして向かい合うのだが、目の前の男は、気の無い生返事を繰り返すばかりであり、彼女の入れた秘蔵の紅茶も、湯気を消失して久しいのである。
「とにかく、あの少年は、シファリエル殿下の監督の元、酒番衆の預かりになりました……一先ず、処分される事だけは、無さそうよ」
「そうか……でも、頭は弄られるんだろうな」
「……分かっているとは思うけど、殿下は、相当に無理をされて、この処遇を押し通したのよ、あれ程に危険な技、放置出来るはずも無いわ」
だろうな、と御用猫は、ようやくに茶器を持ち上げる。冷えた紅茶は、しかし、汗ばむ程の陽気に、丁度良い加減ではあるだろうか。
ちらり、と彼は庭に目をやる。今日は、ゆっこ一人で型稽古を行なっているようだ。黒雀は、未だ調子が戻らぬ様子で、マルティエの二階に転がしてある、隣には、みつばちも居るはずだ、両者とも、まるで二日酔いの様な頭痛に悩まされているという、おそらくは、ショー少年も、そうであろう。
先日の戦いでは、黒雀の存在を隠す為に、あえて囮となって貰ったみつばちであるのだ。最近は、損な役回りを押し付けてばかりであるし、もう少し労ってやるべきだとは、御用猫も理解していたのだが。
(いかんな……どうにも、腰が重い)
高級な茶葉であるはずなのだが、彼の舌には、冷たさと、ほのかな苦味だけしか、伝わってこないのだ。甘き想いは、熱とともに霧散したのであろうかと、御用猫は紅茶を諦め、その視線を、目の前の剣姫に戻す。
「それで、話ってのは、それだけか? 」
彼の言葉は、帰宅の意思を表明するものであったのだが。
「……明日は、ゆっこの入学手続きに行くの」
「あぁ、そうか……そういや最初は、そんな話だったな」
流石に、暗殺者がいると承知している学校に、娘を入れる訳にはいかなかったのだ。しかし、アドルパスはともかく、この、目の前の女は、ゆっこの身を案じた、というよりも、彼女を渦中に放り込む事によって、王女の警護が疎かになる事を恐れたのであろう。
「……ゆっこが居ると、貴方の負担が増えていたでしょ? 」
「だから、心を読むなって……なに、ひょっとして、 本当に分かってんの? 」
普段通りの軽口も、何処となく景気の悪い御用猫である。しかし、彼としても、このまま沈んでいる訳にはゆかぬ、と理解はしているのだ。
野良猫は、忘れて生きるのだから。
「……よし、そうだな、明日は懐かしの母校に顔出すか……そうだ、丁度良い、ゆっこが学校に慣れるまで、ショーさまに面倒をみさせよう、イスミをだしに、ちょいと圧をかければ、奴の事だ、きちんとお守りして……」
「……前に、言わなかった? 」
沈んだ心を鼓する為、舌を回す彼の言葉を、アルタソマイダスが遮った。怪訝に思った御用猫が片眉を上げ、彼女を見やると、剣姫の顔には、しかし、見慣れぬ仮面が嵌められていたのだ。
「私は、知りたいだけ……ただ、それだけなの」
「……何を? 」
訝るばかりの御用猫は、彼女の瞳を見詰めるのだ。そこに見える、煙水晶の如き輝きは、確かに、彼の知らぬ色を湛えていただろうか。
「……そうね、とりあえず……今日はご馳走するから、泊まっていくように」
「なんでそうなる」
思わず零れた声には、呆れたような調子が混じっていた。それは、普段の御用猫の色に、近しいものであったのだ。
くすくす、と笑うアルタソマイダスは、まるで少女の様な可憐さで、優雅に立ち上がる。その、線の細い肢体の、どこをどう見ても、彼女が百キロ近い体重だとは、とても信じられぬであろう。
ふわり、と机を廻り、御用猫の隣に移動すると、そのまま椅子に腰掛ける。彼の肩に身を寄せて、その白く嫋やかな指は、ごつごつとした、野良猫の、傷だらけの指に絡ませてくるのだ。
「これは、私のお願いだったもの、お礼をするのは、当然でしょう」
「……いえ、お仕事ですから、お金は頂きますので、どうか、お構いなく」
「それはそれ、これはこれ」
何か楽しそうに、御用猫の手の平を摩るアルタソマイダスは、鼻唄でも歌い始めそうな、良い笑顔を見せていた。
「夫が落ち込んでいるんだもの、元気付けるのは、妻の努めよ」
「被せてくるなぁ」
ついに、御用猫は苦笑を漏らす。彼女がこうして、砕心するのは、例え、それが造り物であったとしても、有り難い事ではあるのだから。
つい、と椅子から伸び上がり、御用猫の顔に唇を寄せると、アルタソマイダスは目を閉じる。これまた、突然で、なんとも雑な事では、あるだろうか。
(……まぁ良いか、折角だし、付き合ってやろう)
彼女の頬に手を添えると、御用猫は顔を傾け、吐息のかかる程に接近させる。僅かに開いた彼女の唇から、白い歯が顔を覗かせていた。
そうだと知ってはいたのだが、久し振りに鼻腔をくすぐる、その甘い香りは、彼の鼓動を、少しばかり急き立てているようで、不覚にも御用猫は、寸刻、演技を忘れた。
「あーっ、おとさん! まだ明るいのに、いけないんですよ! 」
突然に扉を開け放ち、ゆっこが人差し指を、ぶんぶん、と振り回しながら駆け込んで来る。先程から、僅かに隙間を空けて、中の様子を伺っていたのだ。
「おっと、のぞき見とは悪い子だ……でも、お前にはまだ早いから、大きくなってからな」
飛び付いてくる少女を胸に抱え、御用猫は、すっかりと毛並みの良くなったゆっこの頭を、乱暴にかき混ぜた。彼女も、何か消沈した様子の父親を見て、心配をしていたのであろう。
「明日から、学校に行きます、もう、大きいです」
ぐりぐり、と犬の様に顔を擦り付けてくるゆっこは、御用猫に、少しばかり、赤髪の少女を思い起こさせた。
「サクラみたいな事を言うなよ、あんな風になったら……それはそれで、人生楽しそうだな」
いつものように笑う御用猫に安堵したのか、ゆっこは顔を上げ、とびきりの笑顔を見せるのだ。
「ようし、ゆっこのおかげで元気出た……だが、とりあえずは、風呂に行け、そんなんじゃ、学校に行っても友達ができないぞ? 」
先程まで稽古をしていた少女は、少々、汗の匂いを振りまいていた。しかし、元気よく手を挙げるゆっこには、まだまだ、恥じらいの感情は、芽生えていない様子なのである。
ぱたぱた、と走り出る少女の背中を見送ると、御用猫は、ひとつふたつと、大きく深呼吸した。これで、気持ちは切り替わっただろう。
そうでなければ、生きられぬ。
「……ありがとな、アルたそ、ちょいと、気を遣わせたか」
「何事も、経験でしょ……私もね、ゆっこが来てから、すこし、変わったの」
ほう、と御用猫は顎に手をやるのだ。この鉄女が、そう簡単に変わるとも思えなかったのだが。
「だから、続きは、暗くなってから……ね」
きゅっ、と彼の小指を握るアルタソマイダスの表情には、確かに、僅かな恥じらいと、更にその下には、なにか期待のようなものまで、見て取れるような気もするのだ。
(……やはり人は、少しづつ、変わっていくのかな)
いつまでも変わらぬのは、野良猫ばかり、なのである。
御用猫としては、少しだけ、なにか取り残されたような、寂しさも感じるのだが。
(ま、それも、少しづつ、だな)
まことに珍しくも、剣姫に笑みを返し、その手を握り返したのであった。
花のちりぬる学び舎に
今日はいのちの散るを見る
切った張ったの宴が終わりゃ
涙の種から若葉萌ゆ
御用、御用の、御用猫




