毒剣 胡蝶蘭 18
「……なんで、死なないの? 」
夕暮れに沈む公園にて、少女は、何か、信じられないものでも見たかのように、その顔を歪めていたのだ。しかし、これはまさしく、信じられぬ事ではあるだろう、目の前の男には、確かに、致死性の毒針を打ち込んであるのだ、そもそも、三半規管を狂わせる異能の攻撃が、まだ続いている以上、立ち上がる事など、出来ようはずもない。
「さてな……学校じゃ、教えてくれなかったのか? 」
とはいえ、御用猫の足元は、ゆらゆら、と些か怪しいままである。ただ、その眼光だけが、赤い夕陽を跳ね返したかのように、ぎらぎら、と少女に突き刺さっており、彼女は、更に半歩、立ち位置を後ろに下げる。
「……殺すの? 子どもだよ? 女の子だよ? 一緒にお肉、食べたじゃない」
「あぁ、美味かったな……そういや、最後は、そっちの払いだったか……なら」
御用猫は、胸の前で、肩から鞄でも下げるように、斜めに刀身を立て、その棟を左手で支えた。
「こいよ、稽古をつけてやる……遠慮はすんな、これは奢りだ」
必殺の「退風雲」の構えである。
今の状態で満足な斬撃は振るえぬだろうと、彼が選択したのは、身体ごとぶつかり、そのまま押し斬る突進技であった。とはいえ、半ば捨て身の体当たりである、目の前の敵が、暗器遣いの、華奢な少女でなければ、彼の勝ち目は無いに等しいだろうか。
それ程に、御用猫の体調は悪いのだ。
「……ううん、困ったなぁ……ねぇ、猫さん、今回は痛み分けって事で、ね? どうかな? 悪い話じゃ無いでしょ? 猫さんだって、ふらふら、じゃない」
「やめとけ、もう慣れた……船酔いと一緒だ、揺れ方さえ分かれば、ある程度は対処出来る……初見で殺しておかぬから、こうなるのだ、素人め……そうか、その慢心で、里を追われたか」
「そんなの、猫さんくらいのものだよぅ、普通の人間に、出来るわけ無いじゃない、っと」
少女の右手が、滲む様にぼやけると、御用猫の腹に、二本目の針が突き刺さる。つい、と唇を尖らせた少女は、しかし、もう一歩後退するのだ。
「……こっちも効かない……ねぇ、なんで? どうして猫さんは、死なないの? 」
「知りたいか? なら、もう少し近付いてみろよ……そしたら、良く見えるだろうさ」
「ふふ、やぁだ、その手には、乗らないんだからね」
可愛らしい物言いとは裏腹に、少女の額にも、玉の様な汗が滲んでいた。おそらく、暗殺者である彼女にとって、こうして長時間獲物と向き合うのは、初めての体験であろう。
しばし、互いに沈黙のまま、時が流れる。西に傾く太陽は、赤味を増す一方であるのだ。それは、これから流される血の色を暗示したものか。
それは、果たして、どちらの血であるものか。
「……うん、決めた、もう、逃げよう! 」
一度頷き、とん、と僅か後ろに跳ねた少女であったのだが、着地の瞬間、その小さな左右の手には、三本づつの針が握られていたのだ。
「脳天に! 直接ぶっ込んだら! 死ぬんじゃないかなっ! 」
それぞれ、微妙にずらして投げ放たれた針は、五本。最後の一本は、彼女の手に握られたままである。
しかし、御用猫は動かない、いや、動けないのだ。
投擲された針のうち、三本は御用猫の身体に命中し、二本は背後に飛んで行く。そして、残るは一本。
「えいっ」
暗殺者は、投げ針を目眩しに、回り込んで飛びかかる。少々、間の抜けた声と共に、振り下ろされた最後の針は、野良猫の側頭部に打ち込まれ。
そのまま、きん、と弾かれる。
「あれ? 」
カディバ一刀流奥義「退風雲」は、金剛を発動しての体当たり。自らを砲弾と化しての、特攻技であったのだ。
「勢っ!!」
どん、と低い音と共に、至近距離からのぶちかましを受けた少女の身体は、いとも簡単に、宙に舞う。
御用猫は、太刀の切っ先を地面に突き立て身体を支えると、よたよた、と歩き始めるのだ。
転がって呻く少女に、とどめを刺す為に。
「……いたい……いたいよぉ……ひどいよ……猫さん……優しく、してあげたのに……してくれたのに……」
御用猫は、何も答えない。ただ、脇腹から腸をこぼし、恐怖と熱に慄く少女を、フゥーディエを、救ってやりたいと、それだけを考えていた。
「やめて……たすけて……死にたくない……もう、わるいことしないから……おねがいします、おねがい……」
歪む視界は、彼の限界が近い事を告げていた。足を引き摺り、ようやくにフゥーディエの元に辿り着くと、御用猫は、地面から鋼の杖を抜き取り、少女の胸に、狙いを定める。
涙を流し、命乞いを続けていた少女であったが、井上真改二の切っ先が、自身の上で煌めくのを見とめた瞬間に、ふと、その顔に、優しげな笑みを浮かべ、まるで、彼を迎え入れるように、両手を差し出したのだ。
「……いいよ……きて、猫さん……」
ぎぃっ、と脳内に響く、擦るような音は、彼の奥歯から。
次の瞬間、少女は、大きく身体を跳ねさせるような動きを見せた。それが、何であったのかは、分からない。
「……っ、黒雀ッ! 」
何故ならば、少女のこめかみに、黒い死神の暗器針が、深く打ち込まれていたのだから。
「だめ、先生、殺しちゃだめ」
ぺたり、と地面に腰を落としているのは、彼女もまた、異能の影響を受けていたからだろう。御用猫の陰に忍んでいたとはいえ、外部の音を遮断しては、彼の補助は行えなかったのだ。
「黒雀! 何してる、こいつは、俺の……俺の仕事だぞ! 仕事ってのはな、自分の手を、汚さなくちゃ、ならないんだ……お前は、俺を、闇討ち屋にでもするつもりか! 」
我を忘れて怒声をあげ、御用猫は、黒い死神の白いワンピース、その胸元を掴み、捻り上げるように立ち上がらせた。彼が、これ程に激昂するのは、何年振りの事であろうか。
「……それでも、だめ、これは、先生が殺しちゃ、だめ」
彼の怒りを、全く意に介さず、黒雀は御用猫の胸から針を抜き取る。そのまま抱き着くように、背中に手を回し、自ら突き立てた、黒い針も引き抜いてゆく。
これは、黒雀の打ち込んだ対抗毒であった。全くに、無茶な話ではあったのだが、御用猫の立てた作戦とは、騎士の死体から毒の種類を調べ出し、暗殺者に毒針を突き立てられる度、同じだけの対抗毒を、彼の身体に注入して、毒の均衡を保つ、というものだったのだ。
「黒雀……お前は! 」
「はんぶん」
今度こそ、御用猫の身体を、ぎゅう、と抱き締め、黒い死神は、彼の胸に顔を埋める。全身の梵字が、淡く発光し始めたのは、毒消しの呪いであろうか。
「先生、泣いてた、だから、はんぶんこする、つまのつとめ」
御用猫は、確かめるように、自らの頬を撫でるのだが、そこには、乾いた卑しい面の皮、があるばかりなのである。しかし、なんたる事であろうか、この、黒い死神が、生命を奪う事に快楽を覚える、この殺人鬼が、御用猫のこころを案じて、笑わずに、己の手を汚した、というのだから。
(あぁ、これはもう、何も言えぬなぁ……)
御用猫は、ついに脚から力を抜き、夕陽で赤く染まった地面に膝をつく。黒雀にもたれ掛かると、その小さな身体を抱き締め返し、共に支え合うのだ。
「なかないで、先生、わたしは、死なないから、いつもいっしょ、先生を、殺すまで、そばにいる」
「……少しだけ、口説き文句も、上手くなってきたなぁ」
柔らかな黒髪をひと撫でし、御用猫は大きく息を吸い込むと、ゆっくりと吐き出すのだ。
これは、この温かさは、忘れない方が良いであろうか、などと、考えながら。




