うでくらべ 8
「だから、ね、これはお願いなのよ、ジュート」
南町の五番街に、マルティエの亭、という店がある。味にうるさい食通や、小金持ちの集まる小料理屋であるのだが、そこで出される料理は全て、いかにも手の込んだものであり、皆を唸らせる逸品ばかりなのだ。
しかし、彼らは決して、この店を他人に紹介しようとはしない。噂が広まり、客が増える事によって、自らの取り分が減る事を恐れているのだ。
「え、ごめんなさい、いやです、面倒くさいです」
さらに、最近では、彼らに新しい理由が生まれていた。それは、二階へと続く、階段横のテーブルに、いつも陣取る者達を、眺める事なのである。
その、傷面の、やくざな用心棒を中心とした一団は、毎度毎度、賑やかに、楽しげな見世物を提供してくれるのだから。
「今日のは、また、えらい美人だなぁ……誰だっけ? あれ」
「あー……分からん、分からんが、リリィちゃんの顔が、えらい事になっとるな」
「あの子も大変ねぇ、確か、どっかの騎士さまなんだっけ?……このぶんじゃ、引退はまだまだ先よねぇ……あ、今日のお肉、わさびの方が合うわよ」
上品そうな老夫婦と、まだ若い絵描き見習いも、この店の常連客であるのだが、未だ、彼らの正体には、気付いた様子も無いのだ。これは、アルタソマイダスやリリィアドーネにかけられた、認識阻害の呪いの為である。
しかし、彼らはそれに疑問を覚える事もなく、今日も賑やかな隅の客を肴に、マルティエの料理と酒を、五感全てで堪能していたのだ。
「ぐぅ、不義密通だ……破廉恥だ、あんなに張り付いて、なぜ、団長は、いつもいつも……猫も猫だ、あんな、鼻の下を伸ばして……だらしない、いやらしい」
「あの、リリィさん、落ち着いて、お皿、割れちゃいますから」
ぎりぎり、と奥歯と食器を鳴らし、肉に突き立てたフォークを握り締めた彼女は、さんじょうに背中をさすられ、ふぅふぅ、と深呼吸している。しかし、確かに端から見れば、なんとも如何わしい光景にも思えるだろうか。
向こうのテーブルに座る御用猫の隣には、しなだれ掛かるように腰を下ろしたアルタソマイダスの、すらり、と細い脚が、彼の両脚の隙間に差し込まれ、絡み付いている。頬が付くほどに顔を寄せ、何事か囁きながら、彼女は、片手にグラスを、そして反対の手では、横に座る男の、その身体を、艶かしく、まさぐっていたのだから。
「ねぇ、ジュート、これは、命令では無いの、だから、もちろん、断ったっていいのよ? 貴方はテンプル騎士とはいえ、その立場は以前と変わりないって、約束したものね……でもね」
御用猫の額に、ぷつぷつ、と汗が浮かび始める。下半身は完全に固定され、身動きもままならない。
そして、彼の右の脇腹を、背中をなぞり続ける、しなやかな指先は、人間の肉体の重要器官の上で、ぴたり、ぴたり、と動きを止めては、それを破壊する機会を窺っているのだ。
「これは、あの方からの「お願い」なの「名誉騎士の働きに期待する」ですって……この、意味がわかる? 」
「はい、いえ、わかりません」
ふぅ、と、言葉とともに、首筋に吐息がかけられる。その甘い香りは、しかし、御用猫の汗を揮発させ、 背筋から心臓まで、寒気を覚えさせるばかりであるのだ。
「これはね、わがまま、よ、分かるかしら? 分からないでしょうね……あの方に「命を捨てよ」と命じられれば、笑いながら死ぬ騎士は、幾らでも居るのよ……だけど、そうは、しないの、だからね、これは、わがまま、なのよ……ささやかで、可愛らしい……ん、これは、不敬だったかしら」
少しだけ、憂いを帯びた彼女の表情に、御用猫は息を飲む。
(なんだ……こいつは、このような顔を、果たして、見せる女であったか? いや、違うな……なんだ? )
金糸の如く輝く髪と、琥珀色の瞳の彼女は、およそ人並み外れた美しさであろう。ともすれば、この世で一番かも知れない、とすら思う御用猫であったのだが、先程見せたアルタソマイダスの顔には、確かに、感情の色が、垣間見えた気がしたのだが。
御用猫の知る「剣姫」アルタソマイダスは、しかし、仮面の女であるのだ。そのような事が、あろう筈もなかろうか、と、彼は忘れる事にした。
「ま、それは、それとして……受けなさい、さもなければ、殺します」
「うわぁ、直接的にきた」
しかし、仕事の内容が調べ事であるならば、危険を伴うこともあるまいか、と、考え直し、御用猫は、素直に頷いたのだ。
(……そうしなければ、余程に危険だろう)
腎臓の辺りにめり込み始めた、彼女の細い指先の感触に、恐怖を覚えながら。
「ふぎ、みっつう! 」
ばしんばしん、と、テーブルを叩きながら、リリィアドーネが距離を詰めてくる。恐るべき剣鬼が去った後、彼女は即座に隣に陣取り、片言にて抗議してきたのだ。
どうにも、彼女は、御用猫とアルタソマイダスの絡みに対して、少々、過敏なところがある。普段は寛容な女だと主張し、事実、彼の廓遊びなどには、あまり文句を言うこともないのだが。
(女の勘、というやつなのか? 生意気に……生娘のくせに)
「処女で平原のくせに、生意気だ、と考えてごぜーますね」
「だから、心を読むんじゃ……おい、脚色すんな」
ぱしん、と、膝の上の卑しいエルフの頭をはたき、そのまま、すっかり冷めてしまった熱燗に右手を伸ばす御用猫であったのだが。
「……どちらが、脚色なのだ」
がっし、と手首を掴まれ、冷やかな視線を浴びせられる。
しかし、御用猫も慣れたもの、即座に左手で彼女を抱き寄せると、その耳にかかる栗毛を、つつ、と、かき上げ。
「どちらも、そうではあるが……奪われたくなったのなら、俺は、いつでも構わぬのだぞ? 」
そう囁いてしまえば、リリィアドーネは、ぱっ、と身を離し、赤くなって、指先をこすり合わせ始めるのだ。
「……先生、流石に、そういうのは……少し控えた方が、いいんじゃないですか? 」
見るに見兼ねたのか、さんじょうも、困ったような顔で意見してきたのだが。テーブルの下をくぐり移動したチャムパグンが、彼女の足の間から、ひょこり、と顔を覗かせる。
「娘っこ、覚えときな、この力関係は、今だけよ……女が女になったならば、この甘い空気は、二度と戻らぬ……春は一過にして、爪弾きにされる男の、悲哀の、冬の時代はな……死ぬまで続くのだ」
げすげすげす、と笑う卑しいエルフの頭を、何とは無しに撫でながら、しかし、さんじょうは返すのだ。
「そうでしょうか? 私は、旦那さまの事は、ずっと、好きでいると思いますけど……あ」
くノ一としては、あるまじき発言であろうか、一瞬、しまった、といった顔を見せ、さんじょうも、耳まで染めて俯いた。テーブルの下を、再び移動したチャムパグンは、御用猫の膝によじ登ると、彼を見上げる。
「先生ー、御用猫の先生ぇー、こいつ、すげーまともでごぜーますよ……やりにくい」
「だろ、正直、嫁にしたい」
「照れるぜ」
「お前じゃねーよ」
何が楽しいものか、げらげら、と笑い合い、じゃれ合い始めた二人と、赤くなって肩を揺するばかりの二人を、常連達は眺め、そして笑い合う。
こうして、マルティエの時間は流れてゆくのだった。