毒剣 胡蝶蘭 15
「ご無事ですか、坊っちゃま! 」
丈の長いスカートをはためかせ、侍女姿のみつばちが走り寄ってきた。貴族学校では、迎えの者が校内に居るのも不思議では無いのだが、この状況で都合よく駆け込んで来るのは、些か不自然であるかも知れない。
とはいえ、非常事態ではあるのだ、多少の無理は押し通すしかあるまい、と御用猫は膝に力を込める。
「みつばち、エディはどうした」
「は、草蜂が追跡を、あれは素人です、距離さえ取れば、問題ありません」
主人を支える振りをしながら、彼女は小声にて報告する。確かに、エディは異能の遣い手ではあるのだが、その他に関しては、ただの少年であった、尾行するのに、何の心配も無いだろう。
「くそ、足が……みつばち、簪寄越せ」
未だ震える両脚なのだ、先程の、あれ、が、どの様な技なのかは想像もつかぬのだが、兎も角、これでは追い掛けられないだろう。御用猫は、奪い取るように彼女から細い銀製の簪を受け取ると、それを自らの太腿に突き立てる。
「あっ! 」
悲鳴をあげたのは、フゥーディエだった。ショー少年の方は、自分の身に置き換えでもしたのか、歯を食いしばり、顔を顰めている。
「ええい、あまり変わらぬか……まぁ良い、とにかく追うぞ、エディを、あのまま放置はできぬからな」
痛みを与えれば動くようになるかとも思ったのだが、どうやら、暗示の類いでは無さそうだ。御用猫の感覚的には、ホノクラちゃんの瞳術とも異なる技なのだ、もう一度接触する迄に、何か対策を練らなければならないだろう。
「あ、待って、まって、私も行きます! 」
足を引き摺り、歩き始めた御用猫の背中に、フゥーディエが声をかける。
「……お前等は邪魔だ、もう帰れ」
いつも和かであった筈の編入生、その、初めて耳にする、暗く重い声に、フゥーディエと、ショーまでもが肝を冷やしたのだ。もしも眼を向けられていたならば、腰を抜かしていただろう。
「……エディ君の事は、昔から知ってるの、近所だったし、仲も良かったの、だから、何があったかは知らないけど、だけど、きっと、私が話せば、昔の、エディ君に戻ってくれるから」
涙を湛えた瞳には、何か、一歩も引かぬとの、意志が込められていたのだ。そういえば、この少女も、どこか抜けているようでいて、芯の強い娘であっただろうか。
「くそ、俺も行くぞ、奴からは、まだ、謝罪の言葉を聞いていない」
流石に、簪を突き立てるような真似は出来ぬのであろうが、ばしばし、と両脚を叩き、ショー少年も立ち上がる。
「あのなぁ、遊びに行くわけじゃ、無いんだよ、危ないから、子供は早く帰りな……なぁに、心配するな、俺はこう見えて、面倒事が得意なのだ、エディ君は、無事に連れ帰ってやるよ」
御用猫は、呆れたように言うのだが、その口元は緩んでしまっていた。なんと、よく出来た少年少女であろうかと。
「まぁ、骨の三本四本は、ご愛嬌だがな……みつばち、刀寄越せ」
「どうぞ」
ばさり、と彼女はスカートを、大きくたくし上げる。その股の間には、彼の愛刀、井上真改二が、斜めに下げられていた。
「……え、いつも、ここに入れてたの? 」
「はい、私の温もりが伝わるかと」
ぱしん、と彼女の頭を叩き、それを腰のベルトに吊り下げると、御用猫は、どすどす、と大地を踏み鳴らすのだ。ようやくに、足の感覚も戻ってきたようである。
「まぁ、ついて来たいなら、好きにしろ……出来るものならば、な」
一度、二人を振り返ると、御用猫は、にやり、と笑い、そのまま全力疾走を始めたのだ。未だ痺れの取れぬショーと、フゥーディエの足では、この野良猫の健脚に、追い縋る事など出来ようはずも無い。
「あっ、くそ! 猫め! おい、お前、肩を貸せ! 」
フゥーディエを杖代わりに、ショー少年も歩き始めるのだが、前を行く野良猫との距離は、離れる一方であったのだ。
「猫の先生……あれは、あの子供は危険です、処分しましょう」
「却下だ、王女さまのご意向は、生け捕りなんでね」
クロスロードの上町は、閑静なものである。元々、貴族の広い屋敷が並ぶ街並みは人口密度も低く、下町のような、活気ある施設も少ないのだ、こうした会話も、誰かに聞かれる恐れはあるまい。
とはいえ、昼日中にするには、少々、物騒な会話ではあろう。先程の主人の答えに不服だったものか、スカートのままで、器用に疾走するくノ一は、珍しくも、その細面に渋面を造り出すのだ。
「今、里から黄雀を呼び寄せました、この春に実戦投入したばかりの新顔ですが、奴ならば、安全な距離から仕留める事が可能です」
「却下だ、帰ってもらえ」
突如、走る速度を上げたみつばちは、御用猫の前に進み出ると、振り返って両手を広げるのだ。一瞬、押し退けて進もうかと考えた御用猫ではあるのだが、足を止めると、ひとつ、溜め息を吐く。
目の前の女が、自分の身を案じているのだと、知っていたから。
「……みつばちよ、そう心配するな、相手は子供だ、ガンタカの時とは違うのだ、死にはしないし、殺す事も無いんだよ」
「承服しかねます、あれは、ガンタカと同じです、異能の力です、今殺さねば、手の付けられぬ敵となるでしょう……そうなってからでは、遅いのです」
みつばちは、じっ、と御用猫の眼を見つめる。相変わらず、感情の起伏は少ないのだが、その眼だけが、彼女が本気であると、雄弁に語っていた。
「正直に申し上げます、猫の先生は、甘過ぎます、子供だからと、女だからと、手心を加えていては、いつか、先生は、背後から刺される事になるでしょう……それを未然に防ぐのが、私の役目なのです」
「そうか、そうかもな……ありがとうな、みつばち、やはり、お前は良い女だよ……だが、却下だ」
「何故ですか、納得がゆきません」
珍しくも、怒りにも似た、みつばちの表情である。中々に迫力はあるのだが、何故だか御用猫は、我知らず頬を緩めるのだ。
「前に言わなかったか? すっきり、しないんだよ、なんだ、気分が悪いのだ……あいつは素人だ、殺して後悔するのは、いつでも出来るだろう、ならば、一度話してみるべきなのだ……それにな、お前は、危険危険と言うがな」
御用猫は、いつの間にか彼の横に現れた、黒い死神の頭を撫でる。危険と言うならば、彼女こそが危険であろう、しかし、彼の側に立つからには、彼女も同意見であるのだろうか。
「……こいつみたいに、変わるやも知れないだろう? なぁ、黒雀よ」
「うぃ、先生、守る、つまのつとめ、みつばち、心配しすぎ、だから、めかけ」
何か言いかけたみつばちであったのだが、それを、ぐぃ、と飲み込むと、代わりに、大きく息を吐き出した。
「はぁ、了解いたしました……先生が頑固なのは知っていましたし……ですが、誰かが言わねばならないのですからね、分かっていますよね、内助の功ですよ? どうですか、いじらしいでしょう」
「知ってるさ、みつばちには、いつも損な役回りばかりさせてしまうな……そうだ、これが片付いたら、花吹団でも観に行くか」
御用猫の言葉に、一度だけ笑みを返し、女忍者は背景に溶けてゆく。黒雀の方も、配置に戻ったようだ。
「さて、やるか……腕白坊主が取っ捕まる前に、こちらで押さえなければな」
こきこき、と首を鳴らすは格好だけに、御用猫は、再び走り始めたのだ。




