毒剣 胡蝶蘭 14
「あれ、猫さん、今日は……帰らないの? 」
途中で言い淀んだのは「一緒に」という語を挟むのに、躊躇したからであろう。フゥーディエは、席に着いたままの御用猫を見やり、怪訝そうな表情を浮かべるのだ。
「あぁ、ちょいと、野暮用なんだ、寂しいだろうが、一人で帰ってくれよ、気を付けてな」
途端に、いつもの如く、女生徒からの揶揄いを浴びるフゥーディエである。笑いながら逃げ出す同級生を追い掛け、彼女も教室を後にした。
(さて、と……武器が無いのは心許ないが……ま、殺すなとの御達しだ、仕方あるまいか)
がたり、と席を立つ御用猫である。最も、仮に帯刀していたとしても、彼がそれを抜く事は無かったであろう。
例え殺人者だといえども、年端もゆかぬ子供には違いない、問答無用に斬り倒す前に、最後の機会は与えるべきだと、御用猫は考えている。ふと、彼は、野良犬少年の顔を思い出したのだが、即座にかぶりを振って、その記憶を追い払う。
(少しばかり気に入らないが、マーフィーの名前で揺さぶってみるか……もしも、奴が殺したのなら、堪えきれまい)
御用猫の見た所、エディ少年は、あまり感情の制御が得意では無さそうなのだ。しかし、ならば何故、三年近くも、ショーからの暴力に耐えていたのか。
何となく予想はつくのだが、なんにせよ、話してみる他には無いだろう。多感な少年の心など、女性以上に、理解の出来ぬ動きをするのだから。
「はいはい、今日は店仕舞いだ、帰った帰った、大人しく帰らないならば、一人づつ昼飯を吐き出させてやるぞ、どっちにするか、今すぐ選べ」
ぱんぱん、と手を叩きながら現れた御用猫に、週末の恒例行事を始めたばかりの少年少女達が、揃って飛び上がる。
「ぐっ、猫、またか、いい加減に……」
「なんだお前、邪魔すんな! 」
ショー少年が顔を顰め、何かを言う前に、取り巻きの一人が、御用猫に殴り掛かる。見覚えの無い少年であったが、これは、この貴族学校に、毎日通わなくてはならない、という規範が無いからなのだ。
なので、哀れな少年は、身体が浮き上がる程の掌底を腹に受け、くの字に曲がったまま、膝をついて、胃の中身を全て吐き出してしまった。
「あぁ、悪い、力加減を間違えた……水飲んでから帰れよ、頭痛くなるからな、あと、塩分も忘れないように……さ、次は誰だ? 」
呻く少年に手を合わせ、御用猫は、ざわつく虐めっ子達に向き直る。
「はぁ、もういい……お前ら、先に帰れ、俺はこいつと話をつける」
ショーからの指示に、不安そうに顔を見合わせる取り巻き達であったのだが、もう一度彼に、強く促されると、未だ蹲るばかりの少年を抱え、その場から立ち去るのだ。
「意外だな、ショーさま、なんで、一緒に帰らなかったんだ? 」
「……お前が言ったんだろうが、話をしろって」
あぁ、と御用猫は思い出す。確かに、一度、腹を割って話し合え、と提案した事があったのだ。
しかし、これは驚きであろう、あれ程頑なに否定していた、エディとの話し合いを行うというのだから。この少年は、貴族としての矜持よりも、人としての良心が強かったのだ。
先日の、山エルフとの和解の報せも影響しているのかも知れないが、公爵家の男子が、平民との諍いを話し合いで収めようなどと、家に知られれば、痛罵悪罵されても不思議ではあるまい。
「偉いぞ、ショーさま、感心した……いや、これは、冗談では無いのだ、お前に兄貴が居るかは知らないが、もし、サルバット家に跡目争いが起こったなら、俺はショーさまの味方をするよ」
「いらん心配だ! それより、話をするのだろう! 早くしろ、俺は暇では無いのだからな」
少しばかり赤くなった少年は、腕を組んで、視線を逸らした。今から私刑のはずだったろう、と笑いながらも御用猫は、片手を上げて、ひらひら、と動かし、エディの傍にしゃがみ込む。
「さて、ちょいと予定は変わってしまったが……エディ君よ、お前と話がしたいのだ、良いか? 」
肘と膝を地面に着いたままのエディは、背中から、殺気だけを放ちつつ、しかし、微動だにしない。
「まぁ、聞こえているのだろう、ならば聞いてくれ……お前、こうまで、ショーさまに殴られて、何故、我慢している? いつも亀みたいに縮こまって、逃げようともしてないな……何故だ」
「……うるさい……俺に、構うな……」
ぼそぼそ、と下を向いたまま、彼は言葉を漏らす。口の端に血は滲んでいるのだが、今日は、それ程殴られていない筈である、話しづらい訳でもあるまい。
「他にやりようもあっただろうに、何故、そうしなかったのか……当ててやろうか? 理由は二つだ、ひとつは、ショーさまに対して、罪悪感がある、悪い事をしてしまったと、気付いたからだ」
びくり、と少年二人が身体を震わせる。しかし、ショーの方まで驚く事はあるまいに、と御用猫は、心の内に苦笑を漏らすのだ。
「あと……これは、いつからだ、あの時からか、自分を、恐れているな? 抵抗すれば、また、暴発してしまうかも、と思っているな? 抑えきれぬのか、怖いのか」
「違う! 俺は……俺じゃない! 俺はやってないんだ! 」
突如、がば、と顔を上げたエディは、悲痛な面持ちに見えた。ぐにゃり、と顔を歪め、泣いた様な、怒った様な。
「違う……俺は……違う……ちがぁあぁうっ!!」
ひと際、大きく、絞り出す様に、エディは声をあげる。それは、悲鳴であったのだ。
次の瞬間である。すとん、と腰が抜けた様に、ショー少年が、尻餅をついた。
「……なん、だ? 」
御用猫の視界が、ぐにゃり、と歪み、激しい頭痛と、眩暈に襲われる。
(なんだ? 呪い? いや、そんな気配は……いかん、これは……抗えぬ)
平衡感覚を失い、まるで、足の骨が無くなってしまったかのような、錯覚を覚えるのだ。手をついて身体を支えようとしたのだが、それも叶わず、御用猫は肩から地面に倒れ込んだ。
「エディ君! 何してるの! やめて! 」
不意に飛び込んできたのは、フゥーディエの声である。
彼女の声で、正気に戻ったのか、はっ、とした表情を見せた後、エディは背中を向けて走り出す。
「エディ君! 」
駆け寄って御用猫の身体を起こしながらも、フゥーディエが叫ぶのだが、彼は、その声を無視して走り続けたのだ。
「うぅ、なんだ、今のは……」
頭を振りながら、ショー少年が立ち上がろうとするのだが、どうにも、上手くいかない様子である。
(これか、この技で、護衛を殺したのか……いかんな、これは、いかん)
御用猫は、背筋に寒気を感じたのだが、それは、たったいま目にした、異能の絶技にではなく。
これ程に危険な少年を、クロスロードが、生かしてはおかぬだろう、と、いう、予測の為であったのだ。




