毒剣 胡蝶蘭 5
「ちょっと、猫さん、もういい、もういいから! 」
校舎の三階まで駆け上がったところで、ついにフゥーディエの声が湿り始めた。彼女の走る速度に業を煮やした御用猫が、横抱きに抱えたまま走り続けたせいだろう。
「ふぅ、そうだな……もう、五月蝿い姫は撒けただろうか」
気配を消し、窓の木枠から下を覗くが、中庭にサクラの姿は無さそうである。御用猫は、こきこき、と首を鳴らす仕草をするのだが、どうやら、今の若い身体は、思うよりも柔軟であるようだ。
「……フーちゃんよ、さっきの少年は、いつも、ああ、なのか? 」
「さっきのっていうのは、どっちの? 」
「黄色く無い方だ」
「きいろく無いほうかー……エディ君はね、私とおんなじで、平民生まれだし……同じ学級に、ショーさまが居るから」
御用猫に抱かれたまま、少し視線を落とすフゥーディエは、何やら複雑そうな表情を見せるのだ。一日とはいえ今の学級を見ていれば、平民の出だからといって、特段に差別されるとも思えないのだが、そこは、本人にしか分からぬ事情が、あるのやも知れぬ。
「ふぅん、んで、ショーさまってのは? 」
「あ、それが、きいろいほう」
「なるほど」
てくてく、と廊下を進む二人である。足音は一人分であったのだが、休み時間の、しかも離れの校舎には人通りも無く、廊下には床の軋む音だけが響いていた。
「サルバット公爵の孫……あ、いや、今は代替わりしてたっけ……あの歳なら、跡継ぎって訳じゃ無いだろうが、まぁ、それでも幅は利かせてるだろうなぁ」
「くわしいの? 」
「いや、全然」
御用猫は、子供を抱える事に馴れていた為、全く違和感は覚えなかった。彼女の方は、先程の興奮が抜けきらぬのか、それとも少々、抜けているだけなのか、この状態に何か言う訳でも無く、少しづつ増えてきた、すれ違う生徒達の驚きの視線に、首を傾げるばかりであったのだ。
「猫の先生……これは、私の、個人的な意見なのですが」
「何だ? 珍しいな、腹は切らなくて良いから、言ってみろよ」
視界の端にフィオーレとシファリエル王女を捉えたまま、制服姿の御用猫は帰路についていた。みつばちの方は、落ち着いた色の膝丈ワンピースにジャケットと、両手には彼の鞄を抱え、迎えの従者を装っている。
「今回の仕事、私は、乗り気ではありません」
「俺もそうだよ? 」
くい、と首を回したみつばちは、何か文句でも言いたげな目を、一瞬だけ、御用猫に向けたのだが、しかし、直ぐに頬を緩めると、だらしない笑顔にて、歩きながら、両手の鞄を膝で蹴り始める。
「おほん、失礼しました……そもそも、この仕事、危険度が高過ぎます、単純に身の危険というだけでなく、失敗した際の、損が大きいのです……あの女狐、万が一の場合、先生に責任を押し付ける腹積もりやも……」
「それは、考え過ぎではないか? アルたそは、決して腹黒い訳じゃ無い、ある意味、素晴らしく単純な……」
「いーえ! 違いますゥ! 」
珍しく強い調子にて、みつばちは否定するのだ。
「胸の大きい女は、信用なりません、裏表が、あるのですから」
「おま……」
お前には無いよな、と言いかけ、御用猫は口を噤む。いかに男女の機微を知らぬ野良猫とて、これを口にすれば不味いであろう事は、容易に想像がつくのだから。
「……お前が心配する事は無いさ、そもそも、シェニが狙われてると、限った話でも無いのだから」
ロードウィル士官学校での、シファリエル王女の身分は、フィオーレの付き人となっていた。普通の、何処にでもいる、十四歳の黒髪の少女、シェニ ターニー、これが、彼女の仮の姿なのだ。
「なればこそ、お城で、じっ、と、していれば良いのです、ほとぼりが冷めるまで、安全な場所で過ごせば良いだけでしょうに、いや、むしろ、もう学校に行く必要など」
「釣り上げる、つもりじゃないのか? 」
これは、些か乱暴な考えやも知れぬが、王女を餌に、敵が動きを見せたところを押さえる、などという作戦も有り得るだろう。しかし、もしもそうであるならば、これはアルタソマイダスやアドルパスの意見ではあるまい、王宮内の貴族達は、決して一枚岩ではないだろうし、この期に王族の力を削ぐ、といった、けしからぬ企みの妖怪どもが跋扈していたとしても、不思議では無い、充分に考えられる事なのだ。
「だとしても、だとしても、です……あの、腹黒ぼいん狐の、頼み、だというのが、気に入りません」
「そこかよ」
「そこ以外に、何がありましょうや」
一体、何が気に入らぬというのか、リリィアドーネといい、みつばちといい、どうにも、アルタソマイダスの事になると、過剰に反応するようであるのだ。訳も分からぬ御用猫は、やはり、いつものように、忘れる事にした。
「ま、引き受けた以上、こちらの負けさ……だから「請け負い」っていうんだぞ、知ってたか? 」
「知りません、それより、早く帰りましょう、ご飯にして、お風呂にして、私にしましょう」
肩で御用猫を押しながら、みつばちは、早く早く、と催促するのだ。端から見れば、これが主従関係だとは、とても思えぬ光景だろうか。
「いや、しないから、というか、お前、今日は俺の布団に入ってくんなよ? なんか、いつも以上に気持ち悪いから」
「……私に、死ねとおっしゃる? 」
「おっしゃらないから、入ってくんなよ? 絶対だぞ、これは、振りじゃ無いからな? 」
「了解しました」
この時ばかりは、まるで、熟達した女中のように、うやうやしく頭を下げるみつばちであったのだが。
結局、御用猫が根を上げるまで、十七回ほど、寝床に侵入を繰り返したのだった。




