凍剣 雪中行 32
「ん……おはよう、ございます……」
ゆるゆる、と目蓋を持ち上げたサクラが、御用猫に朝の挨拶をしたのは、三日後の夕方であった。少々痩けてしまった頬にも、赤味は戻ってきており、体調の方は良さそうである。
「おっと、まだ横になっておけよ、いま、チャーリーを呼んできてやるからな……腹が減ってるだろう? 」
「誰が、おか……若先生、その呼び方は止めてくださいと、何度も……はぁ、おはようサクラ、お粥で良いですか? すぐに支度してきますからね」
丁度、サクラの様子を伺いに来たのだろうリチャード少年は、御用猫に咎めるような視線と、唇を尖らせ、抗議の意思表示とし、しかし、すぐさま踵を返し、調理場に向かうのだ。足取りが軽いのは、安堵の表れであろうか、彼の方も、肉体的には、既に回復したようであり、昨日の会議でも、辛島ジュートとして、見事な論説を披露していた。
「ゴヨウさん……私、勝負をして、それで……あれ? ……あぁっ! 」
ようやく、記憶の糸が繋がったものか、くわ、と目を見開いたサクラは、身体を起こそうとして、胸の痛みに悶絶するのだ。
「あぁ、ほら、横になっていろと言っただろう、とりあえず、骨は繋がっている、というだけなのだからな」
「あ、はい……ありがとうございます」
いつになく優しげな御用猫の声と、彼女を支える為に、そっと添えられた、大きな手の温もりを感じ、これまた、いつになく従順に、彼女は、それに身をゆだねる。とはいえ、少々、赤味の増した頬を悟られまいと、顔を背けたのは、乙女のささやかな抵抗であったのだろう。
「あの、ゴヨウさん、あれから……」
「サクラぁーっ!」
突然、ずしゃっ、と滑り込む様に、彼女の細い身体に飛び付いたのは、五党座氏族の族長、ナスタチュームであった。驚きと痛みに、身を捩る少女の顔に、涙で濡れた頬を擦り付け、ずびずび、と鼻を鳴らしながら、その名を連呼しているのだ、しかし、その豊満な胸を押し付けられては、サクラの痛みも二倍であろう。
「サクラ、さくらぁ、良かったっちゃ、人間はひ弱じゃから、もう、目を覚まさないかと思ったっちゃ、良かったよぅ、さくらぁ……」
「いたた、ちょっと、やめてください、痛い、ほんとに痛いですから、ご、ゴヨウさん、笑ってないで、助けて」
思わず、御用猫が笑ってしまったのも、無理のない話であろうか、彼には、顔付き合わせては威嚇し合う二人の姿しか、記憶がないのだから。
「はは、すまんすまん……ほら、ナスタっち、サクラが困ってるから、もう離してやれ」
「あい」
なんとも素直に、少女の身体を離すと、ナスタチュームは、ぺたん、と割座にて、その場に腰を下ろした。しかし、何度も涙を拭いながら、サクラの全身を撫で回し、大丈夫か、大丈夫か、と尋ね続けるのだ。
「私は大丈夫です、もう大丈夫ですから……それよりも、聞きたい事が増えました」
怪我のためか、普段の勢いこそ無かったのだが、少女の視線に、やや、剣呑な光が見え隠れし始めた。この目付き、見慣れたものではあるのだが、サクラから向けられるのは、おそらく初めてであろうか。
「はいはい、元気になったのは分かりましたが、まだ安静にしておくように、そんな調子では、また骨が割れてしまいますよ」
あらかじめ作っておいた、トウモロコシ入りの麦粥と、水差しを抱え、リチャード少年が戻ってくる。二人分用意してあるのは、てこてこ、と後ろを付いてくる、卑しいエルフの為であろうか。
「サクラ、さわりだけ説明しますから、食べながら聞いてください」
「あ、あたしがやる、あたしが食べさせるっちゃ! 」
少年から食器を奪い取ると、嫌がるサクラに、ぴったり、と寄り添いながら、ナスタチュームは楽しそうに、匙で掬った粥を冷ましている。なにやら、フィオーレの姿が重なって見えたようで、御用猫とリチャードは、顔を見合わせて笑みを浮かべるのだ。
三日前の死闘の後、大トンネルの半ばで、泣きながらサクラを抱えるナスタチュームに出くわした時には、流石の御用猫も肝を冷やしたのだが、中身はホノクラちゃんであろう、リチャード少年の笑顔を確認すると、安堵の溜息を漏らし、その場に膝をついた。その夜は、皆、疲れ切ってしまったのか、泥の様に眠りに就いたのだが、翌日からは目の回る忙しさであったのだ。
リチャード少年とナスタチュームが、緊急の氏族会議を開く為に招集をかけ、その間に御用猫は、パナップの首を回収して、全氏族に対して、事の経緯を説明した。今回の件は、氏族間の連携と意思の統一不足が招いた事態であると、時間をかけて説き伏せたのだが、当然、山エルフ達からは反発する声も聞こえてきたのだ。
しかし、紛糾する会議の中、立ち上がったナスタチュームに、山エルフ達の視線が集まった。この騒ぎは、全て五党座氏族の起こしたものである、その責任を問う者も居たのだが。
「うちは、間違っとったっちゃ! それは認めるけぇ……でも、間違っちょんのに、誰も、誰もそれを言ってくれなかったんじゃ! こん中には、知ってるもんも、おったんじゃろ? それは、もういけんのじゃ……うちは、仕来りとかも、よう知らん、誰か、教えてくれる人がおらんと、また、まちごうかもしれん……お願いじゃ、助けて……誰か、うち、不安なんじゃ……」
ぽつぽつ、と、涙と共に零したその言葉は、長年心に溜めていた、彼女の、真実の想いであったのだろう。ナスタチュームを責めた族長は口をつぐんで腕を組み、彼女を擁護していた者も、口ばかりで、今まで支える事をしていなかったのだと、目を閉じて黙りこくった。
誰もが気付いた事であろう、山エルフは、全体でひとつの家族だと言いながら、その実、団結などしていなかったのだと。増え過ぎた家族の、その端まで手を差し伸べる事など、今のままでは、およそ不可能だという事に。
「……さて、そろそろ、ボクの仕事だろうかね」
リチャード少年の姿が、黒髪の、妖艶な美女にも見える、黒エルフへと変貌を遂げる。驚きに目を見開いた山エルフ達であったのだが、その中でも、老齢の者達は、彼が何者であるかを、知っているようなのだ。
「……調停者……」
同席していたウンスロホールの声が、会議用の広間に、染みるように響いた。
「……それで? 浮き板は、森エルフに戻されると、そういうことで、良いのですか? 」
「そうだな、あと、氏族会議は、月に一度行う事で落ち着いたよ……まあ、これは、ぼちぼち慣れるしかないだろうけどな……世間話するくらいの気持ちで、気軽にやってみろとは言ってるよ、な? ナスタっち」
「あい」
こくり、と素直に頷くナスタチュームを見て、遂にサクラの眉が吊り上がる。
「また言って!……いたた、くぅ、何ですか、いったい、なんなのですか、呼び方がおかしいでしょう、会議の話は、もう分かりましたから、そちらについて説明を求めます、まずは、その、馴れ馴れしい愛称について、です」
「……なに、と言われても、名前が長いから……なぁ? 」
「あい」
頷き合う二人に、サクラの怒りが、胸の痛みを凌駕した。
「だから! それがおかしいと言っているのです! えぇ、おかしいですとも……リチャード! 説明してください、手早く、明瞭に! 」
「え、それは……僕の口から言うのは、なんというか、憚られるというか、その……」
言葉を濁す少年の表情に、サクラの怒りが加速してゆく、おそらく、彼女は、こう思っているのだろう。騒ぎが起こったとはいえ、勝負は勝負、賭けは賭け、御用猫は約束通りにナスタチュームの所へ行き、そして彼女に手を付けてしまったのだろう、と。
(若先生が、自分の身代わりに、サクラを差し出したのだと知ったら……どう反応するのでしょうか)
目を覚まさないサクラの身を案じるナスタチュームに、これ幸いと御用猫は、賭けを無効にする代償として、少女を介抱する権利をあたえたのだった。甲斐甲斐しくも、付ききりに彼女の世話をするナスタチュームは、日に何度も、彼女の全身を拭きあげる程であったのだ。
視界遮断の呪いを行使する魔力すら残っていなかった少年には、何も出来なかった。せめて、その度に近寄ってくる、御用猫の両眼だけは塞いであげようと、それだけしか、叶わなかったのである。
「あたし、絶対に、クロスロードまで会いに行くからね、山エルフは、中立の立場になって、もう一度、最初から考え直す事にしたっちゃ、猫の先生は偉い騎士じゃけぇ、尊敬しとるんよ、お姫様にも紹介してもらうんじゃ、そん時に、また会おうね、約束っちゃよ」
「はぁ? 話をそらすのですか、そうですか、分かりました、喧嘩を売っているのですね! 良いでしょう、次も同じ結果になるとは思わない事ですよ! 私はいつでも構いません、何だったら、今からでもお相手しますが、しますが! 」
きゃいきゃい、と姦しい少女二人に目を窄め、御用猫は膝の上の卑しいエルフに給餌する。
また、面倒事は増やしてしまったが、今回の旅も、気分良く終われそうではあるのだ。
「……猫の先生よ、ちょっとええか? 」
「ん? ドルジか、どうした」
隣に座ってきたのは、デミドルジラドであった。彼は、懲罰洞に入った若族長と戦士長の代わりに、当面、五党座氏族の戦士長を務める事になっている。
提案したのは御用猫であったのだが、デミドルジラドはいたく感激したようであり、彼の事をナスタチュームと同じく「先生」と呼ぶようになっている。
「いや、ちょっと、思ったんじゃけどな……」
彼の、少々、真面目な顔つきに、御用猫も身構えるのだ。やや、軽い調子のドラゴン男ではあるが、根が真面目な事は、短い付き合いの中でも、充分に理解できていた。
「……ナスタっち、ってなんじゃ? いつからそんな関係になったんじゃ」
「だろうと思ったよ! 」
準備していただけに、御用猫の動きは早かった。すぱん、と頭をはたくと、住居洞の中に、良い音が響き、皆が笑い始める。
(うん、そうだな……色々と面倒はあったが、確かにこれは)
良い旅で、あったのだ。
深い冬山今日越えて
洞の先には春が来る
明日には下る山なれど
うしろ髪引く雪女
御用、御用の、御用猫




