凍剣 雪中行 31
形勢は、なんとも不利であった。そもそも、魔獣たる山ぐまと、ただの人間が真正面から戦い、勝利を収める事が、果たして可能であろうか。
変幻自在に飛び回る巨体からは、玄翁の如き拳が突き出され、まともに受ければ吹き飛ばされるだろう。少々斬りつけたとても、厚い毛皮と脂肪の層に阻まれ、致命傷には及ばない。
(若先生は、一撃で喉を狙え、とおっしゃいましたが……これは確かに、なんとか凌げているのは、雪が無いからでしょう)
足元の雪で、機動を阻害されたならば、既に彼らの命は無かったであろう。この、真砂土が剥き出しの技場で戦えたのは、サクラの手柄である、これは、まことに僥倖であったのだ。
「くそう、ランブル! 許さんけぇね! 絶対に、めいじゃるけぇ! 」
ナスタチュームの方も、苦戦している様子である。彼女の得物は、本来ならば長柄斧だそうであるが、やはり小刀では、野生荒ぶる魔獣を仕留めきれぬのであろう。
山ぐまは、白い剛毛を血で濡らし、更に興奮した様子である。とぅるとぅる、と可愛らしい叫びをあげながら、闇雲に拳を振り回していた。
(ですが、勝機はある……若族長に戦士長、腕は確かなようですが、どうにも詰めが甘い……おそらく、実戦というものに慣れてはいないのでしょう、ならば付け入る隙は、必ずあります)
リチャード少年の見立ては、確かであった。バガジとランブルストンは、山ぐまや野生動物の狩りならば経験しているものの、こうした、命のやり取りについては、素人同然なのである。
余裕があるのか、それとも無いのか、先程から、どうにも手が遅い二人を見て、少年は看破していたのだ。そもそも、本気で暗殺するつもりならば、ナスタチュームとサクラの決闘に斧を投げ込み、有無を言わせず山ぐまで蹂躙すれば良かったのである。
その、どこか現実から離れた甘い考えは、夢想家ならではのものか。
(ここっ)
隣で戦うデミドルジラドと、バガジの距離が離れたのを確認し、好機とばかりに、リチャード少年は、その間に割り込んだ。折しも、戦士長の手から離れた飛び魚は、回転しながら飛来し、少年を追ってきた山ぐまの肩口にめり込むのだ。
「ひぃーひぃいぃー! 」
まるで、子供のような高い悲鳴は、少々耳障りではあったのだが、もちろん少年は、そんな事で足を止めない。
「ドルジさん、相手を変えます! 」
「おっ? おおっ! 」
即座に理解したのか、デミドルジラドが、負傷した山ぐまに槍を突き込む。なんだかんだと言いつつも、彼はバガジに対して、何か遠慮のようなものが見て取れたのだ、たとえ敵対したとしても、家族意識の強い山エルフである、同胞に剣を向けるのは、やはり、躊躇われるのであろう。
それに、相性の問題もあるのだ、戦い慣れた山ぐま相手ならば、山エルフに任せるのが正解だろう。
「からしまめ、じゅーとめ、おれがやるぞ、もどれ、とびうおよ! 」
山ぐまの肩にめり込んだ銀の斧は、掛け声と共に、べりべり、と引き剥がされる。一体、どのような呪いであるのか、一気に加速し、空に舞い上がるのだ。
「くるぶし、斧を! 」
彼の命令よりも早く、飛び上がった月狼は、斧の飛び端を咥えて、地面に押さえる。見事に息の合った連携は、魂が繋がっていればこそであろう。
ホノクラちゃんが呪いを込めた、その斧の、凄まじい引力に引き摺られながらも、くるぶしは四肢を踏ん張り、必死に耐える。その隙に間合いを詰める少年に、バガジは左手の小剣を突き出し、迎え撃つ構えだ。
「おのれ、くるがいい、ためしてみろ、この、むてきのよろいを! 」
「散れっ!」
次の瞬間、五党座氏族の戦士長は目を剥いた。
目の前の金髪の人間が、何か言葉を発した瞬間に、自らの身体を覆っていた筈の銀色の鎧が、まるで熟しきった果実のように、周囲に四散してしまったのだから。
「なんっ!?」
「はあぁぁぁっ! 」
大きく木剣を振りかぶる、目の前の人間は、大した剣力の持ち主とは思えなかった。そもそも、非力な人間種なのだ、鎧が弾けたのは想定外ではあるのだが、このような踏み込みならば、簡単に打ち払えるであろう。
(森エルフの道具に頼ったのが、そもそも間違いだったんじゃ、森の銀より山の銀、やはり、無敵の鎧は、うちのが一番じゃけぇ)
軽くいなして、肩から体当たり、そして、突き放した所で、叩き斬る。邪魔な狼も、族長も、幼少期から煩く絡まれた、隣の悪童も、全て、始末するのだ。
(俺は、もう、べそかきのバガジじゃ無ぇ! 偉大な戦士長になる、山を降りた兄ちゃんに、負けないような、立派な、男になるんじゃ! )
丸めた頭は、彼の決意の証である。間違いだと知りつつも、ランブルストンに協力したのは、ただ、強くある為に。
「ちえぃ、すとおぉぉっ!!」
しかし、彼の決意を上回るのは、リチャード少年の覚悟であった。木剣とは思えぬ斬れ味の一撃は、掲げた小剣ごとに、バガジの右腕を斬り飛ばす。
「あ、おぁっ! はあぁあぁぁ」
そのままの勢いに、リチャード少年のぶちかましを食らい、倒れ込んだバガジは、傷口を押さえてのたうち回る。
「バガジっ! この、使えん奴っちゃ! 」
歯を剥いて吐き捨て、ランブルストンは、自らの手の平を、小剣にて斬りつける。
「不味いね、もう一匹、呼び寄せるつもりだよ……あんな無茶をして、これ以上寿命を縮めるつもりなのかな」
「やらせません! 」
表に現れたホノクラちゃんの警告に、リチャード少年は、山エルフの若族長に向けて走り出すのだが、今一歩及ばなかったようである。悠々と雪壁を飛び越え、他の二匹よりも、ふた回りは巨大な山ぐまが、彼の正面に飛び降りてきた。
「くっ、これは……」
足を止めて、少年は身構える。目の前の山ぐまからは、何やら威圧感の様なものさえ覚えるのだ、これは、ただの魔獣ではあるまい。
「ひひ、やれ、メロウリンク……皆殺しじゃ、これは、盟約じゃけぇの、五党座族長の、ランブルストンが命じるんじゃけぇ……ちゃんと! やれえや! 」
「ばるばるばる」
天に吠えるのは、体長三メートルを超える、規格外の山ぐまである。強引な召喚と引き換えに、急速に老化してしまったランブルストンは、ウンスロホールの様に白くなった体毛を振り乱し、皺の寄った口から唾液を溢しながら、檄を飛ばすのだ。
「集えっ! 」
少年の叫びに、散っていった浮き板が乱舞し、新たな主人を銀色に染める。
「なっふ」
すっかり縮んでしまったくるぶしも、飛び魚を引きずって駆け寄ってきた、取り敢えずは、完全武装のリチャード少年であったが、流石に、目の前の化け物の巨碗を、正面から受け止めよう、などとは思わない。
「ばるるぅ」
振り下ろされた鉄槌を、横っ跳びに回避する。ホノクラちゃんから真言を教わった浮き板であるが、これ程に激しく動いても、それを阻害する事はないのだ、まるで重さを感じぬ鎧は、確かに、至宝と呼ぶに相応しい性能であろうか。
「穿て! 」
少年の言葉に反応し、その手から離れた飛び魚は、バガジが扱っていた時の様に回転はせず、真っ直ぐに飛び、斧先の槍部を、山ぐまの胸に突き立てた。緩やかな曲面をみせる斧刃の翼は、確かに飛魚を連想させるであろうか。
「ひぃい、うひぃ! 」
めり込んだ銀斧を片手で引き抜き、痛みと怒りに狂う山ぐまは、憎き敵にむけ、突進するのだ。充血した眼をぎらつかせ、大地を揺らし四つ脚で駆ける姿には、流石の少年も、僅かばかり恐怖を覚える。
「リチャード君、残念ながら、魔力が足りないようだね……普段ならば、撃ち抜けたろうに」
ホノクラちゃんの指摘に、少年は歯噛みする。先程から、少々力を使い過ぎたのだ、とはいえ、無駄な事は一切していなかったのだ、これは仕方のない事とはいえ、彼は己の力不足を痛感するばかりである。
「……手助けは、出来ないよ? 」
「いえ、必要、ありません! 」
再び飛び避け、地面を転がりながら、少年は叫ぶ。体勢を立て直す前に、山ぐまが襲ってきたが、顔面に取り付いたくるぶしが時間を稼いでくれた。
「くるぶし! 無理はしないで! 」
呼吸を整え、リチャード少年は構えを見せる。左半身に足を開き、木剣の握りは顔の横、切っ先は真っ直ぐ、山ぐまに向けていた。
必殺の、捻り月、の構えである。
「いいか、狙うときは、喉を突け」
リチャード少年の脳内に、彼の敬愛する、師の言葉がよぎる。後半部分は、あえて思い起こさなかった。
(了解です、若先生……願わくば、僕の剣に、貴方のような、猛々しさを)
木剣にかけた「人魚刀」の呪いは、既に効力を失っているだろう。魔力が尽きかけ、意識を繋ぐ事に精一杯の少年に、どこまで出来るのかは分からない、しかし、後方にはサクラもいるのだ。
(ナスタチュームさんにも、デミドルジラドさんにも余裕は無い……僕が、やります、若先生の代わりに、サクラを、皆を守ります! )
牙を剥き、メロウリンクと呼ばれた、名持ちの山ぐまが突進してきた。しかし、月狼とは違い、刃を弾く体毛は無いのだ、あの勢いを利用すれば、木剣であろうと、急所を貫ける筈なのである。
「ですから、若先生、僕に……力を貸してくださいッ! 」
「おっけー、うふふ」
聞こえてきたのは、天使の声か、それとも悪魔の囁きか。
「鋭ッ!!」
どずっ、と重い音と共に、両者は激突する。しかし、浮き板のおかげか、予想していたような、我が身が砕ける程の衝撃はない。
吹き飛ばされた少年は、ごろごろ、と回転し、なんとか身を起こしたのだが、その目の前に、山ぐまが迫っていた。
口から泡を吹き、白目を剥いて。
どう、と倒れた山の主は、うなじの辺りから木剣を生やし、だくだく、と血を流しながら、その生涯に幕を下ろしたのた。
ランブルストンは、その光景を目の当たりにして、失神したようであり、何とか首を巡らせた少年の視線の先では、ナスタチュームとデミドルジラドが、協力して、なんとか最後の山ぐまを仕留めたところであった。最初に、片方を手負いにした事が、勝負の分かれ目であったのだろう。
「……大したものさ、リチャード君、これは、お世辞では無いからね……あとはボクの役目だから、まぁ、ゆっくり、休むと良いよ」
「そう……させて、いただき……」
既に現界を超えていたであろう、この若き勇者は、しかし、安堵と共に、魂を眠りにつかせたのであった。




