凍剣 雪中行 30
(……消えた? なんだ? 何処だ? 馬鹿な、隠れる場所など……)
広大な雪海に漂いながら、パナップは顔を顰める。先ほどの御用猫と、同じ感想であったのだが、しかし、これは無理からぬ事であろうか。
転生の際に、彼の主人から授かった異能の呪術、この「雪中行」は、自身の存在を雪に溶かし、それと一体化する事により、完璧に気配を断つ事が出来るのだ。
雪上の敵は、まさに、彼の腹の上、掌の内であり、その感覚から逃れる為には。
(このような……空でも飛ばぬ限り、あり得ぬ……御用猫が呪いを使う、などと、聞いてはおらぬが……いや、しかし)
確かに、空中浮遊の呪いも存在はしているのだ。とはいえ、それは軽量化の呪いの極みであり、それ程の遣い手など、エルフ族の長老か、隠遁する伝説の大賢者か、もしくは、彼の主人くらいであろう。
(薄汚い賞金稼ぎ風情に、使える呪いではない、ならば、別の手段で? ……考え難いが、そうとしか思えぬ、これは、一度、目視するしか……)
しかし、こうなれば迂闊に浮上する訳にもいかないだろう、方法は分からぬが、自ら気配を絶ったならば、こちらを待ち伏せしているに違いないのだ。今迄は、雪中に身を隠され、どうにもならぬと悲嘆に暮れる獲物を、甚振るように殺してきた彼である、このような状況は初めてであり。
(えぇい、なんと面倒な、野良猫如きが梃摺らせおって……面倒、面倒くさい)
それ、が不安からくる苛立ちだとは、未だ気付いておらぬ様子であったのだ。
パナップは、雪の海を泳いで移動する。念の為に街道を離れ、脇の一段高い場所から、御用猫の姿を探そうと考えたのだ。
もこり、と雪を掻き分け、彼は首を出す。ひょっとすれば、御用猫の姿は、もう、そこには無いやも知れぬ、と考えながら。
(そう言えば、奴はおかしな生き物を連れていた、まるで気にしていなかったが、あれは、空を飛ぶ類の……いや、しかし、あのような丸鳥に、人間を運ぶ事が出来よう筈もないだろう)
その、彼の予想は当たっていた。御用猫は、翼を生やして宙に舞った訳では無かったのだ。
忽然と、気配の消えたその場所に、今も佇み、微動だにせず。
ひとつだけ、違いがあるとすれば、手にしていた筈の、太刀が消えている。
「はれ、なんで」
パナップの口から、思わず、間の抜けた声が漏れた。
いや、漏れたのは声だけでは無い、喉から空気と、どろり、とした、しかし冷たい赤血。御用猫が手にしていた筈の太刀は、今、彼の喉から生えている。
「……ようやく、出てきたか、もぐら野郎……危うく、死ぬ所だったぞ」
顔を歪めて、御用猫が笑う。苦しげな表情であったが、その瞳だけが、ぎらぎら、と輝き、パナップは、野良猫というよりも、もっと獰猛で、恐ろしげな、肉食獣を連想するのだ。
「ぐっ、ごぼっ……おのぉれ、こんな事が……」
我に返ったパナップは、喉から太刀を引き抜き、最後の力を振り絞って、再び雪中に消えんとす。
だが、溢れ出た泥の血は、どうやら、余計な混ざりものであったようで、御用猫の足元に迫る、蛇の様にのたくった赤い道筋は、パナップの居場所を、明確に示していたのだ。
雪面から、筍の如くに飛び出す刃を、跳び上がって回避すると、御用猫は、落下する勢いのまま、脇差を地面に突き立てた。
「鋭ッ! 」
鈍い、くぐもった音と、骨を断ち割る確かな感触。御用猫は脇差を捏ねる様に持ち上げ、パナップを白海から引き摺り上げる。
腰まで露わにしたところで、パナップの首が半分に裂け、彼の身体は、どう、と雪に伏せた。
「うごご……どうして……どうやって、きえたのだ……」
無垢な白雪を赤黒く汚しながら、パナップは、ぎょろり、と御用猫に、赤い眼だけを向ける。
「……いっぺん死んでるからな、死人の技も出来ようかと、真似をしてみたのだが……案外、悪く無かったろう? 」
いつぞや目にした、ガンタカの技には及ばぬであろうが、これは、詰まるところ「死んだふり」なのであった。御用猫が一度、死を体験した事で、真実味が増したのだろうか。
「サーラ、さま……なんと、おわ、び……もうし……」
「……良かったな、もう、そんな面倒事とは、おさらばできるぞ」
御用猫が首を刎ねると、途端にパナップの身体から全ての血が蒸発してゆく。焦臭に似た不快な臭いを残し、泥鬼は干涸らびていった。
全身に重くのし掛かる倦怠感は、まるで、仲間を逃すまいと、地獄の亡者が纏わり付いているかのようで、御用猫の気を参らせる。頭を振ってそれを払うと、彼は太刀を拾い、腰に戻してから深呼吸をひとつ、ふたつ。
(リチャードに任せているのだ、大丈夫だとは思うが……のんびり歩いて戻ったのでは、サクラが五月蝿いだろうからな)
自身の心に、そう言い訳し、彼は、ドワーフの大トンネルを走破すべく走り出す。
パナップの首は、この際後回しで良いだろう、などと考えながら。




