凍剣 雪中行 29
「サクラっ!」
駆け寄ったリチャード少年は、即座に呪いを脳内で組み立てる。既に意識を失った少女の胸に手をやり、肉体の破損状況を精査するのだ。
(裂傷は大した事ない、だけど、胸骨が完全に、ばらばら、だ……内臓が破裂していないのだけが救いか……)
手の平から流し込んだ魔力は、骨を持ち上げ、支える事に使用した。どのみち、彼の呪いでは、ここまで砕けてしまった骨の再生など不可能である、今は、少女の命を繋ぐ事だけに、専念する他はない。
「おい、バガジ、なにやっちょる、餓鬼も生きちょるじゃないけぇや、大概にせぇよ」
「てごたえがおかしかった、まじないだ、みえざるたてだ、おのれ、いつしこんだのか」
少年が用意していたのは、万が一に備えた「操り丸盾」の呪いであった。これは、強度不足から実戦に使えぬリチャードの「見えざる盾」の代わりに、チャムパグンから習ったものであり、精密な操作が必要であるものの、強固に圧縮された小盾は、ダラーンの呪いにも匹敵する堅牢さを誇るのだ。
(若先生に言われたときには、流石に、過保護に過ぎるとも思いましたが……ひょっとして、こうなる事も、想定されていたのでしょうか)
この呪いを、密かに用意してゆけ、と指示したのは、御用猫であったのだ。普段は、何かにつけて魔力を温存しろ、と繰りかえ巻きかえ言う彼にしては、なんとも、珍しい事であった。
(いくら、サクラの身を案じているにしても、木剣での手合いにこれは……)
その場では、少々やっかみ、口を尖らせた少年であったのだが、こうなると、考えが足らぬのは己であったか、と今は自省するのだ。
「辛島ジュートの仕業か、呪い使いじゃったか」
「おれが、やる、ためしてやるぞ」
禿頭の山エルフが、外套を脱ぎ捨てる。下から現れたのは、銀色に輝く全身鎧、森エルフの至宝「浮き板」であった。
しかし、少年が目に留めたのは、右手に握られた、両刃の斧の方である、三日月型の刃を二つ、八の字に取り付けた銀色の戦斧は、山エルフの至宝「飛び魚」である、これが、先ほどサクラを襲った凶器なのだ。
「ランブル! 何しとるっちゃ! なんの真似っちゃ、これは! 」
尻餅をついて、しばし呆けていたナスタチュームが、はっ、と、したように立ち上がり、老け顔の若族長に向けて、荒げた声を投げ付ける。
「もおえぇんじゃ、お前は死んどけ、もっと早よう……いや、最初から、殺しちょくべきじゃった……貰いっ子なんぞを族長にしたから、祖霊様から、ばち、が当たったんじゃ」
「何じゃと! おとんの決めた事を、馬鹿にするんか! 」
「もう、いい、おれがやるぞ、ぜんいんやるぞ、ためすのだ」
右手に銀斧、左手に小剣を握り、バガジが突進してくる。無手のナスタチュームでは、止めようが無いだろう。
「待てぇや! お前の相手は、俺じゃけぇ」
そこへ割り込んだのは、デミドルジラドであった。自慢の槍を横に振るい、バガジを威嚇すると、一騎打ちへと持ち込むのだ。
「昔から、へたれじゃとは思っちょったが、まさか屑じゃったとは、知らんかったのぅ! 」
鋭く突き込んだ穂先は、蛇のようにしなり、バガジの肩口を捉えたのだが、きぃん、と金属音を残して弾かれる。
「せいぎだ、そして、へんかくだ! 」
舌打ちと共に、距離を置いたバガジの右手から放られたのは、銀色に輝く戦斧。回転しながら飛来するそれを、デミドルジラドは槍で払おうとしたのだが。
「避けてください! 」
サクラの手当てを続けるリチャード少年から、鋭い警告が飛ぶ、彼は咄嗟に身を躱し、空を切った斧は、大きく弧を描いて、空に舞い上がった。
「また戻って来ます、気を付けて! 「飛び魚」は、一度放たれると、何かに命中するまで、自動的に目標を追うのです、ですが、迂闊に受ければ槍が折れるでしょう、上手く受け流してください! 」
少年の忠告通り、通り過ぎた斧は、後方からデミドルジラドに襲いかかった。彼は細心の注意を払い、槍の穂先で横面を叩く。
「ちっ、この餓鬼、何処で聞いたんじゃ……バガジ! そっちは任せるけぇ、俺は先に辛島ジュートを殺る! 」
ランブルストンは、腰の小剣を引き抜いたのだが、言葉の割に、襲い掛かってくる気配は無い。訝しんだ少年であったが、今は好都合であろうか。
「ナスタチュームさん、今は共闘しましょう、僕の代わりに、これでサクラを守って下さい」
少年が放り投げたのは、サクラの愛刀である。豪奢な拵えの打刀であるが、ナスタチュームが扱うには、やや、小振りであろうか。
「分かった、借りるけぇ……すまんちゃ、こないなこと、これも、借りじゃ」
抜刀したナスタチュームは、申し訳なさそうに、軽く頭を下げた。しかし、それを上げた彼女は、直ぐに戦士の顔を作り出す。
「ぐるあぁ! ランブル! へちめいじゃるけぇの! そこ、動くなぁよ! 」
天を向いて吠えた彼女は、怒りに燃えて走り出すのだが。
「とぅるるらるらる」
小鳥の囀りの様に、可愛らしい声。
しかし、舞い降りたのは、翼持たぬ白毛の大猿であった。どしん、と技場に降り立ち、とぅるとぅる、と牙を剥いて彼女を威嚇する。
「なんっじゃこりゃあ! 山ぐまか、なんで、ランブル、まさか」
「五党座の族長は、山ぐまと契約できるんじゃあ! できんかったのは、お前の、糞の親父だけなんじゃ! ……こいつらがおれば、クロスロードなんぞに負けんかった! 親父も、お袋も、爺ちゃんも、婆ちゃんも、みな、死なんで済んだんじゃ! お前らのせいなんじゃ、くそが、分かっちょんか! 」
とぅるる、と鳴きながら、二匹目の山熊が降ってくる。アドルパス以上の巨体でありながら、まさに猿の如き身のこなし、太い腕は長く、逆に脚は短い、全身を覆う体毛は白く、しかし、顔と指先からは、真逆の黒い肌をのぞかせていた。
体格は猿、顔は熊に近いだろうか、北嶺山脈に君臨する、伝説の魔獣である。
(いけない……戦力が違い過ぎる、これでは、負ける……せめて……)
御用猫は居ない、ホノクラちゃんには頼れない、しかし、サクラを見捨てて戦列に加わる訳にもいかぬのだ。少年は、その端正な顔に、焦りと絶望の色を浮かべた、これでは、全くの手詰まりなのだから。
しかし、救いの手は、地獄から伸ばされた。
「うぅん? せめて、なにかね? ぐふふ……お姉さんに話してごらん? 」
突然に、背後から声をかけられ、少年が飛び跳ねる。
「ち、チャムさん! 」
「ほいほい、チャムさんですよぅ、こっちはやっとくから、早く行っといで」
この卑しい悪魔も、少年の目には天使に映ったであろうか、一度だけ頭を下げると、リチャード少年は手近に転がる木剣を拾い上げ、胸の前で刀身を撫でる。
「おいで、くるぶしッ! 」
癒しの呪いを中断した為、使い魔を召喚する事ができたのだ。彼の影から、中型犬程に成長した月狼が現れる。
これで頭数だけは互角であろうか。
リチャード少年は、諦めかけた己の不甲斐なさを恥じ、弱気を追い出すかの如く、自らの頬を叩く。
山の反対側とは違い、雪はちらつく程度であった。南から訪れる春の気配を追い風に、少年は大地を踏みしめたのだった。




