うでくらべ 3
御用猫は、遂に勝利した。
力尽き、地に伏した敵を確認すると、自らも、がくり、と両手を付き、荒い息を何度も吐き出すのだ。
(正直、危なかった)
びっしょり、と濡れた全身は、疲労の為だけではあるまい、なんとか勝ちは拾ったものの、その結果は紙一重の僅差であり、おそらく、再びまみえたならば、どう転ぶかは、彼にも予想がつかないのだ。
田ノ上老から教わった技術の全てを吐き出し、少々姑息な、裏の技さえ使ってみせた御用猫であるが、それを卑怯だと罵る者は、少なくとも、この死闘を目の当たりにした者ならば、決して、口にはせぬであろうか。
「……先生、どうぞ」
おそらくは、彼女もそうであったのだろう。ことり、と差し出された冷水を、御用猫は身体を起こして、ひと息に呷る。何かの果汁を加えられたものか、その仄かな甘味と酸味は、つるり、と喉を通り過ぎ、胃の腑にまで染み渡るようで、ようやくに、彼は、自らの生命を実感したのだ。
「ぐぅ……まさか、これ程に豹変するとは……あまり、間を空けるのは、まずいかも知れないな、まじで」
「だから、私は言ったのです、カンナ様を、もっと抱くべきだと」
薄手の掛け布を、彼女の骨ばった肢体に、そっと載せながら、御用猫は切子をみつばちに突き返し、お代わりを要求する。外は、既に太陽の昇りきった時間であろう、木戸から射し込む明かりに、彼は時間の感覚まで消失していたのかと、今更ながらに戦慄するのだ。
とはいえ、まだ気温は低いままであろうか、呪いで温度の調整された室内は、心地良い温かさではあったのだが、急速に引いて行く汗に体温を奪われた御用猫は、部屋に置かれた火鉢に近寄り、ゆるゆる、と手をかざして暖をとる。
再び差し出された冷水を、今度は少しづつ流し込みながら、こきこき、と首を鳴らし、御用猫は横目でみつばちを眺めた。長い緑の黒髪を、今は無造作に背中に垂らし、その黒曜石のように深い輝きの瞳を、じっ、と彼の方に向けている。
先日、里帰りから戻ってきた彼女は、以前と変わらず精力的に、彼に尽くしてくれている、いや、その働きぶりは、前にも増して。
(なんというか、真摯であるような)
そう、御用猫は感じていた。久し振りに会った為に、そう思うのかも知れない、確かに、態度には少々難があるだろうが、彼女はいつでも、彼の為に全力で仕事をこなしてくれているのだ。
この、くノ一とも、顔を合わせてから、半年付き合ってきている。今まで、彼女を観て、共に過ごし、その心情心根にも、多少なりと触れてきたつもりである。
だからこそ、御用猫は気付いた。
「なぁ、みつばちよ……今日は、言わないのか? 」
「それは、もちろん、そのつもりです、常にこの身は清めておりますし……ですが、先生もお疲れ様のご様子、私は尽くす女ですので、無理は言わぬのです、どうですか、慎ましいでしょう、いじらしいでございましょう」
きちっ、と浴衣を着込み、正座するみつばちは、少しだけ、得意げな表情を見せる。残りの水を飲み干すと、御用猫は、しかし、こちらも同じ表情を作って見せるのだ。
「そうだな、そんな、いじらしいみつばちには、報いてやらねば……なに、心配はいらないさ、野良猫の体力なめんなよ」
ぐい、と彼女の手を引き、抱き寄せる。
「あっ、いえ、先生、私は、後で構いません、もっと余力のある時に、それはもう、ねっぷりと、愛してくださいま……」
「嘘を言え、お前ほどの好きものが、我慢できるはずもあるまい? 久し振りだからと、遠慮しているのだろう」
そのまま、御用猫は彼女を押し倒し、脚の間に割り込むように覆い被さる。みつばちの解いた黒髪が、布団の上に散らばり、少し上気した白い肌と、対照的な黒花を咲かせていた。
「あの、先生、ご無理はなさらず、ほんとうに、少し休まれてからで……んっ! 」
首筋に吸い付かれ、みつばちは、びくり、と身体を震わせた。いつの間にか、帯も解かれてしまっている、実に見事な野良猫の手際であるのだ。
緩んでしまった襟の合わせから、御用猫の手のひらが、浴衣の下にまで進入してくる。その、少々、小振りな丘に熱を添えられると、みつばちは、遂に諦めたものか、ぎゅう、と肩を強張らせるのだ。
「……どうした、生娘でもあるまいに、いつものように、悦んで見せたらどうだ? 」
「あ、いえ……お情けを頂くのも、しばらく振り、でしたので」
遠慮がちに、というか、ぎこちなく御用猫の身体に腕を回し、きゅう、としがみつく彼女の胸は、早鐘の如く心臓を打ち鳴らし、弾けてしまいそうな程であるのだ。
御用猫は、彼女の耳元に口を寄せると、優しげな声音にて囁いた。
「動くなよ……おかしな真似をすれば、このまま心臓に、突き立てる」
みつばちの、左の乳房に添えられた、御用猫の右手の親指だけが、正確に心臓の上に立てられていた。既に呼吸も整えてあるのだ、この状態で、彼の「穿指」からは逃れられぬであろう。
「……先生、ご冗談ならば……それとも、新手のお遊び、でしょうか? 」
「みつばちを、何処へやった? 答えによっては、貴様らの里ごとに、皆殺しも有り得ると知れ……良く考えてから、返事する事だな、三秒やる、納得させろ」
みつばちを騙る女は、その瞳に、驚愕と、恐怖の色を浮かべた。当然であろうか、彼女の知る御用猫の情報に、これ程の、圧と殺意を持った眼を見せるなどと、一文も記されてはいなかったのだから。
(皆、見誤っている……これは、この方の本質は)
「さん……にい……」
ゆっくりと、目の前の悪魔が、数を数え始める。おそらく、この秒読みが終われば、自分の命は無いだろう、そして、この悪魔は、里に乗り込み、全ての命を奪い去るのだ。
本能的に理解した女の口からは、淀みなく、言葉が紡がれた。志能便としては、有るまじき行為であろうが、何故か、そこには、逆らえぬものがあったのだ。
「さんじょう、と申します! みつばちの妹です! 姉は、未だ総括の最中であり、代理として! 」
半ば悲鳴のような、その返答に、悪魔の秒読みは止まるのだ。
「何故、みつばちの、振りをした」
「……それは、あの、姉様が、私が居ないと、御用猫の先生が、浮気をするからと……男は、安心させては、いけないものだと……」
そこまで話すと、ようやくに、目の前の悪魔から、殺気が消えたのだ。さんじょうは、ほっ、と安堵の息を漏らす。
「ふぅん……まぁ、嘘は吐いていないか……あいつなら、確かに言いそうでもあるし……そうか、悪かったな、脅かしてしまったか」
小振りではあるが、形も張りも良く、手の平に吸い付いてくるような、それ、を揉みしだきながら、御用猫は考える。
(しかし、妹と言ったか、例え双子だとしても、これ程に似るものなのか、途中まで、全く気付かなかった……やはり、忍者供は油断ならぬな)
「あ、あの……先生……」
浴衣をずらすと、白い肩が露わになる。首元から鎖骨を通り、肩まで続く滑らかな曲線は、見事な美しさであった。
細くとも鍛えられた筋肉の上に、絶妙な分量にて載せられた脂肪が、女性らしいなだらかな稜線を生み出し、何とも言えぬ、艶かしさである。指を這わせれば、手掛かりはなく、しっとりと濡れたような感触と、仄かな温もり。
「んっ、あの、御用猫の先生……私、さんじょう、です」
「そうなんだ」
身体を捻るさんじょうに、体重をかけて押さえ込むと、御用猫は、その鎖骨に吸い付いたのだ。
「あっ、やだ、先生、私、姉様ではありません、あの、こういった事は、わたし、まだ」
「ふぅん、でも、お前は人を騙してた訳だしなぁ……少し、罰を与えないとなぁ」
にやにや、と嫌らしい笑いを顔に浮かべ、御用猫は、さんじょうと名乗ったくノ一を眺める。彼女に罪は無いだろうが、見事に騙されてしまった事は、やはり腹立たしいのだ、多少の意趣返しは、許されるであろう。
「……はい……確かに、その通りです、ごめんなさい、私が、ちゃんと姉様を窘めていれば……わかりました……でも、お願いします、あの、どうか……初めてなのです……優しく、してください」
(あ、これは、いかん)
観念したように脱力した、さんじょうは、目の端から涙を零したのだ。なまじ、同じ顔をしていた為に、調子に乗ってしまったのだが、どうやら、この娘は、みつばちとは違い、あまり、こういった冗談の、通じぬ手合いであるようなのだ。
「あ、あぁ、すまなかった、冗談だ、これは悪い冗談なのだよ、お前の姉と同じにして、少しばかり、調子に乗ってしまったのだ、手を付けるつもりは無いから、安心してくれ、悪かったな」
御用猫が、身体を離して謝ると、涙を流しながらも、しかし、さんじょうは何か、困ったような表情を見せるのだ。
「ぐすっ、本当ですか? ……でも、それはそれで、なんだか、女としては、複雑です」
「お前も結構めんどくさいな」
こういった所は、やはり姉妹であろうか、御用猫は、やれやれ、と溜め息をひとつ、起き上がろうとしたのだが。
その段になって、ようやくに気付いたのだ、廊下を走る足音に。この距離では、もう間に合わないだろう。
「猫っ! 探したぞ、聞いて欲しい、事が、ある……の、だ……」
「あいたー」
すぱぁん、と勢いよく跳ね開けられた襖の向こうから、現れたのは。
「……わ、私は、寛容な女だから……うん、男の人は、そういったものだって……しってる、ははうえも、よく、ひめさまも……」
「うわぁ、困ったなぁ……いきなり開けるのは駄目だよって、いつも言ってたんだけどなぁ」
襖を開けた姿勢のまま、固まってしまったリリィアドーネを、どうするべきか。しばし、御用猫は考え。
「とりあえず、さんじょうよ……お酒あるかな? 」
「はい、了解しました」
この、新たな志能便に、初めての仕事を命じたのであったのだ。